第12話 百人の前で
開演十分前。地下ライブハウスの薄暗いフロアには、埋まりきらない二十ほどの空席が、抜け落ちた歯のようにぽっかりと口を開けていた。
PAブースからそれを見下ろす相楽ユウトの表情は、険しかった。
炎上を逆手に取った自己紹介動画は成功し、ネット上の推しポイントは一万を超えた。しかし、画面越しの「いいね」や「フォロー」が、そのまま物理的な足運びへと直結するわけではない。平日夜、急遽設定された小規模な箱。百席というキャパシティすら、無名の新人にとっては高い壁だという芸能界の現実が、そこにはあった。
この初ワンマンライブを「満員」という実績にできなければ、今後の大型プロモーションに向けたスポンサー営業にも響く。
「……やはり、導線設計が甘かったか」
ユウトがインカム越しに開演の五分押しを指示しようとした、その時だった。
重たい防音扉が、バンッと乱暴に開かれた。
「わりぃ! 現場が押しちまって、ギリギリになっちまった!」
ドカドカと階段を駆け下りてきたのは、作業着姿の中年男性――田辺だった。彼の後ろからは、同じようにヘルメットを小脇に抱え、土埃の匂いをさせた屈強な建設作業員たちが十人近くも続いている。
さらに彼らに続くように、おずおずと控えめな足取りで入ってきたのは、動画を見て初めて足を運んだであろう、年齢も種族もバラバラな新規の観客たちだった。オークの青年、エルフの学生、そして手話で会話を交わす二人組。
またたく間にフロアの空白が埋め尽くされ、百席の空間は、肩が触れ合うほどの熱気と酸欠になりそうなほどの人口密度で満たされた。
ユウトは息を呑み、そしてインカムのスイッチを入れた。
「……客席、百席満員だ。定刻通り開演する」
重低音のビートが、フロアの床を震わせる。
幕が上がり、七人の異種族アイドル――NANAIRO UNITYがステージに姿を現した瞬間、割れんばかりの歓声が地下空間に響き渡った。
一曲目、デビュー曲『UNITY』。
そのパフォーマンスは、一般的なアイドルの常識から見れば異端そのものだった。
誰一人として振付が揃っていない。ニコが猛スピードでステージを駆け回り、シルヴィアが優雅なターンを描き、カレンが影のようにステップを踏む。バラバラな動きの連続。しかし、彼女たちが交わす「視線」のバトンが、観客の目を巧みに誘導し、決して散漫な印象を与えない。
だが、二曲目の中盤でトラブルが起きた。
熱気に当てられた地下ライブハウスの空調が追いつかず、ステージ上の湿度が急激に低下したのだ。
水棲種族であるルナの動きが、ふっと止まった。陸上での活動を補助する保湿コートの水分が飛び、彼女の浅い呼吸が乱れ始めている。根性で乗り切れる問題ではない。種族としての物理的な限界だった。
PAブースのユウトは、即座に音源のフェーダーに手を伸ばした。音楽を止め、トラブルとしてライブを中断させる。それが安全を守るための管理者の絶対的な義務だ。
フェーダーを下げようとしたユウトの視線が、ステージ上のシルヴィアとぶつかった。
銀髪のエルフは、ルナを隠すように立ち、『間を繋ぐ』と合図した。続行の決定ではない。ユウトはいつでも停止できるようフェーダーに手を置き、ルナ本人の合図を待った。
次の瞬間、メイプルが自身のチタン製マイクスタンドを、持っていたスティックで力強く叩き据えた。
カーンッ! という、鐘の音のような強烈な金属音が響き渡り、流れていたオケのリズムを意図的に断ち切る。
その空白のコンマ数秒に、カレンがスポットライトの届かない影の領域から滑り出し、即興のアカペラでメロディを紡ぎ出した。伴奏のない、冷たくも美しいダークエルフの歌声が、観客の意識を完全にルナから引き剥がす。
その隙を突いて、ニコがダンスの動線を利用してルナの元へ滑り込み、あらかじめステージ袖に用意していた予備の加湿ポッドを素早く手渡した。
シューッという微かなミストの音と共に、ルナの呼吸が落ち着きを取り戻す。彼女は自ら胸の前で『続行可能』の合図を作り、ユウトがそれを確認した。
「……ッ、ゾォォォォォォン!」
準備が整った瞬間、ゴルガの腹の底からの極低音――オーク語の力強い発声が、乱れたリズムを再び一つの太い幹へと引き戻した。
それを合図に、ユウトはフェーダーを元の位置へ戻す。
音楽が再開し、七人のバラバラな動きが、再び視線によって結びついた。
それは決して、完成されたパフォーマンスではなかった。
一流のアイドルから見れば、トラブルだらけの不格好なステージだろう。だが、足りないものを互いの得意なことで補い合い、決して誰かの尊厳や安全を犠牲にしないその姿は、いびつだが圧倒的な熱を放っていた。
七人のバラバラな音が、初めて一つの『体験』となって観客に叩きつけられる。
「行けええええっ、ゴルガあああ!」
最前列で田辺がヘルメットを振り回して叫び、百人の観客がそれに続いた。地鳴りのような歓声が、地下室の天井を揺らしていた。
終演後。汗だくで控え室に戻ってきた七人は、パイプ椅子や床にへたり込みながらも、皆一様に充実した顔つきをしていた。
「お疲れ様。見事なリカバリーだった」
ユウトは全員にタオルと冷えたスポーツドリンクを配りながら、手元のタブレットの画面を切り替えた。
「本日の物販――メイプルが作った鉱石アクセサリーと、終演後のオンラインでの楽曲ダウンロード数の集計が出た」
全員の視線が、ユウトの端末に集まる。
「現在の推しポイント、12,860ptだ。百席のライブハウスという規模を考えれば、破格の数字と言っていい」
「やった……! 一万超えですっ!」
ニコが立ち上がって尻尾をちぎれんばかりに振り、ゴルガがホッと安堵の息を吐く。ルナも嬉しそうに両手で拍手のサインを送っていた。
だが、ユウトの顔は引き締まったままだった。彼は画面をスワイプし、先ほど運営委員会から届いたばかりのメールを開いた。
「喜ぶのはまだ早い。先ほど、CIRの新人枠エントリーに関する正式な要項が発表された」
ユウトはタブレットをテーブルの中央に置いた。
「参加条件は、直近三十日での五万推しポイント獲得。現在が12,860だから、残り37,140ptだ」
五万ptは、あくまで新人枠へ入るための足切りだ。通過後はブロックごとに、予選期間中の新たな応援行動による暫定スコアと、予選決勝ライブの観客・審査員評価を合算し、上位十二組だけが本戦へ進む。
「さんまん、ななせん……?」
ニコの尻尾が、ピタリと動きを止めた。
「単純計算で、今日の百人満員ライブを、あと何十回もやらないと届かないってこと? そんなの、物理的に不可能よ」
カレンが顔をしかめ、シルヴィアも厳しい表情で腕を組んだ。
普通に考えれば、資金も知名度もない弱小事務所の新人にとって、それは完全な無理難題だ。
「通常なら、不可能だ」
ユウトは一人一人の顔を見据え、力強く告げた。
「だが、俺たちは通常のやり方をしない。明日から、残り三万七千を削り取るための『五万ポイント作戦』を開始する」




