第18話 歌姫への破格契約
雨に濡れたアスファルトを滑るように走る、漆黒の高級車の後部座席。
革張りのシートに深く腰掛けた五洲エンターテインメント代表取締役・黒崎豪は、一枚のファイルをシルヴィアへ差し出した。
「これが、君の新しいステージの設計図だ。シルヴィア・エーデルシュタイン」
シルヴィアは警戒を解かないまま、手元のルームランプの明かりでその書類に目を落とした。
そこに記されていたのは、息を呑むような破格の条件だった。
業界最高峰の専用レコーディングスタジオの提供。海外トップクリエイターによる楽曲提供と、アジア・北米を見据えた国際ツアーの確約。そして、ナナホシプロの事業規模を遥かに凌駕する、専属アーティストとしての巨額の最低保証報酬。
「……これは、何の冗談かしら。かつて私を三年も塩漬けにした会社が、今更こんな条件を出すなんて」
「ただの市場評価だよ。ナナホシプロの動画で、君の歌声がいまだに純度を保っていることを確認した。あれほどの才能を、素人の寄せ集めみたいな地下グループで消費させるのは市場の損失だ。うちのインフラを使えば、君を本当の世界的歌姫にしてみせる」
黒崎の言葉に、嘘や誤魔化しは一切なかった。
提示された契約に、彼女を縛り付けるような違法な罠や、一方的な搾取の条項はない。純粋に彼女の才能を高く買い、最大の利益を生み出すための、完璧に合法で合理的な取引だった。
翌朝、ナナホシプロの会議室。
シルヴィアから五洲の契約書を手渡された相楽ユウトは、無言で書類のページをめくっていた。
CIR新人枠の締め切りが迫る中、現在の推しポイントは四万三千強。目標の五万まであと一息というこの時期に、メインボーカルでありグループのまとめ役でもあるシルヴィアが引き抜かれれば、プロジェクトは間違いなく瓦解する。
重苦しい沈黙の後、ユウトは昨晩から徹夜で作成した数枚の資料を机に広げた。
「五洲の契約書を精査した。……黒崎社長の提示した条件は、本物だ」
ユウトは二つの円グラフやリストが並んだ『比較表』を、シルヴィアの前に滑らせた。
「これが、五洲へ移籍した場合と、うちに残った場合の比較データだ。報酬、制作予算、流通網の広さ、どれを取っても現状のナナホシプロは五洲に太刀打ちできない。対してうちが提供できるメリットは、九十日間の試行契約に入れた『活動の完全な拒否権』と『私生活・文化の非利用』といった権利面だけだ。だが、五洲のこの契約内容なら、君の尊厳を致命的に傷つけるような扱いはされないはずだ」
ユウトは淡々と、客観的な事実だけを説明していく。
かつてのように、自分の都合で彼女の選択肢を奪ってはいけない。だからこそ、すべての情報を隠さず提示し、彼女自身に一番良い条件を選んでもらう。それが、彼なりの過去への贖罪であり、誠意だった。
「だから……この比較表を見て、君自身のキャリアにとってどちらが有益か、判断してほしい」
ユウトが説明を終えた瞬間だった。
「……最低ね」
シルヴィアの声は、氷のように冷たく、そしてかすかに震えていた。
彼女の翠の瞳が、怒りと失望を湛えてユウトを射抜いている。
「相楽ユウト。あなたはまた、私を数字と条件の天秤にかけたのね」
「……ッ!」
「あなたはゴルガをスカウトした時、最初に『あなたはどうしたい?』と聞いたはずよ。でも、私には違う。私が何を望んでいるかを聞く前に、また自分が作った条件の比較表を突きつけてきた」
シルヴィアは机上の比較表を乱暴に払いのけた。
「自分は客観的な情報を渡して、選択肢を与えたつもりなんでしょうね。でも、結局のところ、あなたがやっているのは『数字で私を評価する』という、五洲にいた頃のやり方と何も変わっていないわ」
ユウトは息を呑み、言葉を失った。
彼女の言う通りだった。自分の意思を押し付けて過去の過ちを繰り返すことを恐れるあまり、彼は「数字」という絶対的な客観性に逃げ込み、彼女の「心」と向き合うことから逃げていたのだ。
「すまない……」
ユウトは深く頭を下げた。引き留める言葉を口にする資格は、今の自分にはなかった。
「五洲の条件は魅力的だ。もし君が移籍を選ぶなら、俺は引き留めない。あちらで不利な契約を結ばされないよう、俺が全力で法務の精査と移籍の支援をする」
シルヴィアは少しの間、無言で頭を下げるユウトを見つめていた。
彼が自分を縛り付けようとしていないことだけは、理解できた。だが、だからといってすぐに許せるほど、彼女の感情は簡単ではない。
「……少し、一人にして。考える時間が欲しいわ」
シルヴィアは五洲の契約書だけを手に取り、静かに会議室を出ていった。
ドアが閉まる音だけが、虚しく響いた。
シルヴィアが一時的に活動から離脱した影響は、瞬く間に数字となって表れた。
メインボーカル不在により予定されていたゲリラライブは中止。SNSの更新も最低限の告知に留まり、オンラインストアへの新規流入もピタリと止まった。
ユウトが事務所のダッシュボードを更新する。
推しポイント(pt)は、わずかに既存ファンの反復行動が加算されただけの『43,600』。
グラフの成長曲線は完全に水平になり、停滞のサインを示していた。CIRの締め切りまで、残された時間はもうほとんどない。
「マネージャー。シルヴィアさんが抜けたままじゃ、フォーメーションもコーラスも成り立ちません。明日の配信はどうするんですか?」
レッスンスタジオで、カレンが苛立ちを隠せない様子で問いかけてきた。他のメンバーたちも、不安げな表情でユウトを見つめている。
「明日の配信は決行する。シルヴィアがいない六人体制でのフォーメーションと歌割りを、今から組み直す」
ユウトはホワイトボードに向かい、新しい動線を書き込み始めた。
「だが、彼女のパートを誰かで埋めるような真似はしない。彼女が立っていた場所は、そのまま空間として空けておく」
ユウトはホワイトボードの中央に、一つの空白を描いた。
「俺のミスで、彼女の心を離れさせてしまった。だが、もし彼女が五洲の巨大なステージではなく、俺たちのいびつなステージを選んで戻ってきてくれた時……すぐにパフォーマンスへ加われるように、席は空けたままにしておく」
シルヴィア抜きの計画を進めながら、同時に彼女が戻る場合の席を守り続ける。極限のスケジュールの中で、それは狂気の沙汰に近い二度手間だった。
だが、それが、数字の盾に逃げたユウトが今できる、唯一の不器用な誠意だった。




