第20話 百六十三人の一曲
『おこづかいをためて、はじめてじぶんのおかねで、ゴルガさんたちの曲をかいました。すごく、うれしいです』
不器用なオークの似顔絵をアイコンにしたアカウント『ハナ』の投稿は、夜のタイムラインにひっそりと落とされた、小さな水滴に過ぎなかった。
学校で低い声と大柄な体をからかわれ、ずっと声を小さくして生きてきた十二歳の少女。彼女にとって、三百円というお小遣いを使って楽曲をダウンロードすることは、自分の背中を押してくれた大きなオークの女性への、精一杯の感謝と応援の証だった。
CIR新人枠の選考において、それはわずか『3pt』に換算される。
だが、その水滴は静かに波紋を広げ始めた。
ハナの投稿を引用する形で、あるアカウントが言葉を添えたのだ。
『俺たちの現場をいつも静めてくれる、でっかい恩人の歌だ。缶コーヒー一本分我慢すりゃ買えるんだろ? 安いもんだ』
東京湾岸の建設現場で働く職長、田辺修一だった。
彼は夜勤明けのプレハブ小屋で、泥だらけの作業着のままスマートフォンを操作し、ダウンロード購入のボタンを押した。彼の周りにいた数人の職人たちも、「あの低音には世話になってるからな」「お、俺も買うわ」と次々に画面をタップし始める。
事務所の片隅で、相楽ユウトは息を詰めてダッシュボードを見つめていた。
シルヴィアが帰還し、一時的な熱狂によって急伸した推しポイントは『49,512』で完全に停滞していた。CIR新人枠のエントリー締め切りまで、残された時間はあとわずか。
企業スポンサーの太い資金や、熱狂的な富豪の投げ銭が一度に入れば、通過まで最低四百八十八ポイントという差など一瞬で吹き飛ぶ数字だ。だが、ユウトはそうした「作られた一撃」を意図的に排除していた。彼らが求めているのは、彼女たちのパフォーマンスが一般層にどれだけ届いているかという、純粋な市場の答えだ。
「……動いた」
ユウトの背後で、タブレットを抱えたミラが小さく声を上げた。
ハナの3ptから始まった波紋が、田辺たち職人の購入によって15pt、24ptと確実な脈動を始めている。
その脈動は、一つのコミュニティに留まらなかった。
ミラの触角配信を研究対象として見ていた理系の学生が、『彼女の不合理な感情ノイズへの投資』と称して一曲を購入した。
ルナの手話動画に励まされていた聴覚障害を持つ青年が、『音は聞こえないけれど、彼女の指先が歌っているのが分かるから』とダウンロードボタンを押した。
カレンの地下ライブ時代の常連客が、『メジャーに行っても、あの鋭い影の歌は変わってないな』と酒の席で購入履歴のスクリーンショットをアップした。
メイプルの打ったマイクの耐久性に驚愕した音響機材のオタクが、ニコの雨天ライブでの笑顔に救われたという通りすがりの会社員が、それぞれの生活の中で、彼女たちの歌を一曲だけ手に入れていく。
百六十三人。
顔も、年齢も、種族も、住んでいる場所も全く違う百六十三人が、それぞれ異なる理由で、しかし確実に彼女たちのパフォーマンスに価値を見出し、一つの楽曲を選択したのだ。
ナナホシプロの会議室に、七人のメンバーが集まっていた。
日付が変わる直前。締め切りのタイムリミットが秒読み段階に入っている。
ゴルガが祈るように太い手を握り合わせ、ニコが尻尾の動きを完全に止めて画面を凝視している。ルナは胸の前で両手を組み、カレンは無表情を装いながらも足元の影を激しく揺らしていた。メイプルは腕を組み、ミラは触角を祈りのように静かに明滅させている。シルヴィアは翠の瞳をまっすぐにモニターへと向けていた。
ユウトは自動更新システムを切り、手動の更新ボタンに指を置いた。
「システムからの自動通知は待たない。俺たちの手で、結果を確かめる」
百六十三人分の想いが乗った、最後の一曲の反映。
ユウトが静かにエンターキーを叩いた。
画面が暗転し、コンマ数秒のローディング表示の後、真新しい数字が弾き出された。
『50,001 pt』
静寂が、会議室を包んだ。
誰かが息を呑む音がした。
「……超えた」
ユウトが短く、震える声で告げた。
次の瞬間、爆発的な歓声が上がった。
「やったあああっ! いきました、五万ポイント!」
ニコが泣きながら飛び跳ねて尻尾をちぎれんばかりに振り回し、ゴルガがその大きな体でニコとルナをまとめて抱きしめた。ルナは音のない歓喜の涙を流しながら、強く、強く抱き返している。
メイプルがガッツポーズを作り、カレンが「……悪くない気分ね」と顔を背けながらも口元を綻ばせた。ミラは触角を鮮やかな虹色に輝かせ、「論理的予測を凌駕する不確実性の勝利です」と早口でまくし立てている。
そして、シルヴィアがユウトに向き直り、小さく、しかし確かな敬意を込めて微笑んだ。
「……私たちの勝ちね、マネージャー」
異種族プロジェクトの九十日以内の廃止は免れた。
たった一人の少女の三百円から始まった、百六十三人の一曲の連鎖。百六十三ダウンロード掛ける三ポイントで、四百八十九ポイント。必要な四百八十八を、一ポイントだけ上回る数字だった。
それが、49,512ptで停滞していた彼女たちを、50,001ptという絶対の壁の向こう側へと押し上げたのだ。
「ああ、勝った。これでCIR新人枠への出場権は確定だ」
ユウトは歓喜に沸く七人を見渡し、深く息を吐き出した。
かつて数字で一人の歌姫を傷つけた男が、今度は数字で七人の居場所を守り抜いた。
だが、この業界の勝負は、一つの山を越えればすぐに次の絶壁が現れる。
ユウトのスマートフォンが振動し、CIR運営委員会からの通知メールが届いた。
予選のブロック分けと、出場グループのリストだ。
「皆、聞いてくれ。予選のブロック分けが発表された」
ユウトの声に、七人が静まる。
「俺たちはCブロックだ。そして……同じブロックに、この名前がある」
ユウトがモニターに表示させたリストの一角。
そこに記されていたのは、五洲エンターテインメントが誇る、人間女性五人組のトップアイドルグループの名前だった。
『CROWN LILY』
純白の衣装と精密な同期を武器にする、絶対的な王者。
シルヴィアが引き抜かれそうになった古巣であり、ユウトの過去の上司である黒崎が手塩にかけて育て上げた最強の競合勢力。
「個性だけでは勝てない相手だ」
ユウトの言葉に、メンバーたちの表情が引き締まった。
予選通過条件は、上位十二位以内に入ること。
歓喜の余韻はそこまでだ。五万ポイント作戦を乗り越えた彼女たちの前に、完成された正統派ライバルという、次なる巨大な壁が立ちはだかっていた。




