第17話 泡沫の三時間
「きっちり三時間。それ以上は、絶対に持たない」
メイプルの宣告が、深夜の事務所に重く冷たく響いた。
水棲種族の呼吸器と皮膚が陸上の環境に耐えられる限界。それは、相楽ユウトが緻密に組み上げた『五万ポイント作戦』のスケジュールが、根底から崩壊したことを意味していた。
CIR新人枠の締め切りまで残りわずか。ここから先は、連日長時間のライブイベントや屋外での営業活動がびっしりと詰め込まれている。しかし、ルナの陸上での活動時間が一日にたった三時間しか確保できないとなれば、予定していたグループ全員での長丁場のパフォーマンスは不可能になる。
ルナの青い瞳が揺れた。
彼女は自分の水槽の前に座り込み、弾かれたように手元のスマートフォンを取り出した。真っ白な画面に、震える指で猛スピードで文字を打ち込んでいく。
『ごめんなさい。私の体が皆の足を引っ張ります。私をイベントのシフトから外してください。そうすれば……』
ユウトはルナの手から、そっとスマートフォンを取り上げた。
「謝るな、ルナ。君は何も悪くない」
ユウトはきっぱりと言い切り、長机の上に広げられたスケジュール表のコピーを、躊躇いなく真っ二つに引き裂いた。
「俺の事前調査が甘かっただけだ。長時間稼働を前提にしたこの営業計画は、今この瞬間から白紙に戻す」
「マネージャー! 白紙にするって、どうやって残りのポイントを稼ぐつもりですか!」
ミラが触角を忙しなく明滅させながら立ち上がった。
「ルナさんを外して六人で回すか、あるいは彼女の出番を物理的に削るしか、数字を維持する論理的な解決策はありませんよ」
「いいや、六人にはしない。七人でユニティだ」
ユウトは新しいホワイトボードを引き寄せ、即座に新しい線の引き直しを始めた。
「長時間のステージを、交代制のユニット・パフォーマンスに組み直す。全員が常に出ずっぱりである必要はない。ルナの陸上での持ち時間は、一回のイベントにつき厳密に三十分、一日の合計で三時間を上限として固定する」
それは、ただ出番を減らすというネガティブな措置ではなかった。
「ルナが陸上にいない時間は、彼女が得意とする短時間の『水中配信』と『手話解説動画』のストック放出に切り替える。陸上で声が出せないことを欠点として隠すんじゃない。水中という彼女だけの独壇場と、無音の手話という特異な表現を、最も効率のいいタイミングで観客にぶつけるんだ」
ユウトは振り返り、メイプルを見た。
「ルナの陸上活動をサポートするための高出力加湿ポッドと酸素補助機器。一番良いパーツを使って組み上げてくれ」
「……作る分には構わないが、見た目がかなりゴツくなるぞ。いかにも『病人を無理やり立たせています』みたいな痛々しい絵面になるかもしれない」
メイプルの懸念はもっともだった。アイドル産業において、過度な医療器具や補助機器は、無責任な同情を引く「かわいそうな小道具」として消費されがちだ。
だが、ユウトは首を横に振った。
「同情なんてさせない。これは慈善の道具じゃない。所属タレントが最高のパフォーマンスを発揮するために必要な、事務所の『正当な経費』であり『設備』だ。隠す必要はない。堂々とステージのど真ん中に置く」
ユウトの迷いのない決断に、ルナの瞳から申し訳なさが消え、代わりに強い意志の光が宿った。彼女は手話で『やります。三時間で、全部出し切ります』と伝え、深く頷いた。
数日後。
週末の合同ライブイベント。ユニティに与えられた持ち時間は一時間だったが、ルナがステージに現れたのは、中盤のわずか二十分間だけだった。
彼女の傍らには、メイプルが組み上げた無骨で巨大な加湿ポッドが堂々と鎮座し、白いミストを勢いよく噴き出している。
ルナはそのミストを全身に浴びながら、声を出さず、ただ流麗な手話と全身を使ったダイナミックなダンスだけで、観客の視線を完全に釘付けにした。
時間が短いからこそ、彼女の動きには一秒たりとも無駄がなく、密度が異常に高かった。
そして、彼女のパフォーマンスが終わりに近づいた時、客席で静かな変化が起きた。
手拍子や歓声が、波が引くように止んでいく。
代わりに、何百人もの観客が頭上で両手をヒラヒラと回転させ始めた。ルナが配信で教えた、手話における『拍手』と『称賛』のサインだった。
音のない、無数の手による大歓声。
ルナはそれを見て、自分が長くステージに立てないことを決して謝らなかった。代わりに、胸を張って最高の笑顔を浮かべ、深く、誇り高くお辞儀をした。
彼女の短い陸上パフォーマンスと、それを補完する水中配信の組み合わせは、特異な魅力としてSNSで一気に拡散された。
事務所の経費として堂々と補助機器を使う姿勢も、一部の批判を撥ね除け、「タレントを守る運営」として強い支持を集めた。
ユウトが事務所のダッシュボードを更新する。
手話動画のアーカイブ視聴と、投げ銭のコンバージョンが爆発的に伸びている。
推しポイント(pt)は『43,280』。
CIR新人枠のボーダーラインである五万まで、残り七千を切った。極限のスケジュールを、メンバー全員の特性と選択で乗り越えつつある。
だが、その日の夕方。
次の営業先へ向かうために一人で事務所を出たシルヴィアの前に、一台の黒い高級車が滑り込むようにして止まった。
後部座席の窓が静かに開き、見覚えのある鋭い目つきの男が顔を覗かせる。
「久しいな、シルヴィア・エーデルシュタイン」
五洲エンターテインメント代表取締役、黒崎豪。
かつてユウトの上司であり、シルヴィアを三年間縛り付けた張本人が、洗練された笑みを浮かべていた。
「君の今の活躍は素晴らしい。だが、あの規模の箱と予算では、君の才能はすぐに頭打ちになる。……どうだ。うちに戻ってこないか。君の世界展開を見据えた、完璧なソロ契約を用意した」
黒崎が差し出したタブレットには、ナナホシプロでは絶対に用意できない、桁違いの報酬、最高峰の制作環境、そして国際展開の確約が並んでいた。罠でも何でもない、彼女の才能を純粋に高く評価した、圧倒的な破格の条件だった。




