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第9話:来てほしかった

「それでさ、今日の授業でさ――」


 白い部屋に、声だけが浮かんでいた。


 ベッドの横の椅子に座って、一ノ瀬は話している。


 特別な話じゃない。


 授業のこと。友達のこと。どうでもいいような出来事。


「で、先生がさ、めっちゃ困ってて」


「ふふ」


 母は、少しだけ笑った。


「どんな顔してたの?」


「こんな感じ」


 わざと大げさに真似をする。


 母は、ゆっくり頷く。


「うん、うん」


 その相槌が、ちゃんとそこにあった。



 窓の外は、少しだけ傾いた光。


 機械の音が、規則正しく鳴っている。



 話は、途切れない。


 何を話したかなんて、たぶん大したことじゃない。


 でも、その時間が続いていることが、当たり前だった。



「……あ」


 ふと思い出して、カバンを開ける。


 一枚のプリントを取り出す。


「これ」


 差し出す。



 母はそれを受け取って、目を通した。


「授業参観かあ」


 少しだけ間があく。


 それから、いつもと同じ顔で笑う。


「……行けたら行くね」


「うん」


 それだけで、終わった。



 言おうと思えば、言えた。



 ――来てほしい。



 でも、言わなかった。



 言わなくてもいいと思った。


 無理させるのも違うと思った。


 また今度でいいと思った。



「ちゃんと見てるからね」


 母が言った。



「うん」


 軽く頷く。


 深く考えることはなかった。



 当たり前に、続くと思っていたから。




 授業参観の日。



 何度か、後ろを振り返る。



 知らない大人たち。


 ざわざわした空気。



 その中に、母はいなかった。



 少しだけ、胸の奥が引っかかる。



 でも。



 それだけだった。



 次に会ったときに言えばいい。



 そう思っていた。




 病室の前で、足が止まる。



 ドアの向こうは、いつもと同じはずだった。



 開ける。



 静かだった。



 母は、眠っていた。



 少しだけ、違和感があった。



 でも、その正体は分からない。



「……今日さ」



 声をかける。



「授業参観だったんだけど」



 返事はない。



 少しだけ笑ってみる。



 言おうとして、止まる。



 喉の奥に、引っかかる。




 ――来てほしかった。




 言葉は、そこで止まったまま。



 出さないまま、飲み込む。



 まだ、あとでいいと思った。



 まだ、時間があると思った。




 そのときだった。



 機械の音だけが、やけに大きく聞こえた。



 それ以外、何も聞こえなかった。




 椅子に座る。



 視線の先に、机。



 その上に、プリントが置かれている。



 少しだけ、端が折れている。




 いつ渡したやつか、分かっている。




 あのとき。



 言えばよかった。




 別に。



 来れなくてもよかった。



 怒ってたわけでもない。



 ただ。




 来てほしかった。




 その一言だけが、



 どこにも行けないまま、残っている。




 後ろで、気配がした。



 振り向かない。



 誰かが立っているのは分かる。



 でも、何も言わない。



 そのまま、時間だけが過ぎていく。




 「うん、うん」は、もう返ってこない。



 それでも。



 言葉だけが、そこにあった。

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