第15話 雨の日のセンター
灰色の空から絶え間なく降り注ぐ冷たい雨が、屋外イベントスペースのテント屋根を激しく叩いていた。
それに加えて、雨音に負けまいと音響スタッフがギリギリまで出力を上げたスピーカーからの重低音が、乱反射して暴力的なノイズを生み出している。
犬系獣人のニコ・ハウンドは、ステージの袖で小さく身を縮めていた。
通常の人間の数倍と言われる彼女の聴覚にとって、この環境は最悪だった。雨の破裂音とスピーカーのノイズが耳の中で反響し、平衡感覚すら奪いかけている。普段はピンと立っている犬耳が、痛みに耐えるように後方へペタンと伏せられ、赤い尻尾は足の間に深く巻き込まれていた。
「……ニコ、顔色が悪いわよ。耳が痛いのね」
隣でシルヴィアが心配そうに覗き込むが、ニコは無理矢理に口角を引き上げ、引きつった笑顔を作った。
「だ、大丈夫ですっ! これくらい、気合いで乗り切りますから!」
相楽ユウトは、PAテントの中からその様子を険しい表情で見つめていた。
目標の五万推しポイントまで、残り二万五千強。この無料の屋外イベントは、通行人の足を止め、新規層をファンクラブ登録へと誘導するための重要な稼ぎ口だった。
しかし、目の前のニコの身体的限界は明らかだ。
かつてのユニットで「数字が出ないから」と切り捨てられた恐怖が、彼女に限界を超えた我慢を強いている。ここで彼女を無理にステージへ立たせれば、トラウマを刺激するだけでなく、確実に聴覚に後遺症を残すだろう。
「音響、出力を下げろ。そして……今日のステージは中止だ」
ユウトの指示に、PAスタッフが慌ててフェーダーを下げた。
突然の音量低下と中止の気配に、ステージ袖のニコが弾かれたように振り返った。
「ま、待ってください、マネージャー! 私、踊れます! 絶対にやり切りますから、中止になんてしないで!」
ニコは濡れたステージに飛び出し、ユウトのいるテントに向かって必死に叫んだ。
「私がダメだからって、皆のチャンスを奪いたくないんです! お願いですから、私を……切り捨てないで!」
恐怖で震える声。それは、ただステージに立ちたいという純粋な欲求ではなく、居場所を失うことへの悲鳴だった。
「……切り捨てない」
ユウトはテントから歩み出ると、雨に打たれるニコの前に真っ直ぐに立った。
「オーディションの時にも言ったはずだ。安全基準を無視した我慢はさせない。中止にするのは、君がダメだからじゃない。この環境が、君の種族特性にとって危険だからだ」
ユウトはニコの肩に手を置いた。
「だが、俺が一方的に終わらせて、君からステージを奪うつもりもない。だから、君自身で選んでくれ」
ユウトが視線を送ると、ステージ袖から一人のドワーフが重たい足取りで歩み出てきた。
メイプル・アイアンベルだ。彼女の手には、無骨なヘッドホンのようなイヤーマフが握られていた。
「ほらよ。さっきのミラの配信の裏で、大急ぎで組み上げた」
メイプルがニコの頭にそのイヤーマフを被せる。
「工事現場用の防音材と、私の機材用の振動吸収素材を組み合わせた特製だ。これなら、不快な高音域のノイズと雨音だけを完全にカットできる。ただし……」
「ただし、オケの音もほとんど聞こえなくなる」
ユウトが言葉を継いだ。
「君の聴覚は守られるが、音楽に合わせて踊ることは極めて困難になるだろう。……それでも、このステージに立つか?」
ニコはイヤーマフに触れた。不快なノイズが嘘のように消え去り、静寂が訪れていた。
「音が聞こえないのに……どうやって踊ればいいんですか?」
「俺たちを、信じてくれ」
ニコは振り返った。
そこには、シルヴィア、ゴルガ、カレン、ルナ、ミラ、そしてメイプルが、雨に濡れながらも力強く頷いている姿があった。
彼女の尻尾が、ゆっくりと股の間から抜け出し、左右に小さく揺れ始めた。
「……やります。私、踊りたいです」
ユウトは深く頷き、PAテントへ向かって合図を出した。
「よし。全メンバー、配置につけ! オケは流すが、ニコのタイミングは『視覚』で取る!」
流れてきたのは、ニコがセンターを務める高速のダンスチューン『Bark! Bark! Beat』だった。
音が聞こえないニコに対し、メンバーたちは全く新しいアプローチで彼女を導き始めた。
ルナが手話の大きく力強い動きで、小節の頭のカウントを視覚的に伝える。
ミラの触角が、ビートの裏拍に合わせて規則正しく明滅し、メトロノームの役割を果たす。
ゴルガの足踏みが、ステージの床を物理的に震わせ、ニコの足の裏に直接重低音のリズムを叩き込む。
そして、シルヴィアとカレンが、ニコの動きを視界の端に捉えながら、彼女のわずかなズレを自分たちの動線と歌唱のタメで完璧にカバーしていく。
ニコは音が聞こえない恐怖を捨て、ただメンバーの出す視覚と振動のサインだけを信じて、ステージの中央を全力で駆け抜けた。
誰一人として無理をしていない。互いの特性を活かし、カバーし合うことで、雨という障害を見事にエンターテインメントへと昇華させていた。
客席のテント下で見守っていた観客たちは、最初は奇妙な光景に戸惑っていたが、やがてその一糸乱れぬ無音の連携と、ニコの弾けるような笑顔に魅了され、激しい手拍子を送り始めた。
そして、客席の最前列には、傘を差し、目頭を熱くしてステージを見つめる老夫婦の姿があった。
ニコの祖父母だった。孫娘がかつてのトラウマを乗り越え、本当の意味でグループの中心――皆を繋ぐ結節点として輝いている姿を、彼らは誇らしげに見守っていた。
悪天候の中での奇跡的なパフォーマンスは、SNSを通じてリアルタイムで拡散された。
「雨の中の無音カウントダンス」という話題性が、ミラの配信から続く導線に乗り、新たなファン層を次々と獲得していく。
事務所に戻ったユウトがダッシュボードを更新すると、そこには明確な結果が示されていた。
推しポイント(pt)は『29,700』。
目標の五万ポイントまで、ようやく三万の壁が見えてきた。安全対策を徹底し、本人の意思を尊重した選択が、結果として最も強固な信頼と継続視聴を生み出したのだ。
「……よし」
ユウトが小さくガッツポーズを作ったその時、事務所のドアが開いてメイプルが入ってきた。
彼女の手には、先ほどまでニコが着けていた特製イヤーマフと、いくつかの無骨な金属パーツが握られている。
「マネージャー。今日のライブの後、物販のブースで妙なことが起きたんだが」
メイプルは、複雑な表情でユウトに小さな手紙を差し出した。
「私が物販の端っこに置いてた、機材の余り材で作った鉱石のアクセサリー。あれが、妙な勢いで売れ始めたんだ。……ただ、それと同時に、親父からこれが届いた」
ユウトは手紙を受け取った。そこには、力強いドワーフの筆跡で、ただ一言、短く冷たい拒絶の言葉が記されていた。




