episode2-10
桐江准将の切り開いた血路を、テレサの駆る護衛軍車は無事に突き抜けていた。
その後、シェイとおぼしき騎士が車を跳び移った様を目端で捉えてしまった助手席のルカは、何とも苦い顔をした。
だが、この集団暴走の混戦下にあっては確かに有効な戦術であるのも確かだ。
シェイは度々、任務を弁えずにふざけたり、今のようにとんでもない無謀を働く。
だが同時に、ルカに文句を言わせないだけの結果は出してきた。
業腹ではあるが、認めざるを得ない。
《五、六、七……、えっと……もう一回確認。五、六、七……》
ミネッテが、父の霊を介した千里眼で現場を俯瞰したらしい。
どうやら、父はかなりの高度から見下ろしたようで、ミネッテの力ではどうにも車種の把握が難しい。
だが、占拠者達の車は雑多な自家用車の寄せ集めであるのに対して、護衛軍の車は(そのまま鹵獲された物を除けば)黒のセダンである“キリエコフィン”のみ。
更に父霊は、娘への配慮からか、敵車両のみを赤丸のイメージで囲っていてくれた。
《えっと、これまでに八台減ったようです。敵の車両は》
追手の車が、この短時間に八台減った。
となれば、まず間違いなく、シェイの仕業だろう。
だが。
それから十分あまり走った。
あの、悪目立ちにも程がある金色リムジンを最後に、追手の車は減る様子が無かった。
ミネッテは、テレサ達の十秒後に意識を集中していた――父霊にさせていた――為、リムジンで何が起きたかは見逃してしまっていた。
「シェイさん、大丈夫かな……」
テレサが、心細そうに漏らした。
この先に待ち構えている新手と、後ろから来る追手との挟み撃ちに遭うのは必至だ。
あと十台は撃墜しなければ、救出部隊の不利は覆らない。
テレサでさえわかるのだから、シェイならばなおさら、わかっているノルマだろう。
その上で、撃墜数が八台に留まっていると言うことは、シェイの身に撤退せざるを得ない危険が生じたか?
あるいは。
「彼であれば大丈夫だろう」
珍しくテレサの心配を察したらしいルカが言う。
「我々は、我々自身の事を考えねばならん」
そう言いつつも、ルカ自身の表情が冴えないのだが。
「ねえねえ」
二人の懸念に割り入ったのは、後部座席からの、深みのある低音声だ。
「あいつらしつこいから、コロしていい?」
一瞬、ルカは吉井啓太大尉が何を言ったのか理解できなかった。
コロしていい?
殺して良い? という事か?
だが。
この抑揚ではまるで、道を遮るゴミを退けても良いかと訊かれたようだ。
「ねえ、これって殺すお仕事なんでしょ?」
ルカよりも多くの人生経験を刻み込んでいるであろう厳つい顔が、子供じみた口調でそんな事を言っているのだ。
ルカとテレサは態度を変えないが、託宣越しに現場をモニタしていたミネッテの託宣像は、目に見えて怯えを見せた。
「恐れながら大尉。
本任務は女王陛下を始めとした人質救出の布石となるべく行うものであります」
「? 女王さまをたすけるために、邪魔するやつを殺すんじゃないの?」
「結果的に敵を死亡させる事はあるでしょう。
しかし、それは已むを得ない場合の手段の一つであり、絶対的な目的ではありません。
まして、相手は正規軍では無い。
我々軍属が民間人を害する事は、本来ならばあってはならない」
「なんだよ、それ」
吉井大尉の顔つきが、見るからに不機嫌なものになる。
“ぼくは今、むかついたんだ。そのことに気づけよ!”と、訴えかけるような。
「おまえも、そんなこと言うのか」
ルカは、それ以上次ぐ言葉を持たなかった。
まさか今、こんな問答を必要とするとは思いもよらなかった。
「ああ、そっか」
吉井啓太大尉は、突然目を丸くして、悟ったような顔をした。
「さっき准将がいっぱい殺してたから、やっぱり殺していいんじゃないか」
ルカやテレサが何かを言うより先に、大尉は懐から紙束のような物を取り出した。
和禰国に古来より伝わる儀式起点――“符”という物だ。
窓から放たれたそれは、魚群のように後続車へと殺到。
味方の護衛軍車は素通りしたが、カエサルの息子達の乗る自家用車には、全台に貼り付いた。
風向きが良いのか、糊付けもしていない符は、押さえ付けられたように剥がれない。
――儀式起点設置 ――降臨点定義
――雨乞い儀式思考処理 ――鬼火降臨 ――水質感染
「降雨」
吉井啓太大尉が舌足らずに、しかし酷薄に宣告すると。
まず、夕入りのような激しい陽光が、景色を満たす。
異変は上空。
高層建物一つなら、一発で解体してしまえそうな、充分すぎる火力が空で爆ぜていた。
《……っ!》
ひどい未来を視てしまったらしい。ミネッテが、先んじて言葉を失う。
天から焔の雨――いや、もはや焔の“滝”とすら言える密度のものが堕ちてきた。
それは枝分かれし、貼り付けた符をめがけて降り注いだ。
カエサルの息子達が乗る自家用車は、瞬く間に焔に包まれた。
そのあまりに濃密で硬質な焔は、車を炎上させたと言うよりは、そこにあった車の存在を消化し、そっくり奪ってしまったかのようですらある。
事実、乗員が何も対策しなかった自家用車は、僅かな残骸だけを遺して文字通りこの世から蒸発してしまった。
なまじ吉井大尉の儀式戦術を知り――バリア状の水を降臨させるなどして――対応した造反護衛軍達は、更に悲惨な末路を辿る事となった。
半端に減衰した焔は犠牲者の車内を炙り焼きにし、酸素を一口で食らいつくしてしまう。
何故か粘りけのある、もはや流体としか思えぬ焔は車内と外界とを完全に断絶。
凄惨な焦熱地獄の中、子供のような体躯にまで縮んだ、半焼死体の状態で生きていた強者も、体内外の酸素を全て奪われてあえなく死んだ。
救出部隊の車も、ことごとく巻き添えを食ったが、降臨点の直下では無かった事と、特殊装甲仕様だった事で大事には至らなかった。
そんな凶暴極まりない焔が、雨のような規模で、断続的に降り続いている。
事実、これは雨乞いによる雨だった。
ただし、その雨水は真水では無く、粘性と可燃性を持つ、言わば焼夷剤の性質を感染させられていた。
本来は、戦術レベルの火を降ろせる儀式執行者がおらず、なおかつ、それでも広範囲の放火を必要とした時に用いる、ごく限定的な戦術だ。
だが、初めから着火された状態の“これ”を降らせる事で、逃げ場のない空爆と化してしまっていた。
無尽蔵の可燃性雨水が対象物に堆積してゆき、焔はアメーバのごとく際限無く自己増殖してゆく。
その為、通常考え得る手段での鎮火はまず不可能。
降雨が止まった後、可燃物を燃やし尽くして餓死するまで、焔は食らい付いた物を放さない。
単独で執行できるもので、これだけ集団戦に有効な儀式戦術はそうそう無いだろう。
だが、本来、こんな事は実現不可能だ。
雨乞いと水質感染、着火。
別々の人間がその三つの儀式を行えば、最終的に“広範囲を焼き払う”と言う結果だけは模倣できるだろう。
だがそれは「焼夷剤を撒いた後に着火する事による、広範囲の放火」でしかない。
仮にも女王護衛軍であった手練れの造反者であれば。着火される前に焼夷剤を中和すると言う絶技も可能であろう。
それに、この儀式戦術で重要なのは、火力では無い。
儀式起点の“符”をピンポイントに狙える、精密空襲である事だ。
重力のメカニズムがシャトラによって解明され、航空技術がようやく芽吹いたと言う、この時代。
制空権を得るという事は、野戦で絶対的な意味を持つと言って良い。
「従士ヌルミ。敵の残存数の報告を」
呆気に取られるルカとテレサをよそに、冷静かつ明瞭な口調で言ったのは、吉井大尉だった。
《え、あっ、はい! えっと……今も走っているのは四台です》
炎と黒煙に覆われた現場のイメージを、ミネッテは懸命に数えた。
《あっ、今、もう一台破壊されました。残り三台です》
父霊の耳打ちを受けてから、ミネッテはおどおどと実況してゆく。
どうしても、ミネッテの発声分、タイムラグは避けられないのが、彼女を頼る上での難点だ。
「四台も討ち漏らしたか。敵も予想以上の練度だが――」
バックミラーに映るテレサの紫瞳が、はっと見開かれた。
後部座席の吉井大尉を見た瞬間である。
当の吉井は、テレサの機微に気付いた様子も無く、
「しかし、戦力比はほぼ決しました。
これで、敵が合流する前に掃討出来る筈です」
別人のような懇切丁寧さで告げた。
事実、
「吉井啓太さん……ではない、ですね?」
「何?」
テレサは確信顔で指摘した。
ルカとミネッテは訝るばかりだ。
そして、どう見ても吉井啓太にしか見えない男もまた、テレサの洞察を予期していたらしい。
自らの招いた焔雨の照り返しに染まった顔を、縦に振る。
「申し遅れました。自分は、女王護衛軍近衛隊大尉、吉井敬吾です」
先程から、吉井啓太としてそこに居た男が、今は違う名を名乗っている。
ルカは、ここに至って、はじめて理解の瞠目を示した。
「解離性人格障害――多重人格症――か」
浮かんだ言葉をつい口に乗せてしまい、
「……いえ、申し訳御座いません。軽率な発言でした」
それを恥じた。
「ご配慮には及びません。
自分の所有する吉井啓太と言う人格は、修行によって身に付けたもの。
病とは異なります故に」
吉井敬吾大尉のこの発言には、最初に気付いたテレサも虚を突かれた。
自分から進んで人格を分ける。
騎士・命の芟除者として極限の地獄を見てきたルカとテレサから見ても、その行為は異質に映った。
戦って斬られる事と、自分で自分を斬る事は全く別次元の事だ。
時には斬られる覚悟をしてきた二人であっても、最初から自分の心を自傷できる程には逸脱していない。
だが、これで先の儀式戦術には説明がつく。
二つの儀式戦術を、全く同時に降臨させる。
それは人間ひとりには――およその生物一体には出来ない思考法だ。
充分な想念強さを持った儀式思考は、それ以外の思考を圧迫し、隅に追いやる。
息を吸う事と吐く事は、同時には出来ない。
しかし、二人の人格を持つ、一体の肉体であれば。
知覚を共有しながら、それぞれに独立した思考を持つ多重人格であれば、複数の儀式思考を全く同時に降臨させる事も可能だった。
恐らく吉井敬吾とは、その特性を得るために、あえて自分の心を切り分けた男なのだろう。
《敵車両、全滅、しました》
ミネッテが、静かに宣告した。
これでシェイの、挟撃潰しと言う狙いは遂げられた事になる。
後は、前のみを見て戦えば良い。
それから五分走った。
地平線の死角から、また、道を塞ぐ車の群れが顔を出した。
それを視認するや、吉井敬吾大尉は眉一つ動かさずに符を取り出した。
これから執り行う儀式に、少しの迷いも無いようだ。
「流石に、奥行きのある布陣に、正面からのマーキングは難しいか」
先程は、むしろ乱戦だったからこそ、容易に符を貼り付けられた。
テレサの運転するこれより、後続の車に向けて符を撒けば、後は風が運んでくれる。
だが、流石に、お互い向かい合った状況では、符を簡単に撃墜されるだろう。
先程、追手が全滅した顛末は、前方の彼らにも知れ渡っている事だろう。
「自分はこれより、先程の騎士デューンと似た戦術を取ります。
騎士キリエ、援護を」
「なっ――」
「ぅ、ええっ!?」
吉井敬吾は、とんでも無いことを口走るや、ドアを開け放った。
ルカは、慌てて儀式思考を編む。
吉井敬吾が、肉体増強の後光を引き連れながら、屋根に飛び上がる。
《五秒後、吉井大尉が撃ち落とされます!》
ミネッテの託宣イメージが半泣きで叫んだ。
ルカはすかさず推測。
――歩兵は居ない。
――車内から大弓の発射は不可能。
――手弓か、それに類する射出物が、敵車両から放たれると予想。
果たして、敵先頭車両の窓から、仮面を付けた者が上体を出した。
手には、パチンコ型の投石具。
――逸れろッ!
投石具から弾が放たれたのと、ルカが祈ったのは同時。
吉井大尉の不意を打つはずだった石は、青い副次光に照らされ、不自然なカーブを描いて海へと消えた。
《ま、まだ、矢などが沢山来ます!》
ルカは、前方の車群のうち、吉井敬吾を射ち得るものを警戒。
ミネッテの予言通り、五人もの射手がそれぞれの車の屋根に飛び乗り、吉井敬吾を一斉に射かける。
二つのロザリオを握りしめたルカは、吉井大尉に殺到する矢を、ことごとく因果的にねじ伏せた。
だが、ルカのキャパシティでは、全ての矢を逸らさせる事は難しい。
遮られなかった矢が、屋根上の吉井敬吾を襲う。
命中はしなかったらしいが、時間の問題だろう。
「表層人格交代! 出ろ、啓太人格」
吉井敬吾がそう命じる。
外見上の変化はわかりづらいが、言葉通りの事が起きた。
肉体の主導権が、敬吾から啓太へと渡されたのだ。
多重人格は、先天的な才覚たる祝福降臨規模すらも変化させてしまう。
祝福を加味した身体能力で言えば、主人格である敬吾よりも啓太の方が数枚上だった。
「なに、あいつら。よわっちいな」
敬吾人格よりも多くの射手を目で捉え、最小限の体勢で躱してのける。
肉体の回避行動は啓太に取らせながら、敬吾人格は儀式思考に専心。
啓太が反応しきれなかった矢や石を極小の発破で相殺。
――啓太人格に命じる。敵陣に符を放て。
心の中から浮かんだ命令口調に不快を表しながらも、啓太は符を撒いた。
普通ならば逆風に流されてしまうはずの紙切れは、激流を遡る鮭がごとく、占拠者達の前方に殺到する。
流石に、設置型の儀式起点とわかっている品の襲来を見過ごすような素人は、カエサルの息子達にはいない。
一向に吉井一人を撃ち落とせずにいた射手達は、迫り来る符の群れに矢先を変えて迎撃に入る。
符の群れは、あえなく、矢に食い散らかされて裂ける。
だが。
――啓太人格に命じる。儀式戦術2-2を執行しろ。
「うるさいな! えらそうに命令すんな!」
自分の別人格に怒鳴りながらも、啓太は従う。 まだ破れていない符の一つを凝視した。
ここで符を破られなければ、射手を殲滅出来た。
だが、破られても構わなかった。
一枚でも、無事な符があれば。
――加熱降臨 ――水降臨 ――加圧降臨
その符を中心に、途方もない規模の濃霧が放射した。
いや、霧では無い。
三〇〇度に及ぶ水蒸気の奔流だ。
気を抜けば全身火傷で死に至る噴霧に、屋根の射手達は身を庇わずにいられなかった。
儀式戦術で高温に対応した者は三人。
二人は車を飛び降り、前線から退場した。
視界が蒸気に覆われるより先に、吉井大尉は跳躍していた。
深霧で視界を奪われていた射手の一人の前に、跳び移った。
そして腰に装備していた短棒を抜く。
頭部を刈り取る、吉井大尉の打突が射手を襲う。
小弓を捨て、短棒を掴み止めた射手の判断は正しかった。
非力な小型弓で護衛軍を射殺しようとしていただけあり、射手の力は吉井啓太を凌駕していた。
――引き抜いて奪い返そうとは考えるな。崩し技を掛けろ。
敬吾の指示を受け、啓太は身体を深く落とす事で、棒で繋がった敵の姿勢を崩しにかかる。
だが、先方もそれは予期していたらしい。
足腰に力を込めて、山のごとく動じない。
次に啓太は、棒伝いに射手の腕を捻り上げようとしたが、それも微動だにしない。
万事休す。
格闘戦は、あえなく吉井大尉の敗北に終わった。
だが。
射手は、自分に貼り付いた符の存在に、一瞬気付くのが遅れた。
乾いた音がして、黒煙と高熱と衝撃波が放射。
射手の頭は木っ端微塵に四散した。
その欠片を浴びた吉井啓太は、
「きたないな。もっとうまくやれよ、敬吾」
不快そうに汚物をぬぐいながら、車を跳び移る。
啓太人格が格闘戦で相手を押さえ込むと同時に、敬吾人格が儀式戦術で
処理する。
吉井大尉は、言わば、前衛と後衛を単独かつ同時に務める事をも可能としていた。
一対一の正面対決に持ち込めば、――単純な理屈だが――吉井の二倍以上強い相手でも来ない限り、まず負けない。
そして、濃霧に閉ざされ、孤島のように分かたれた車上では、一対一の正面対決にならざるを得ない。
次に飛び乗った車でも、結果は同じだった。
符を警戒するあまり、啓太の正拳突きをまともに受けて落車。後続の車にはねられた。
次々と、カエサルの息子達が自車の屋根へ上る。
シェイの襲撃の再現が行われようとしている中、今度は跳び移る暇さえ与えない作戦で行くらしい。
吉井大尉の格闘技術は警察の逮捕術に過ぎず、本物の殺人格闘術を学んだ騎士シェイ・デューンに遠く及ばない。
このまま戦えば、まず間違いなく斬り殺されるか、路面に突き落とされるだろう。
だが。
戦えば、の話だ。
車上の風をも押し流す強風が吹き荒れた。
車体は揺れ、足元は狂い、霧は呆気なく吹き散らされた。
その隙に、吉井大尉は符を四方八方にばらまく。
そして跳んだ。
テレサの駆る護衛軍車へ舞い戻る為に。
吉井大尉は、風向きの幸運に恵まれている。
宙に散りばめた符は、占拠者達の車や、車上に上った者の身体にことごとく貼り付いた。
それを剥がすより、吉井敬吾・啓太の儀式思考が脳内を巡り、天に昇る方が速い。
溶岩流のような、粘っこい焔雨が再び降り注いだ。
またも、あの灼熱地獄が橋上を満たした。
「表層人格交代。啓太人格を格納する」
冷然と呟くと、吉井敬吾は自車に符を貼り付けてから、車内後部座席に戻った。
敬吾は、初めから、まともに戦う気は無かった。
敵陣の只中に符さえ撒ければ、それで良かった。
こうなった以上、カエサルの息子達に成す術は無い。
そのまま焼死するか、抵抗して炙り焼きとなるか、酸欠死を待つか。
運転手が死んで無軌道に散開した自家用車達は、あるものは転倒、あるものは欄干に激突し、あるものは衝突事故を起こした。
「――」
「……」
ルカとテレサは言葉を失い、
《っ……!》
ミネッテは、声にならない悲鳴を漏らした。
だがそれは、陰惨な煉獄の情景に対するものではなく、
《車っ、吉井大尉の車が、海に、落ちます! 十秒後!》
「何だと?」
危機の予告。
それも、吉井大尉と、以下、自分達に訪れる未来だと言う。
蜘蛛の子を散らすような占拠者達の有り様に、もはや抵抗の動きは無い。
今から何をしようと、この車を突き落とす事など出来ないはずだ。
吉井敬吾は、ミネッテの託宣を視逃しでもしたかのような落ち着きで、何もしない。
だがテレサは、細心の注意を崩さずに周囲を見渡す。
そして。
その目線が海を向いた時、悟った。
注意しても――ミネッテが予知した時点ですら、手遅れだった事に。
一瞬、山が現れてこちらに迫ってきているように見えたが、違う。
海が壁のように隆起し、凄まじい速度でこちらに走ってきた所だった。
津波だ。
橋を頭から呑み込むだけの。
「上獅子に勝利の栄光を!」
誰かが、焼かれながらそう叫んだ。
道理だ。
生きたまま焼かれる苦痛を終わらせたい者達にとって、水とは救いの象徴に違いない。
自分も水死する覚悟と、焼かれる苦痛から逃避したい渇望とがあれば、このくらいの水量が彼らの願いに応じるのは必然だった。
水を、奇跡的に発露させる必要も無い。
ここには水が無尽蔵にあるのだから。
単純かつ、膨大な儀式思考が招いた水の塊は、あえなく橋を、護衛軍車を覆い尽くす。
「ッ!」
ルカは、二つのロザリオを掲げて、ありったけの思考力を儀式に注いだ。
吉井隊の車を中心に、急停車した五台ばかりの車を、ドーム状の青光に包まれる。
津波が、路面に到達。
アスファルトの道はねじ砕けた。
途方もない鉄量で構成される基部が、ボール紙のように拉げていく。
ルカの死に物狂いの祈りで、車体の圧壊こそは免れたが、それが何になろうか。
青白く撹拌された水中で、車は枯葉のように流されて行く。
ほの暗い混沌の中、吉井大尉だけが無表情だった。




