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第8話:残っているもの

「……今さら言っても、意味ないですよね」


 放課後の教室。

 人の気配はほとんどなく、窓から差し込む光だけが静かに床を照らしていた。


 机に座ったまま、女子生徒がぽつりと呟く。

 手元のノートは白いまま。ペンも動いていない。


「もう卒業しちゃってて……連絡先も分からないし」


 声は小さい。けれど、その言葉には諦めが混じっていた。



 一ノ瀬は、少し離れた机に腰掛けている。

 肘をついて、頬杖をつきながら、じっと話を聞いていた。


 すぐには返事をしない。


 ほんの数秒、間が空く。


 それから、ゆっくりと口を開いた。


「……残ってるよ」


「え?」


 女子生徒が顔を上げる。


 一ノ瀬は視線を窓の外へ向けたまま、続けた。


「言えなかった言葉ってさ」


 軽く息を吐く。


「消えないんだよ」



「……消えない?」


 不思議そうに聞き返す声。


「うん」


 一ノ瀬は短く答えるだけで、それ以上は言わない。


 説明もしないし、理屈も語らない。


 でも、その言い方は妙に断定的だった。


 まるで、経験で知っているかのように。



 女子生徒は少しだけ視線を落とした。


「でも……もう会えないんです」


 その一言。


 一ノ瀬の指先が、机の縁で止まる。


 ほんの一瞬だけだったが、確かに止まった。



「……会えない相手に言いたいことがあるって、面倒だよな」


 独り言みたいに言う。


「え?」


「いや、なんでもない」


 軽く首を振る。



 教室の外から、部活の掛け声が聞こえる。

 バスケットボールのドリブル音が、遠くで跳ねている。


 その音が、やけに現実的で。


 この場だけが、少し取り残されているような気がした。



「それ、“言えなかった”のか、“言わなかった”のか、どっち?」


 唐突な質問だった。


 女子生徒は一瞬戸惑い、それから少し考える。


「……言えなかった、です」


「そっか」


 一ノ瀬は短く頷く。



 指先で、机の角をなぞる。


 無意識の仕草だった。



 白い壁。

 静かな廊下。

 どこかで聞いたことのある、規則正しい電子音。



 ――ほんの一瞬だけ、そんな光景が頭をよぎる。



 一ノ瀬はゆっくりと瞬きをした。


 何事もなかったように、視線を戻す。



「……じゃあ、まだ終わってないな」


「え?」


 女子生徒が顔を上げる。


「言えなかっただけなら」



「どういうことですか」



 一ノ瀬は少しだけ考えるように視線を落とした。


 それから、言葉を選ぶように話す。



「言葉ってさ」



 ほんの少し、間を置く。



「行き場なくすと、残るんだよ」



 静かな声だった。


 けれど、その一言には、妙な重みがあった。



 女子生徒は何も言えず、その言葉を受け止める。



「……残るって」


「どこにも行けないまま」


 一ノ瀬は続ける。


「そのまま、残る」



 言葉は少ない。


 けれど、それは説明ではなく、実感のようだった。



 女子生徒は、手元のノートを見る。


 白いページ。


 そこに、まだ何も書かれていないことに気づく。



「……じゃあ」


 少しだけ、声が震える。


「どうしたらいいんですか」



 一ノ瀬はゆっくりと立ち上がった。


 机から降りて、軽く体を伸ばす。



「名前、分かる?」


「え……?」


「その人の」


「……はい」



「じゃあ、探す」


 あまりにもあっさりと言う。



「え、でも……もう卒業してるし……」


「だから?」


 一ノ瀬は、少しだけ首を傾げた。



「終わらせるかどうかは、そのあとで決めればいい」



 その言葉に、女子生徒は黙る。



「言えなかったまま終わるのと」


 一ノ瀬は窓の外を見た。


 グラウンドで走る生徒たち。



「言おうとして終わるのじゃ、全然違うから」



 その一言は、静かだった。


 でも、どこか決定的だった。



 女子生徒は、小さく息を吸う。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……お願いします」



 一ノ瀬は、軽く「うん」とだけ返す。



 しばらくの沈黙。



 教室には、夕方の光が少しずつ広がっていく。



 一ノ瀬は窓際に歩み寄った。


 外を見ながら、小さく息を吐く。



 ――白い部屋。

 ――やわらかく笑う顔。

 ――何かを言おうとして、結局言わなかった記憶。



 それは一瞬で、すぐに消える。



 いや。


 消えたわけじゃない。



 ただ、奥に沈んだだけだ。



 一ノ瀬は目を細める。



 そして――


 本当に小さな声で、誰にも聞こえないくらいの音で呟いた。



「……残るんだよ」



 その言葉だけが、


 どこにも行かずに、そこにあった。

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