第12話:言わなくていい言葉
放課後の教室は、ゆっくりと温度を失っていく。
西日が窓枠に切り取られて、机の上に細長い影を落としていた。誰もいないはずの空間に、わずかに残った気配だけが、そこに時間が流れていることを教えている。
カーテンが、かすかに揺れた。
その音で、一ノ瀬は顔を上げる。
⸻
「……今日、依頼あるんだけど」
⸻
何でもない調子の声だった。
振り向くと、冷泉が窓際に立っている。
逆光で表情はよく見えない。ただ、いつもと同じようにそこにいるはずなのに、どこかだけ輪郭が曖昧に見えた。
⸻
「誰の」
短く聞く。
⸻
ほんのわずかな間。
⸻
「私」
⸻
その一言で、空気の密度が変わる。
一ノ瀬は、ゆっくりと体の向きを変えた。
⸻
「……どういうことだよ」
⸻
「そのまま」
冷泉は肩をすくめる。
「依頼。受けてよ」
⸻
軽く言う。
けれど、その軽さはどこか表面だけのものに見えた。
⸻
一ノ瀬は答えずに、しばらく冷泉を見ていた。
いつもなら、ここで笑って流すはずの距離が、今日は少しだけ遠い。
⸻
「内容は」
⸻
冷泉は、すぐには答えなかった。
視線を窓の外に逃がし、揺れるカーテンの端を見つめる。
風がまた、細く吹き込んだ。
⸻
「……言わなくていいと思ってた言葉」
⸻
その声音は、さっきよりも少し低かった。
⸻
「それを?」
⸻
「どうするか、決めたい」
⸻
曖昧なまま、言い切る。
言葉の先を切り落とすように。
⸻
教室の奥で、時計の針がひとつ進む音がした。
⸻
一ノ瀬は机から腰を上げる。
椅子の脚が床を擦る、小さな音。
⸻
「相手は」
⸻
「いる」
⸻
「会える?」
⸻
冷泉は、わずかに視線を落とした。
ほんの一瞬だけ、呼吸が浅くなる。
⸻
「……会える」
⸻
短い返答。
⸻
一ノ瀬は、その答えを聞いて頷く。
⸻
「じゃあ、終わってるだろ」
⸻
それは、これまで何度も繰り返してきた答えだった。
迷う余地のない、いつもの正解。
⸻
けれど。
⸻
冷泉は、動かなかった。
⸻
「それが、できないから来てるんだけど」
⸻
静かに返す。
その声だけが、わずかに重い。
⸻
風が、今度は少し強く吹いた。
カーテンが膨らみ、すぐに戻る。
⸻
「……なんで」
⸻
一ノ瀬の声は、少しだけ遅れていた。
⸻
「言わないの」
⸻
問いは短い。
けれど、そこにはこれまでと違うものが混じっていた。
⸻
冷泉は答えない。
代わりに、指先で机の縁をなぞる。
一定の速さで、往復する。
⸻
「言ったら」
⸻
指が止まる。
⸻
「変わるから」
⸻
「何が」
⸻
少しの間。
⸻
「……全部」
⸻
その言葉は、静かに落ちた。
軽い音を立てて、あとから重さだけが残る。
⸻
一ノ瀬は、何も言えなかった。
⸻
言おうとすれば、言えたはずの言葉がある。
いつもなら迷わず出てくるはずの言葉が。
⸻
――それでも言えよ。
⸻
その一言が、喉の奥で止まる。
⸻
代わりに浮かんだのは、別の光景だった。
⸻
白い部屋。
静かな呼吸。
頷く声。
そして――言えなかった言葉。
⸻
同じじゃない。
⸻
目の前にいるのは、冷泉だ。
⸻
それでも。
⸻
重なってしまう。
⸻
「……で?」
⸻
冷泉が顔を上げる。
試すような視線。
⸻
「遺言部的にはどうするの」
⸻
一ノ瀬は、視線を外した。
窓の外。傾きかけた空。
⸻
少しだけ考える。
それでも、答えは出ない。
⸻
「……分かんない」
⸻
言ったあとで、自分でもその響きに驚いた。
⸻
冷泉の目が、わずかに見開かれる。
⸻
それから、ふっと力が抜けたように笑った。
⸻
「でしょ」
⸻
小さな声だった。
⸻
「全部が全部、言えばいいわけじゃない」
⸻
窓の外を見たまま、続ける。
⸻
「残した方がいいものもある」
⸻
その言葉は、押し付けるでもなく、ただ置かれるようにそこにあった。
⸻
一ノ瀬は、何も返さない。
肯定も否定もできないまま、時間だけが流れる。
⸻
「……今回の依頼」
⸻
冷泉の声が、少しだけ柔らぐ。
⸻
「別に解決しなくていい」
⸻
「は?」
⸻
「ただ」
⸻
わずかな間。
⸻
「決めたかっただけ」
⸻
それだけだった。
⸻
教室の中で、時計がまたひとつ進む。
⸻
「……で」
⸻
一ノ瀬が言う。
⸻
「決めたのか」
⸻
冷泉は、ゆっくりと頷いた。
⸻
「言わない」
⸻
短く、揺れない声。
⸻
そこに迷いはなかった。
⸻
「それでいいのか」
⸻
「いいよ」
⸻
間を置かずに返ってくる。
⸻
「言わないことで、守れるものもあるから」
⸻
一ノ瀬は、答えを持っていなかった。
⸻
何かが、少しだけずれる音がする。
⸻
「……そっか」
⸻
やっと出たのは、それだけだった。
⸻
冷泉は、軽く伸びをする。
⸻
「依頼終了、でいい?」
⸻
「……ああ」
⸻
短く返す。
⸻
「ありがと」
⸻
そのまま歩き出す。
⸻
ドアの前で、一度だけ足を止める。
⸻
振り返らないまま。
⸻
「たまにはさ」
⸻
少しだけ間を置いて。
⸻
「残してもいいんだよ」
⸻
静かな声だった。
⸻
ドアが閉まる。
⸻
音が、ゆっくりと消えていく。
⸻
一ノ瀬は、その場に残る。
⸻
夕焼けが、教室の隅まで広がっている。
⸻
言えなかった言葉。
⸻
言わなかった言葉。
⸻
その違いを、初めて意識する。
⸻
「……残す、か」
⸻
小さく呟く。
⸻
風がまた、窓を揺らした。
⸻
答えは、まだ出ていない。
けれど、それでいい気がした。




