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第9話 神殿省本庁が慌てています

第9話 神殿省本庁が慌てています


魔王軍から正式な招聘状が届いた翌朝、辺境神殿の受付には、いつもより重い空気が流れていた。


理由は簡単だ。


机の上に、まだ魔王軍の招聘状がある。


勇者アレクシス・グランヴェルは、今日も帰っていない。


そして神殿省本庁からの返答が、まだ来ていない。


「ロレンツさん」


リナリアが受付机の向こうから、小声で言った。


「はい」


「本庁、怒ってますかね」


「怒っている可能性はあります」


「やっぱり」


「ただ、怒っているなら正式な停止命令を出せばいいだけです」


「停止命令」


「はい。魔王軍への出向を認めない。招聘状を拒否する。そう書けば済みます」


リナリアは水晶板を見た。


「でも、まだ来てませんね」


「来ていません」


勇者アレクシスが腕を組んで言う。


「どうせ却下だ。魔王軍に行くなど、認められるわけがない」


「まだ判断は出ていません」


「出るまでもない!」


「そういう場合は、普通、出します」


「何をだ!」


「判断を」


アレクシスは黙った。


賢者セドリックが、少し疲れたように言う。


「ロレンツの言う通りだ。止めたいなら止めると書けばいい」


「セドリック、お前はどっちの味方だ」


「書類上の話をしている」


「それが気に入らん」


戦士ライネルは、椅子に座ったまま肩を回していた。


「俺も、止めるなら止めるって言えばいいと思うぞ」


「ライネルまで!」


聖女ルシアは、何も言わない。


ただ、昨日より少しだけ落ち着いた顔で、こちらを見ていた。


その時、水晶板が震えた。


差出人は神殿省本庁。


件名は、


《魔王軍出向要請に関する本庁見解》


だった。


受付にいた全員が黙る。


リナリアが息を呑んだ。


「来ました」


「はい」


俺は水晶板を開いた。


《ロレンツ・アシュフォード殿》


《魔王軍第三軍団からの招聘状について、本庁内で確認を行いました》


《現時点において、本庁は貴殿の魔王軍出向を積極的に推奨するものではありません》


アレクシスが勝ち誇ったように言った。


「ほら見ろ!」


俺は続きを読んだ。


《一方で、魔王軍側からの正式招聘状には、職務範囲、権限独立性、滞在期間、安全保障、撤退条件等が明記されており、形式上の重大な不備は確認されません》


アレクシスの顔が歪んだ。


「何だそれは」


「不備はないそうです」


「読むな!」


俺はさらに読む。


《また、近時、魔王軍第三軍団からの権能使用申請が増加しており、当該申請の適正処理、条件設定、使用後報告確認について、神殿省側の確認体制を強化する必要があります》


《つきましては、本件を魔王軍への就職または転属ではなく、神殿省職員による一時調査出向として整理する余地があります》


「一時調査出向」


リナリアが復唱した。


「そういうことにするんですか」


「そのようです」


アレクシスが机を指さした。


「詭弁だ!」


「整理です」


「同じだ!」


「違います」


「違わない!」


俺は本文の続きを確認した。


《ただし、本庁としては、貴殿に対し当該出向を命令するものではありません》


《貴殿本人の意向、受入条件、現地安全性、辺境神殿における業務影響を踏まえ、最終判断を行うものとします》


俺はそこで手を止めた。


「どうしたんですか」


リナリアが聞く。


「命令ではないそうです」


「じゃあ、行かなくてもいいんですか」


「はい」


「行ってもいいんですか」


「その余地がある、と書いてあります」


「余地」


セドリックが苦笑した。


「本庁は責任を取りたくないんだな」


俺もそう思った。


命令はしない。


禁止もしない。


ただし、余地はある。


つまり、行かせたいのか止めたいのか、文面上は分からない。


こういう文書は、だいたい分かっていて分からなくしている。


水晶板には、まだ続きがあった。


《なお、勇者アレクシス一行の権能停止については、引き続き正式な復帰要請書、管理者変更届、戦闘記録、権能使用履歴、反動報告の提出を待って処理します》


アレクシスが固まった。


「なぜ俺の話が出る」


「関係案件だからでしょう」


「関係ない!」


「あります」


「ない!」


「私が勇者パーティーへ復帰するか、魔王軍へ一時調査出向するかの判断に関係します」


アレクシスは歯を食いしばった。


ルシアが小さく言う。


「まだ、提出していないものが多いんですね」


「はい」


「私たちが」


「はい」


ルシアは目を伏せた。


セドリックがため息をつく。


「戦闘記録は俺がまとめる。使用履歴はロレンツの旧記録と照合した方が早いか」


「旧記録はあります」


「見せてもらえるか」


「正式な申請があれば」


セドリックは少しだけ笑った。


「そうだったな」


ライネルがアレクシスを見る。


「俺は反動報告を書く。肩の件もある」


「お前ら……」


アレクシスは三人を見た。


怒っているようで、少しだけ戸惑っているようでもあった。


俺は本庁文書の最後を確認した。


《貴殿が一時調査出向を希望する場合、以下の確認事項を回答してください》


《一、本人同意》


《二、出向期間》


《三、職務範囲》


《四、権限独立性》


《五、緊急帰還条件》


《六、辺境神殿業務への影響》


《七、同行者の有無》


《回答受領後、本庁にて一時調査出向としての承認可否を判断します》


「同行者の有無」


リナリアが小さく言った。


俺はリナリアを見た。


「ここは、なしで回答できます」


「え」


「危険な場所です。リナリアさんが同行する必要はありません」


リナリアは少しだけ黙った。


それから、受付机の上に置かれた魔王軍の書類束を見た。


さらに、昨日エルバートが記入した受付票を見た。


「でも、記録係は必要ですよね」


「本庁側で用意する可能性があります」


「本庁の人が、魔王軍の受付票を書けますか」


「受付票は誰でも書けます」


「でも、魔王軍の方が来たとき、入口で止める人は必要です」


「それは魔王軍側にも受付があります」


リナリアは首を振った。


「違います」


「違う?」


「ロレンツさんは、誰が来ても同じように処理します」


「はい」


「でも、誰が同じように処理されたかを、近くで見る人も必要だと思います」


意外なことを言った。


リナリアの声は少し震えている。


けれど、逃げ腰ではなかった。


「勇者様が受付で止まったことも、魔王軍の方が受付票を書いたことも、ちゃんと見ていた人がいた方がいいです」


受付が少し静かになった。


アレクシスが嫌そうな顔をする。


「その話を残すな」


リナリアはびくっとしたが、引かなかった。


「残します。受付記録なので」


セドリックが小さく笑った。


「強くなったな、受付嬢」


「見習い神官です」


リナリアはそう言ってから、俺を見る。


「私、行けます。記録係として」


俺は少し考えた。


危険はある。


だが、神殿省本庁の確認事項には、同行者の有無が含まれている。


つまり、少なくとも本庁は、同行者が発生する可能性を想定している。


魔王軍側の受入条件については、別途確認が必要だ。


「分かりました」


「はい」


「同行者ありで回答します。ただし、魔王軍側の受入条件確認を要します」


「はい!」


アレクシスが立ち上がる。


「待て。リナリアまで魔王軍へ連れて行く気か」


「同行希望がありました」


「危ないだろう!」


「危険性は確認します」


「なら俺も行く!」


受付が止まった。


俺はアレクシスを見る。


「来訪目的は」


「監視だ!」


「誰を」


「お前と魔王軍を!」


「正式な同行申請が必要です」


「また申請か!」


「はい」


「勇者だぞ!」


「同行者欄にそう書いてください」


アレクシスは受付机を叩きかけて、また止めた。


かなり学習している。


ルシアが静かに言った。


「アレクシス。今は、私たちの書類を先に整えましょう」


「だが」


「ロレンツさんを止めるにしても、戻ってもらうにしても、私たちはまだ何も出せていません」


アレクシスは言い返せなかった。


俺は水晶板の返信欄を開いた。


《本人同意:条件確認を前提に、一時調査出向を検討します》


《出向期間:初回三十日》


《職務範囲:魔王軍第三軍団管轄地域における権能使用申請の事前確認、条件設定、使用後報告確認、様式整備》


《権限独立性:魔王軍による審査干渉不可》


《緊急帰還条件:本人が職務遂行不能と判断した場合、または神殿省本庁が正式停止命令を発した場合》


《辺境神殿業務への影響:現時点で処理中の生活権能申請は整理済み。引継ぎ事項は別紙》


《同行者:見習い神官リナリア一名。記録補助として同行希望あり。ただし、魔王軍側の受入条件確認を要します》


そこまで入力して、手を止めた。


リナリアが覗き込む。


「どうしました?」


「最後に、確認事項を追加します」


俺は一行を加えた。


《本件は、魔王軍への就職または転属ではなく、神殿省職員としての一時調査出向であることを確認します》


送信。


水晶板の光が消えた。


しばらく、誰も喋らなかった。


本庁から返事が来るまで、数分。


長い数分だった。


アレクシスは腕を組んでいる。


ルシアは祈るように手を重ねている。


セドリックは考え込んでいる。


ライネルは扉の方を見ている。


リナリアは受付机の端を握っている。


俺は、水晶板を見ていた。


やがて、通知が来た。


《一時調査出向に関する承認通知》


リナリアが小さく息を呑む。


俺は開いた。


《ロレンツ・アシュフォード殿》


《貴殿からの回答を確認しました》


《本件について、神殿省本庁は、魔王軍第三軍団管轄地域における権能使用状況確認のため、貴殿の一時調査出向を承認します》


《期間:初回三十日》


《身分:神殿省所属職員》


《職務:権能使用申請の適正確認、条件設定、使用後報告確認、様式整備》


《同行者:見習い神官リナリア一名を記録補助候補として承認》


《ただし、魔王軍側の受入条件確認後、最終確定とします》


《注意事項:魔王軍への指揮命令権は有しません》


《注意事項:魔王軍からの指揮命令も受けません》


《注意事項:戦闘行為への参加は禁止》


《注意事項:本出向に関する責任部署は、暫定的に本庁権能管理部とします》


俺は最後の一行を見て、少しだけ眉を寄せた。


「暫定的に」


セドリックが言った。


「責任の所在が曖昧だな」


「はい」


俺は答えた。


「でも、承認は出ました」


リナリアが、ゆっくりと椅子に座り込んだ。


「出ちゃいましたね」


「出ました」


アレクシスが叫ぶ。


「認めるのか、神殿省は!」


「一時調査出向として承認されています」


「そんなもの、認められるか!」


「認めたのは本庁です」


「俺は認めん!」


「勇者個人の要請は停止理由としない、と招聘状にあります」


「魔王軍の文書を根拠にするな!」


「神殿省本庁の承認もあります」


アレクシスは言葉を失った。


俺は水晶板を閉じた。


机の上には、まだ焼き菓子の箱がある。


魔王軍の招聘状がある。


本庁の承認通知がある。


勇者パーティーの差戻し中の復帰要請書がある。


第一部の終わりが近いにしては、ずいぶん書類が多い。


リナリアが、ぽつりと言った。


「ロレンツさん」


「はい」


「魔王軍へ行くんですね」


「神殿省職員として、一時調査出向します」


「言い方」


「大事です」


セドリックが、静かに言う。


「ロレンツ」


「はい」


「俺たちの書類は、整えておく」


「お願いします」


ルシアが小さく頭を下げた。


「戻ってきたら、もう一度話をさせてください」


「正式な面談申請があれば」


ルシアは少しだけ笑った。


「はい。申請します」


ライネルも頷いた。


「反動報告、書いておく」


「助かります」


最後に、アレクシスが俺を睨んだ。


「俺は納得していない」


「はい」


「絶対に、魔王軍の味方になるな」


「私は申請を見ます」


「それが危ないと言っているんだ」


その言葉だけは、少しだけ引っかかった。


アレクシスは怒っている。


子どもじみている。


だが、完全に間違っているとも言い切れない。


俺は答えた。


「確認します」


「何をだ」


「魔王軍で、何が申請されているのかを」


アレクシスは何も言わなかった。


その時、辺境神殿の外で馬車の音がした。


昨日聞いたものより、少し重い車輪の音。


魔王軍の迎えだろう。


リナリアが立ち上がる。


「もう来たんですか」


「承認通知を受け取っているのでしょう」


「早いですね」


「ちゃんとしています」


「はい」


アレクシスが低く唸った。


「ちゃんとしていると言うな……」


俺は出向関係の書類をまとめ、鞄に入れた。


勇者パーティーを追放されてから、まだ数日。


辺境神殿に来て、村の申請を処理し、魔王軍の攻撃を条件付き承認し、本庁に説明し、魔王軍の使者を受付で迎えた。


そして今、神殿省職員として魔王軍へ一時調査出向しようとしている。


どう考えてもおかしい。


だが、書類は揃いつつあった。


残る確認は、魔王軍側の受入条件だけだった。

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