第19話 許さないまま選ぶ
事務所の片隅に置かれたモニターには、残酷なほど静止したままの数字が映し出されていた。
推しポイント(pt)『43,600』。
シルヴィア・エーデルシュタインが一時的に活動から離脱して以来、この三日間、ダッシュボードの成長曲線は完全に水平を保っていた。CIR新人枠の締め切りまで、残された時間はあと七十二時間を切っている。
メインボーカルを欠いたままの配信や小規模な営業は、ファンの熱を辛うじて繋ぎ止めてはいたが、爆発的な数字の伸びを生み出すには至らない。残りの六千四百ポイントをどう稼ぐか、いや、その前に彼女の契約問題をどう着地させるかが、相楽ユウトに突きつけられた最大の課題だった。
深夜の誰もいないレッスンスタジオ。
ユウトが一人で機材の点検をしていると、背後の防音扉が静かに開いた。
銀色の髪を揺らし、シルヴィアが足音も立てずにフロアへ入ってくる。その表情は硬く、翠の瞳には以前のような警戒の色が戻っていた。
「……わざわざ呼び出して、何の用かしら。五洲エンターテインメントの移籍に関する手続きの話なら、代理人の弁護士を通してもらうわよ」
冷たい声音だった。
ユウトは音響卓の電源を落とし、彼女に向き直った。その手には、昨日まで彼が必死に徹夜で作っていた『比較表』はない。
「移籍の手続きなら、ここにまとめてある」
ユウトがテーブルに置いたのは、五洲商事時代に培った法務知識を総動員して作成した、移籍に伴う権利保護の覚書だった。
「もし君が五洲へ行くなら、この書類を黒崎社長に叩きつけてくれ。君の楽曲の権利、スケジュールの決定権、そして母国への帰還の自由。それらを完全に保証させるための防波堤だ。これを使えば、君が二度と不当な契約に縛られることはない」
シルヴィアは怪訝そうにその書類を見下ろした。
「……引き留めるための、新しいプレゼン資料じゃないのね」
「ああ。引き留めるつもりはない。昨日、君に言われて気づいた。俺は過去の罪滅ぼしのために、また君を『数字』と『条件』という客観的な檻に閉じ込めようとしていた」
ユウトは書類から手を離し、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「だから、今日は数字の話は一切しない。条件の比較もしない。ただ一つだけ、君に聞きたい」
ユウトは静かに、だがはっきりと問いかけた。
「シルヴィア。君自身は……本当は、どうしたい?」
その問いに、シルヴィアはわずかに息を呑んだ。
条件でも、事務所の都合でもなく、彼女個人の望み。それをストレートに問われたのは、この日本へ来てから初めてのことだったかもしれない。
「……五洲の条件は、完璧よ」
シルヴィアは視線を逸らし、ぽつりとこぼした。
「最高のスタジオ、世界展開。エルフの歌姫として、誰もが羨むような完璧なステージが約束されている。……でも、そこにはきっと、泥臭い金属音も、不器用な手話も、うるさいくらいに振られる犬の尻尾もないわ」
彼女の脳裏に浮かんでいるのは、不格好で、全く揃っていなくて、それでも絶対に互いの音を殺し合わない、あの七色のステージだった。
「私は、エルフの象徴として消費されるために歌ってきたわけじゃない。私の歌で、誰かと響き合いたかったの」
シルヴィアは顔を上げ、ユウトを鋭く睨みつけた。
「勘違いしないで。私は、あなたが過去に私から三年間を奪ったことを、許したわけじゃない。あの冷酷な収益予測表を作ったあなたの罪は、絶対に消えないわ」
「ああ。分かっている」
「許さない。でも……」
彼女はテーブルの上の『移籍手続きの書類』を、指先でツーッとユウトの方へ押し返した。
「私は、今の六人と、私の歌を選ぶわ。あんな未完成な連中、私が真ん中で支えてあげないと、すぐに空中分解してしまうもの」
それは、過去の和解でも、主人公への盲目的な従属でもなかった。
彼女自身が、自らの意思と誇りを持って、ナナホシプロという『現在』を選び取った瞬間だった。二人の間には、決して馴れ合いにならない、緊張感のある信頼が結ばれた。
翌日の夜。
一時的に活動を休止していたシルヴィアの復帰配信が、緊急告知された。
カメラの前に七人が並んだ瞬間、待機していた数万人の視聴者から安堵と歓喜のコメントが滝のように流れ始めた。
「心配をかけてごめんなさい。でも、私はもうどこにも行かないわ。私たちは七人で、CIRのステージに立つから」
シルヴィアの誇り高い宣言に合わせ、六人がそれぞれの音を鳴らす。
休止していた反動は凄まじかった。彼女が自分の意思でこの場所を選んだという事実が、ファンたちの熱量を限界まで引き上げたのだ。
既存ファンによる楽曲の購入、グッズの追加発注、そして配信チケットの購入が、まるで堰を切ったように怒涛の勢いで押し寄せる。
ユウトはPAブースで、目まぐるしく更新されるダッシュボードの数字を見つめていた。
44,000。46,500。48,000。
数字は恐ろしい速度で跳ね上がり、そして――『49,512』という数字で、ピタリと動きを止めた。
復帰特需の熱が収束し、既存ファンが出せる資金の限界に達したのだ。
CIR新人枠エントリーの締め切りまで、残りわずか。
通過に必要なのは、あと488ポイント。ただし、楽曲ダウンロードは一件3pt単位だ。486ptでは届かず、越えるには最低でも489ptが必要になる。
たったそれだけの数字が、果てしなく遠い絶望の壁となってユウトたちの前に立ちはだかっていた。配信の同時接続数も徐々に落ち始め、これ以上の大きな数字の伸びは論理的に予測できない。
「……ここまで、なのか」
ユウトの手にわずかに力が入り、タブレットの端をきつく握りしめた。
その時だった。
ユウトの視界の端、SNSのタイムラインを監視していたモニターに、一つの小さな投稿が流れてきた。
アカウントのアイコンは、不器用に描かれたオークの似顔絵。
名前は『ハナ』。
以前、ゴルガに宛てて「あなたの声に憧れて歌ってみた」と手紙を送ってくれた、あの十二歳のオークの少女だった。
『おこづかいをためて、はじめてじぶんのおかねで、ゴルガさんたちの曲をかいました。すごく、うれしいです』
添えられていたのは、三百円の楽曲ダウンロード購入を証明するスクリーンショット。
ポイント換算にすれば、たったの『3pt』。
しかし、その純粋でささやかな一曲の購入報告が、奇跡のような連鎖の最初の引き金になることを、ユウトはまだ知らなかった。




