第28話 検査済シール
合宿所のフロアに響き渡ったのは、革靴が床を打ち鳴らす無遠慮な足音と、薄ら笑いを含んだ冷ややかな声だった。
「三トンの水をステージに持ち込むのは、現行案のままでは認められません。漏水、漏電、避難導線の三点を、種族に関係なく同じ安全基準で確認します」
CIR運営委員会から派遣された安全管理部の監査員は、フロアの中央に設置されたルナのパフォーマンス用アクリル水槽をペン先で叩きながら、吐き捨てるように言った。
漏水や漏電は、一万人規模の会場でなくとも見過ごせない正当な安全懸念だ。一方、同行した運営スタッフの一人が漏らした「水棲種族の見世物」という言葉には、明らかな偏見があった。背後に誰かの圧力があると疑う声も出たが、現時点で証拠はない。ユウトは意図の推測ではなく、審査項目そのものを分けて対応すると決めた。
本戦まで残りわずか。ここで安全審査の許可が下りなければ、ルナはCIRのステージに立つことすらできない。それはユニティにとって致命的な欠落を意味していた。
「電源やケーブル類の配置は、水槽から規定の三メートル以上離して設計しています。万が一の漏水時にも、電気系統には影響しません」
相楽ユウトは手元のタブレットで図面を示しながら、監査員の目を真っ直ぐに見据えて反論した。
「安全基準に関するご指摘は真摯に受け止めます。ですが、あなたの言う『相応しくない』というのは、大会レギュレーションのどの項目に違反しているのでしょうか」
「……口の減らないマネージャーだ。だが、危険なものは危険だ。このままの構造では、本戦での使用許可は絶対に出せませんね」
監査員はユウトの論理的な指摘を無視し、権力という壁で強引に押し潰そうとしてきた。
空気が張り詰める中、ユウトがさらなる代替案を提示しようと口を開きかけた時だった。
スッと、彼の前に一つの影が出た。
ルナだった。
彼女は監査員を見据え、その両手を鋭く、そして力強く動かした。決して「声が出せないから黙っている」のではない。手話という明確な言語で、自らの意思を叩きつけたのだ。
『私は、危険な完全水槽には固執しません』
ユウトが言葉を翻訳すると、監査員が怪訝そうに眉をひそめた。
ルナの手が、流れるように空間を舞う。
『私が表現したいのは、水の中にいる珍しい姿を見せることではありません。私の手話と、水面の反射が交わる光景を届けることです』
ルナは、自分の表現の核がどこにあるのかを完全に理解していた。巨大な水槽で泳ぎ回ることは、パフォーマンスの手段の一つにすぎない。
『水量を半分にしてください。私の腰の高さまで水があれば、私は十分に表現できます』
自ら水量を減らし、リスクを大幅に下げるという最低条件の提示。
そこに、重い工具箱を肩に担いだドワーフ、メイプルが歩み出てきた。
「そういうことなら、話は早い」
メイプルは持参した図面を、監査員の目の前にバンッと広げた。
「水量を半分に落とした上で、さらに外側を強化アクリルで覆った『二重槽構造』にする。万が一内側の水槽にクラックが入っても、外側の槽がすべての水を受け止める。さらに、ステージの構造を利用して、外槽から直接地下の排水溝へ繋がる避難導線のパイプを設置する。これで、ステージ上に水が一滴たりともこぼれない仕組みが完成だ。どうだ、文句あるか」
ルナの妥協点と、メイプルの確かな技術力による裏付け。二人の連携が生み出した構造に、監査員はぐうの音も出ない様子で図面を睨みつけた。
ユウトは、とどめを刺すように最後のカードを切った。
「さらに、この二重槽構造と避難導線について、明日、国の認可を受けた第三者機関の強度検査を入れます。本番で規定の半水量を超えた場合や、センサーが異常を感知した場合には、瞬時に強制排水を行い、水を使わない代替のドライ演出プランへ移行するシステムも組み込みます。これなら、安全基準を完全にクリアしているはずです」
感情論でも、不当な圧力への抗議でもない。
ルナの意思、メイプルの設計、そしてユウトの用意した監査と法的な裏付け。それらが完璧に組み合わさった提案の前に、監査員はついに反論の余地を失った。
「……分かりました。ただし、第三者機関の検査証明書が提出されることが絶対条件です。水量は半分まで。現段階では、条件付きの保留とします」
監査員は忌々しそうに懐からシールを取り出し、ルナの水槽の端に乱暴に貼り付けた。
そこには『安全審査:条件付保留』と印字されていた。
決して完全勝利ではない。演出の規模は半分に制限され、直前まで検査のクリアという綱渡りが続く。
だが、不当な難癖でステージを奪われる危機は、彼女たち自身の選択と技術によって見事に回避されたのだ。
「……よかったな、ルナ」
監査員たちが去った後、メイプルが工具箱を下ろしながら息を吐いた。
ルナは水槽に貼られた無骨なシールを、まるで勲章のように愛おしそうに撫でた。そして、振り返ってメイプルとユウトに向かい、胸の前で両手を重ねる『感謝』のサインを、深く、何度も送った。
半分の水。それで十分だ。彼女の尊厳と表現の場は、確かな仕組みによって守り抜かれた。
ダッシュボードの表示を更新する。水槽演出のステータスは『半水量で条件付き保留』。
これで、七人全員が欠けることなく、CIR本戦のステージに立つことができる。
数日後。
CIR本戦の会場となる、都内の巨大なアリーナ施設。
本番当日の朝、会場入りするために最寄り駅に降り立ったユニティの七人とユウトは、その光景に言葉を失い、足を止めた。
駅のコンコース、会場へ続くストリートの巨大なビルボード、そして交差点のデジタルサイネージ。
視界に入るありとあらゆる大型の広告面が、圧倒的な資金力によって完全に買い占められていた。
そこに映し出されていたのは、金糸の装飾を纏い、冷ややかな視線で見下ろしてくるハイエルフ三人組――『ELDORADO』の美しい姿と、本日のステージを告知する洗練されたコピーだった。
本戦の会場周辺は、すでに彼女たちの色と空気に完全に支配されていた。
資本力と政治力の、圧倒的な暴力。
それを前に、ユウトは静かに息を吸い込み、手元のタブレットを開いた。




