第二話:エリオンにとって
かつて私は、「家」とはただ飢えることのない場所だと思っていた。
誰かが料理を作ってくれて、誰かが話を聞いてくれて、私が目を離した隙に誰かが優しく名前を呼んでくれる。
それだけだった。
——当時の私はそう思っていた。
しかし、後になってようやく理解した。
それは当たり前のことではないのだと。
一度失ったら、二度と取り戻せないものなのだと。
父のことを思い出す。
母のことを思い出す。
そして、愛しい弟のことを。
彼らのことを思い出す。
でも、時々、自分の考えが間違っていたような気がする。
なぜなら、今となっては、あの「家」が本当に存在した証拠が何も見つからないからだ。
もし「家」が本当に存在していたとしたら、
それはいつか完全に失われてしまうものだったに違いない。
それでも、
否定できないことが一つある。
たとえ何もかもが以前とは違ってしまったとしても――
私は今でも…
彼らを愛している。
——出所不明のノート
◈◈◈
私の父がまだ生きていて、母はまだ気が狂っていなくて、弟はまだ生まれていません。
集落に一人の放浪詩人が来た。
彼はぼろぼろの服を着ているが、顔はとても元気で、まるで現実の困難に倒されたことがないようだ。
彼は自分が出せる最大の声で、私に理想を与えた歌を歌った——
波涛の彼方に。
語り継がれる大地がある。
そこには争いも、悲しみも、飢えも存在しない。
ただ穏やかで、何の憂いもない世界。
陽光はやわらかく大地を照らし、
草原はどこまでも静かに広がっている。
大樹は旅人に木陰を与え、
子どもたちは笑いながら駆け回る。
もはや夜を恐れる必要はない。
狼の遠吠えに怯えることもない。
なぜならそこはアイセローラン。
伝説に語られる、安寧の郷。
かつて帆を掲げ、その地を目指した船はあった。
だが、帰還した者は一人もいない。
それでもなお、人々は歌い続ける。
心の中に、小さな灯をともして。
いつか、誰かが辿り着くと信じて。
戦いなき、あの遥かなる地へ。
理想の地へと。
アイセローランの郷へ。
――
その瞬間から、アイセローランという名は僕の心に深く刻み込まれた。
しかし、憧れるほどではなかった。
ところが、集落の他の子供たちは、アイセローラン大陸を目指し、親の腕の中で「いつかアイセローランに行きたい!」と叫んでいた。
なぜ彼らがそう言うのか、僕には理解できなかった。
なぜ誰もがそこを離れたがるのか、僕には理解できなかった。
ただ生きようと努力するだけではダメなのか?
しかし、そんな考えは長くは続かなかった。
弟は無事に生まれ、1歳になったものの、家族に大きな悲劇が襲いました。
水資源を巡る侵略部族との戦いの最中、父は突然命を落としたのです。
僕たち家族はすでに飢えに苦しんたが、父の死は状況をさらに悪化させました。
母は弟を出産してから、奇妙な行動を取り始めました。
母はしばしば誰かと意味不明な言葉を話しているようで、僕たちの名前を忘れることも頻繁にありましたが、僕はそれらを気にしていませんでした。
しかし、全く予想外のことが起こりました。
朝目覚めると、肉の強い匂いと、吐き気を催すような悪臭が混じり合った匂いが鼻をくすぐりました。
起き上がって様子を見に行くと、母が乱れた髪で、熱々の鉄鍋の前にしゃがみ込んでいました。
鍋の中のものが何であるか、すぐに分かりました。それは弟でした。
それが何なのか気づいた時には、鍋はひっくり返され、村人たちが戸口に集まり、鋭い視線で僕たちを見つめていた。
母は何も気にせず、まだ煙を上げている肉を手に取り、まるで野犬が死体を貪り食うようにむさぼり食い始めた。
母はぐにゃぐにゃになった肉を僕に差し出した。
僕は思わず唇をすぼめた。その瞬間、ある考えが頭をよぎった――
僕はそれを食べたいと思った。
しかし、自分が何を考えているのかに気づいた途端、胃がむかむかし、その場で吐いてしまった。
吐くものなど何も残っていなかった。ただ、激しく空嘔吐を繰り返した。
その時、すべてが終わったのだと悟った。
◈◈◈
僕は大切な3人を失った。父、言葉を覚えたばかりの弟…そして、まだ生きていた母。
その日から、家はもはや家ではなくなり、母はもはや母ではなくなった。
母は完全に正気を失い、意味不明なことを口走ったり、物を壊したりすることが多かった。
檻に閉じ込められても、必ず脱走した。
他人が用意した食べ物を盗み、
手に入れた食べ物をまず自分で食べるのではなく、僕を探し出した。
「シャオルン…シャオ…ルン!」
まるで言葉を覚えたばかりの赤ん坊のように、母は僕の弟の名前を呼びながら、見知らぬ食べ物を僕に差し出した。
僕はそこに立ち尽くし、母の手にある食べ物を見つめていた。空腹など感じず、ただ奇妙な冷たさと混乱だけを感じていた。
父は亡くなり、弟…言葉を覚えたばかりの小さな命が、あまりにも残酷な形で消え去ってしまった。かつて僕の名前を優しく呼んでくれた母は、今や狂気に蝕まれた抜け殻となり、僕が死んだ弟だと頑固に信じている。
「シャオルン…食べなさい…シャオルン…」
僕は母の手から食べ物を叩き落とし、怒鳴りつけた。
「僕はシャオルンじゃない。」
声が震えた。
「弟ではありません。」
僕は母の目を見つめた。
「…いつも僕の名前を呼んでいたじゃないか?」
僕には名前がある。僕が眠ると、母は小さな歌を口ずさみながら、嬉しそうな顔で僕の名前を呼んでくれた。
僕の名前はエリオンだ!!
僕の声は途切れた。
「もう一度呼んで。」
しかし母は聞こうとしなかった。母は僕が捨てた食べ物を残念そうに見つめ、再び拾おうと身をかがめた。
僕は食べ物を蹴飛ばした。
母は立ち止まり、赤く腫れた目で僕を見た。
「シャオルン…シャオルン…」
彼女は切実に呼びかけた。
まるで昔、僕の名前を呼んでいたように。
でもね彼女が口にしたのは僕の亡き弟の名前だった……
まるで何か不気味なものが、その深紅の瞳に僕を引き寄せているようだった。
その瞳には、歪んだ自分の顔が映っているように見えた。
頭がくらくらした。もう、何のためにこんなことをしているのか分からなかった。
「もうたくさん!」
僕は母の視線を気にしながら、全力で叫び、家へと駆け出した。
あてもなく、小屋の間を縫って走り、人混みから遠く離れた寂しい丘の斜面にたどり着いた。
胸が張り裂けそうだった。膝から崩れ落ち、えずいたが、何も出なかった。
「うわあああ…ああああああ!!」
ついに涙が頬を伝った。地面を叩きつけた。そうすることで、ようやく心が安らぐかのように。
「僕はエリオン…僕はエリオン…」
どうして母さんは僕を認識してくれないんだろう?
僕はまだ生きている。でも母さんの目には、もう僕の存在は映っていない。
僕は地面にうずくまり、何度も何度もその名を囁いた。
しかし、その名を口にした瞬間、風に吹き飛ばされ、僕の涙も風に運ばれていった。
その時、あの不吉な歌が心に響いた。
伝説の平和の地…アイセローラン。
かつて、他の子供たちがアイセローランを慕う気持ちが理解できなかった。
でも今、僕は理解できる。
アイセローランには痛みも、狂気も、死もない…僕を別人として見る痛みも、僕の存在を完全に否定する痛みもない。
もしかしたら、それが僕の運命なのかもしれない。エリオンという存在の意味を、僕が再び見つけられる場所。
その瞬間、僕は生きる理由を見つけたような気がした――アイセローラン大陸へ行くという理由を。
たとえそれが存在しないとしても。それでも、僕はそこを見てみたい。
無意識のうちに目を閉じ、眠りに落ちた。
「痛っ!」
静寂の夜に、限りなく大きく響く音に、僕ははっと目を覚ました。
疲れ果てて体を起こしたが、最初に感じたのは温かさだった。
横を見ると、焼き芋があった。
「ダリ…」
その声は、他でもないダリのものだった。僕に優しくしてくれた唯一の人。
家路につく途中、僕はダリとの思い出を回想した。
乾いた服を着て、彼女の手を取り、家路についた。
「ダリ…もし僕がアイセローラン大陸に行くとしたら、一緒に来てくれる?」
僕は恐る恐る尋ねた。
心の準備をしながら、あらゆる可能性を考えた。
ダリはほんの少し躊躇した後、微笑んで言った。「もちろん!だって、アイセローランは僕がずっと行きたかった場所なんだもの!」
彼女の言葉で、僕が話したかった話題が切り出された。
「ああいう場所の方が、私には向いてる気がするんだ…」
もし可能なら、アイセローランでダリと結婚して、子供を産んで、気ままな生活を送りたい。でも、そんなことが僕に起こるはずがないことは、よく分かっていた。
少し赤くなった目でダリの顔を見上げた。気づけば、僕たちは玄関の前に立っていた。
「…」
「分かった。エリオン、もう遅いから、帰らなきゃ。」
「…」
僕はうつむいた。
本当は彼女に去ってほしくなかったけれど…
いじめられるたびに、いつもダリが僕を守ってくれた。困難に直面するたびに、いつもダリが助けてくれた。
「もしまたあの悪い奴らにいじめられたら、必ずダリに言いなさいよ。」
僕は平静を装って、無理やり目を上げようとした。
「うん。ありがとう、ダリ。」
僕がそう言うと、ダリは立ち上がり、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
彼女は鼻を触って、覇気を持って言った。。
「ふん!どういたしまして!」
彼女は薪を担いでいる老婆のそばに駆け寄って手伝った。
ダリの弟だったらどんなに素晴らしいだろう。
毎日幸せに暮らせる…
「じゃあ、行くね!また明日、エリオン!」
我に返ると、ダリはもういなくなっていた。
「…」
よし。家に帰ろう。
一瞬ためらった後、振り返って悪臭漂う家へと歩き出した。
「ん?」
家の中は散らかっていたが、母の姿はなかった。
この時間、彼女はまだ人の夕食を邪魔しているのではないでしょうか。
「やっと休める…」
ダリは母と過ごすことで母が元に戻るかもしれないと言っていたけれど、
どうすればいいのか分からない。もううんざりだ。
今は大丈夫な気がする。でも、以前の方が良かったような気もする。
二つの相反する考えが頭の中を駆け巡り、本当にどちらを選べばいいのか分からなかった。
「…」
私が悩んでいると、部屋の外に母の声が響いた。
「シャオルン…」
――さっきまで未来のことを考えていたのに。
次の瞬間、「僕は何者なのか」という問いさえも、消え去ろうとしていた。
……………………
「ちっ…」




