第七章 幻の桃源郷 後編(最終話)
目の前で火花が散った。眼前に、ところどころ刃こぼれした斧と、黒い鉤爪が組み合わされるようにしてあり、金属のこすれあうような不快な音がした。
「ほう、君も夢から醒めたのか。そのまま、ルヴィエの見せる美しい夢の中で朽ち果てていれば、苦しまずに済んだものを」
フムルと刃を交えたまま、レイヴァスが苦々しげに言い放った。レイヴァスであることに間違いはないが、さっきまでの冷淡な表情とは打って変わり、牙を剥き出し、鬼のような形相で、ティセルを睨みつける。細身でどちらかと言えば華奢にも見えた身体つきも、ローブを剥いで剥き出しになった半裸体は、膨れ上がった筋肉ではちきれそうに大きくなっている。青白い肌に、刺青のようにくっきりと黒く悪魔の紋章が刻まれていた。
なぜ突然レイヴァスが襲いかかってくるのか、その理由が不明だが、フムルと交戦しているようだ。
「ティセル! よかった。目が覚めたのね」
フムルは一瞬安堵の表情を見せたが、またすぐ真顔に戻り、レイヴァスを睨みつけた。戦いのとき、いつも一定の余裕を持ったような薄ら笑いを見せていたフムルが、今に限っては、その顔に余裕というものが見られなかった。フムルが低く唸り、腕の筋肉を強張らせる。すると、ひと際甲高い金属音を響かせて斧と鉤爪が擦れ合い、レイヴァスがひらりと後方へ飛び下がった。
その背後には、誘夢樹の大木が見えた。しかし、それはただの木ではなかった。黒光りする幹の中に、無数の異形の怪物が絡め捕られるようにして蠢いている。太陽に見えたものが、巨大な魔道灯だということにも気がついた。ここは桃源郷などではない。かの伝説の魔物を封じた、エルデイシュタフの最深部に来ていたのだ。
「アンサルヴィエ!」
思わず、ティセルが叫んだ。その声を聞くと、レイヴァスは小さく舌打ちをした。そして舞う様にふわりと身体を宙に浮かせると、重力に逆らって中空に留まった。
「アンサルヴィエか……。君たちは、その言葉の意味を知っているか?」
レイヴァスはそう言うと、蠢く異形の大樹を振り返った。しばしの間、どこか物悲しい目をして、アンサルヴィエを眺めていたかと思うと、再びティセルとフムルに向き直り、怒りを宿した目で睨みつけた。そして大声で、半ば叫ぶように言った。
「アン・サ・ルヴィエ。古い魔道用語で、進化しすぎたルヴィエ、という意味だ。ルヴィエは悪魔が遣わした魔物などではない。ルヴィエは……私の妻は、それは美しい女だった。それを……こんな姿にした奴ら……、愚かな魔道科学者たちを、私は許さない。ここまで来たのなら、見てきただろう? 奴らが何をしたのか。ただ闇雲に力だけを求めた結果に、何が起きたのか、君たちは知っているだろう? 彼女をアンサルヴィエなんて呼ぶことは許さない。私のルヴィエは、そんな名前の魔物なんかじゃない!」
言い終わると同時に、レイヴァスが腕を振り上げる。その指先の空気が歪んで見えたかと思うと、宙に見る見る巨大な氷柱が形成されていく。フムルの身体の数倍はあろうかという大きさだ。あれで攻撃を仕掛けるつもりか。どっちを狙う? 自分か、それともフムルか、とティセルは考えた。
しかしその予想は外れた。巨大な氷柱は、澄んだ高い音を響かせると、粉々に砕け散り、無数の氷の矢となって、辺り一面に降り注ぐ。まずい。逃げ場がない。それでもティセルは一瞬の判断で、誘夢樹の林に飛び込んだ。張り巡らされた細い蔓のおかげで、幾分かは矢の飛来を防いだが、花房を散らしながら、数本の矢が身体を掠めた。致命傷を受けることはなかったが、何度も同じ攻撃を受ければ、徐々に体力を奪われることになるだろう。ティセルは眉をひそめて舌打ちした。
フムルは、長斧を高速で回転させ、傘のようにして矢の飛来を防いでいた。しかしその効率は、とても良いとは言えず、身体中に切り傷を負っていた。そして、その足元には、下草に埋もれるように倒れ込む、カーシュールの姿があった。どういう風の吹きまわしか、フムルは彼を庇うために、その場から動かなかったものと見える。
完全に歩が悪い。レイヴァスは怒りを露わにしながらも、全力ではなく、まだどこか余裕がありそうに見えた。しかもこちらは手傷を追って消耗が激しい上、フムルはカーシュールを庇うつもりらしい。不得手な魔法使い相手でもある。実力差がどれほどのものか、定かではないが、直感的に、不利だと感じていた。
ちら、とフムルを見る。フムルは一瞬目顔でレイヴァスを指し示すと、ティセルと目を合わせて、こくりと頷いた。どうやら、考えていることは同じらしい。
攻撃は最大の防御なり。相手が魔法を主力とするなら、基本は速攻だ。詠唱の隙を与えなければいい。ティセルはベストの内ポケットから、投げ用のナイフを素早く取り出し、一度に20本を投げる。ナイフは風を切って、それぞれが鋭くカーブしながら、四方に分かれて飛んでいった。狙いは正確だ。しかし相手は魔物だ。平凡な魔法使いでは、まずありえない、素早い身のこなしで、レイヴァスはナイフをかわした。
すかさず、かわした方向にフムルのトマホークが迫る。しかしそれも、レイヴァスの鉤爪がはじき返した。強大な魔法を操りながらも、高い身体能力をも備えている。フムルの斧は、勢いを失って、鈍い音を立てて地面に落下した。
落下するのと、ほぼ同時に、レイヴァスはティセルの目の前に舞い降りた。鉤爪を振りかざし、鋭く切り込んでくる。右からの攻撃をナイフで受け止めた。両手で握ったナイフの柄を通して、重い衝撃が伝わってくる。地に着いた足が、その重みに耐えかねて、土を抉った。
力で敵わないことを悟り、ティセルは素早く地を蹴った。木立の隙間を、レイヴァスの死角になるようにすり抜ける。レイヴァスはティセルを追うことはせず、フムルに向き直った。
そのとき、不意に草むらの中から、ゆらりと立ち上がる人影があった。カーシュールだ。呆けたような顔に、生ぬるい微笑を浮かべ、何ごとか呟いている。
「母さん、やっとわかってくれたんだね。僕は……僕は頑張ったよ。母さん……」
その様を見て、レイヴァスは青紫色の唇を歪め、真っ赤な舌を覗かせてにやりと笑った。
「彼は、完全に堕ちたようだな。ルヴィエはその人間の心の隙に入り込んで、望む夢を見せる。そうして夢の世界に引きずり込んで、その人間だけの桃源郷へ導くのだ。そのまま、幸せな夢の世界で、私に命を捧げれば、苦しまずに済む。それだというのに、なぜ君たちは目覚めた? 私の流した桃源郷の噂に乗せられてくるような人間たちは、皆ルヴィエの見せる夢に抗うことなどできはしないのに。なぜ君たちは、こうして私に抗うのだ? 望み通り、美しい夢に身を委ねていればいいものを」
あらぬ方向にふらふらと歩きだすカーシュールを尻目に、フムルはレイヴァスと対峙し、斧を構えた。しかしすぐに斬りかかることはせず、レイヴァスの動きを牽制しながら、声を発した。
「あんた、いったい何なのよ? あたしたちを魔物から守ったかと思えば、今度はいきなり襲いかかってくる。わけわかんないわよ。なんであたしたちが死ななきゃならないの? 桃源郷の噂を流して、人間をここに誘き寄せてるっての? なんでよ? それに、あんたさっき言ったわよね。教皇庁の連中を恨んでるなら、仕返ししてやればいいじゃない。あたしたち、手を組めるかもよ? あたしたちは、教皇庁の秘密を暴くためにここを目指してきたの。桃源郷なんて馬鹿げた話を信じてきたわけじゃない」
フムルは、言葉のひとつひとつを選ぶように、ゆっくりと話していく。しかし、それはレイヴァスを懐柔しようという目論見があるわけではなく、時間を稼いでいるのだと、ティセルはすぐに気がついた。フムルの目は、鋭い光を失わないまま、時折ちらちらとティセルに目線を送っていた。
ティセルは音を立てぬよう、レイヴァスの死角をつくように、慎重に背後に回った。レイヴァスが、そのティセルの動きに気付いている様子はない。彼は鼻で小さく笑うと、言葉を返した。
「確かに憎んではいる。しかし、もう……そんなことはどうでもいいんだ。やっと、やっと辿り着いた。戦いは終わったのだ。私には、種族の威信をかけた戦いも、裏切り牙を剥いてきた5賢者どもとの大戦も、どうでもよかった。ただ、ルヴィエを守ることだけが、私の戦いだった。大戦の前まで、私たちは、ありふれた仲のいい夫婦だった。しかし、あの戦争が全てを変えてしまった。大戦以前の、エルフとホビットとヒューマンの連合軍と、ドワーフとノームの連合軍が覇権を争って起こした戦争だ。より強力な力を求めた我々は、雑種という存在に目をつけた。それぞれの優れたところを併せ持つ、強力な戦士を作るため、当時の政府は、雑種を量産することを考えたのだ。魔道科学で遺伝子を組み換え、稀にしか生まれない雑種を量産し始めた。妻も私も、そうして生まれた。しかし、それだけならまだよかった。競いうあう両軍の技術は、神を冒涜するまでに至った。人間の遺伝子だけでは飽き足らず、虫や獣、ひいては植物まで、全ての生き物の遺伝子を組み込む実験を始めたのだ。それは当然、自然な繁殖から生まれるわけはなく、錬金術と呼ばれる技術を用い、直接人間と他の生き物を合成させる無法なものだった。」
ティセルは用心深く木立に身を隠し、息を潜めながら、その話を聞いていた。ライカが死んだあの場所、あれがまさに、その実験が行われた場所なのだろう。ライカが竜に変わる瞬間を、まざまざと思い出していた。まだレイヴァスの話は続いた。
「そして、私と妻は選ばれた。私はこうして、2千年の時を経ても生きられる身体を手にし、ヴァンパイアと呼ばれるようになった。しかし、妻は失敗だった。植物の、誘夢樹の遺伝子を組み込まれた妻の精神は崩壊し、話すこともできず、敵味方かまわず、殺戮の限りを尽くすようになってしまった。そして、他の実験体を次々と体内に取り込み、こんな姿になったのだ。被害者は妻だけではなかった。そんな悲劇が繰り返され、やがて彼らは魔物と呼ばれるようになった。そのうち実験や、戦闘の途中で逃げ出したものが、驚くべきスピードで繁殖を始めた。そうしてついに収拾がつかなくなると、魔物を倒すためと称して、大戦が始まったのだ。秘密裏に行われた実験だった。だから、多くの人間は、魔物の正体を知らず、悪魔の手先として駆逐した。妻は大戦で深い傷を負い、ここで動かなくなった。しかし、まだ生きているのだ。あれから2千年、私はここで妻を守り続けているのだ」
彼の話が本当だとすれば、魔物というのは、やはり、非道な魔道実験の被害者だということになる。そして、その基礎となった、自分たち雑種も、ある意味、魔物なのだと、ティセルは気付いた。否、魔物など、元々存在しない。皆、力を求めすぎた結果、引き起こされた悲劇だった。本当の悪魔の正体が見えてくるような気がしませんか? そんなリオンの言葉を、ふと思い出した。
もしかしたら、リオンは、この生き証人のことに勘付いていたのかもしれない。そんな気がした。
「妻は光と水さえあれば、どれだけでも生きられる。この魔道灯の灯りと、湧き出る地下水があれば、永遠に生き続けるだろう。しかし、残念ながら、私の身体は、それだけでは生きていけないのだ。ヴァンパイアと呼ばれる所以はそこなのだ。人間の生き血を啜らなければ、生き続けられない。私はルヴィエと静かに暮らしたいだけなのだ。捕食する数も、そんなに多くなくていい。10年か20年に一人。ぎりぎり命を繋げるだけの量で十分だ。だから、こんなことをしている。君たちには悪いが、貴重な食料だ、逃がすわけにはいかない。せめて、ルヴィエの見せる美しい夢の中で……という私の好意を、無駄にした君たちが悪い」
そこまで言い終えると、レイヴァスは一旦口を噤んだ。それから、突然さっと身を翻すと、ティセルの方を向き、にやりと牙を見せて笑った。
「悪いが、君の動きは全てお見通しだ。悪あがきはよして、素直に捕まってくれないか。あんまり暴れて、死なれても困るのだ。必要なのは、生き血でね」
言いながら、レイヴァスは弧を描くように腕を後方に振った。鋭い鉤爪が空間を切り裂いたかのように、突然そこに数本の一抱え程もある大きさの氷柱が現れた。詠唱なしで、魔法を使えるらしい。
氷柱は数秒の間をおいて放たれた。空気を切り裂いて、まっすぐにティセル目がけて飛んでくる。1本目、2本目まではかわした。しかし、3本目が右大腿を深く抉った。鋭い痛みと共に、鮮血が迸り出る。
「ティセル!」
フムルが叫んで、駆け寄ってきた。4本目は辛うじてかわしたが、そのまま転倒し、花畑に倒れ込んだ。最後の氷柱が目の前に迫る。絶体絶命かと思った瞬間、目の前で氷柱は砕け散った。フムルが投げた手斧が氷を砕いたのだ。
フムルは走りながら、弧を描いてその手に戻ってきた手斧を、再び投げた。風を巻いて、手斧はレイヴァス目がけて飛んでいく。しかし、それは易々とかわされた。だが、そのまま中空で弧を描いた手斧が、背後からレイヴァスを狙う。しかしそれも、レイヴァスは振り返ることすらせず、背後に手を伸ばしてキャッチした。そしてそのまま、斧を振りかぶってフムルの前に舞い降りる。
その斧の攻撃を、フムルは素手で受け止めた。レイヴァスの手首を掴んで攻撃を止めると、長斧を片手で器用に短く持ちかえ、空いた胴を狙う。レイヴァスは、それをかざした掌で弾き返した。どうやらまたも、詠唱なしで魔法を使ったらしい。掌の先に、氷の壁ができ、砕けながら斧の刃を跳ね返したのだ。
そしてかざした手をそのままフムルの腹にねじ込む。鋭い鉤爪が、フムルの脇腹を抉り、血飛沫が飛んだ。低い唸り声を上げ、フムルが蹲る。レイヴァスは、冷やかな笑みを浮かべた。
それから、レイヴァスはなにか見極めるように、交互にティセルとフムルを見た。そして、満足げに頷くと、ゆっくりとティセルの方へ歩み寄ってきた。
「死なれては困るのだよ。死んだ人間の血は酷い味がする」
レイヴァスが歩みを進めるたび、可憐な花が踏み散らされ、色とりどりの花びらが舞った。美しい。ティセルは思った。この美しい光景を眺めながら、私は死ぬのだ。そう思った。知らず知らずのうちに、胸の内ポケットの中に手を差し入れ、何かを握り締めていた。
もう頭を上げることもできず、地面に横向きに倒れたまま、ティセルはその光景を眺めていた。目が霞み、視界が歪む。ふと視界が元に戻ったとき、目の前には、先のとがった黒いブーツのつま先が見えた。長い腕が背に差しこまれ、抱き起こされる。レイヴァスの息遣いを感じた。およそ体温というものを感じない、凍りつくように冷たい息だった。ティセルの細い首筋に、ゆっくりとレイヴァスの牙が近づいてくる。
それは、最後に見せる、弱弱しい抵抗に過ぎなかった。咄嗟に、両手を出して、レイヴァスの胸を突いた。腕にはろくに力も入らず、ただ拒否の意思を示すに過ぎない程度のものだった。
絶叫が木霊したのは、次の瞬間だった。焼け金を水につけたような音と共に、白い煙が立ち上り、洞穴に響き渡る叫び声が上がったのだ。ティセルには、何が起こっているのかわからなかった。飛び退いて蹲ったレイヴァスの胸から、白煙が上がっていた。肉の焼け焦げる臭いがした。
レイヴァスが苦悶の表情で顔を上げる。青白い額を醜く歪ませ、怒張した血管が額に筋をつけている。黒く変色した唇から牙を剥きだして、口角から涎が垂れた。しかし瞳だけは鋭くティセルを睨みつけている。
「なぜ……なぜお前がそんなものを……」
ティセルはレイヴァスの目線をたどり、それは、握ったままだった自分の掌にいきついた。そこで初めて、手の中に握っているものが、焼けるように熱くなっていることに気がついた。そっと掌を開いてみる。それは指輪だった。リオンが煙草の代わりによこした、赤い宝石のついた指輪だった。宝石が燃えるように強い光を放っている。どういうことなのか理解できないまま、呆然とそれを眺めていると、宝石は突然光を失って、くすんだ赤い石に変わった。
レイヴァスは荒い息を整えながら、苦々しげにその様子を見ていた。白い煙は消えていたが、胸を抉るように大きな焼け焦げた痕が残っていた。それでも、レイヴァスは立ち上がると、ニヤリと笑った。
「自分が持っていたものが何か知らなかったのか? それは守りの指輪だ。持ち主が死に瀕したとき、一度だけ持ち主を守る、最高峰の魔道アイテムだ。相当に稀少なものに、こんなところで出会おうとは驚いたが、そんなことはどうでもいい。石が光を失った。指輪の効力は失われた。指輪が主を守るのはただの一度だけだ。次はない」
レイヴァスは胸を抑えながらも、しっかりした足取りでゆっくり歩み寄ってくる。最後に一度だけ、またリオンに守られたのか。そう思うと、こんな万事休す事態だというのに、ティセルは自然と小さく笑っていた。それは、諦めを含んだ、自嘲気味な笑いでもあった。
「こんな傷は、3人も生き血を吸えばすぐに癒える。私はまだ死ぬわけにはいかないのだ。ルヴィエと……」
そこで突然レイヴァスの呟きが消えた。ぼんやりと見上げていた、ティセルの視界から、レイヴァスが消えていた。
「まだ諦めるんじゃないわよ!」
フムルの怒声が響いた。隙をついて、フムルがレイヴァスに体当たりをしたのだ。2人がもつれあって草むらに転がる。フムルがレイヴァスに馬乗りになり、拳を振り上げ、何度も殴りつけた。殴る度にフムルの脇腹の傷から鮮血が吹き出すが、フムルは殴るのを止めなかった。
「ティセル! 吸血鬼を殺すには、木の杭で心臓を打ち抜くのよ。思い出したの。桃源郷のこと調べてるとき、リオンの本の中に、ヴァンパイアに関する本が何冊かあったわ。リオンは、きっとこいつの存在を知ってたのよ」
フムルは殴る手を休めることなく、大声で言った。後は、必死の形相でレイヴァスを抑えつけ、殴り続ける。レイヴァスは焼け焦げた胸を庇うように両腕を組みあわせて、それに耐えているようだった。
木の杭で心臓を打ち抜く。ティセルは、なんとか力を振り絞って立ち上がると、木立の中から、できるだけ真っすぐで太い枝を探した。そして、ナイフで先を尖らせていく。木の杭は、出来上がった。後は突き刺すだけだ。
しかし、突然フムルの太い叫び声が上がった。レイヴァスの鉤爪が、フムルの脇腹の傷に深々と差し込まれていた。フムルが仰け反って、倒れ込んだ。レイヴァスは立ち上がり、更にフムルの脇腹を踏みつける。
躊躇している間はない。フムルの言うことがどこまで信用できるのか、本当にこんな木の枝でレイヴァスを殺せるのか。疑問に思わないこともなかったが、今は信じるしかない。ティセルは木の杭を、槍のように構えて、地面を蹴った。
しかし、負傷した脚では、勢いが足りない。寸でのところで杭はレイヴァスの脇を掠めた。ティセルはそのままの勢いで、地面に膝をつく。
そのときだった。地面を舐めるように這いつくばり、低い呻きを噛み殺していたフムルが、飛び上がった。そして、体勢を立て直してティセルに対峙するレイヴァスを羽交い絞めにしたのだ。ティセルは、もう一度杭を中段に構え、鋭くフムルに呼びかける。
「フムル! どいて!」
このままではフムルも刺すことになってしまう。しかし、フムルは静かに首を横に振った。
「いいの。あたしごと、刺し貫くのよ」
「何言ってるの! これ以上……もうこれ以上誰かの犠牲で生き残るなんて、私は嫌。死んでも私が仕留める。どきなさい!」
それでも、フムルはレイヴァスの肩に絡めた腕を離そうとはしなかった。
「そんなボロボロの身体で、まともにこいつと戦えると思ってるの? ティセルともあろうものが、ただの一撃を外しただけで、みっともなく膝ついてるようで、こいつに勝ち目があると思う? 冷酷非情の殺人鬼なんでしょ? あたし一人の命くらい、どうってことないはずだわ」
フムルは厳しい声で言い放ち、それから不意に、驚くほど穏やかな微笑を見せた。
「あたしね、夢を見なかったのよ。アンサルヴィエの見せる夢を。気が遠くなって、夢の中を彷徨うような感覚には襲われたけど、なんの夢も見なかった。微かに、お父様の声が聞こえたような気はしたわ。でも、それだけだったの。それで気付いたのよ。あたし、自分の人生に、もう満足してるのよ。あたしは、愛された。お父様に、命を懸けてもいいほどに、愛されたの。それだけで、あたしが生まれてきた意味はあったの。だからもういいのよ。ここで死んだって、なんの悔いも残らないわ。あんたは生きなさい。リオンの意志を継ぐんでしょ? 戦うんでしょ? さあ、やりなさい」
ティセルは躊躇った。前までの自分なら、Bloody Lionと呼ばれた頃の自分なら、生き残るためなら、なんの躊躇いもなく仲間を見殺しにしていただろう。しかし、今、ティセルは迷っていた。
そのとき、フムルが苦しげに呻いた。
「あたしだって限界なのよ! そんなに長くは持たない。早く!」
フムルの哀願するような叫びが木霊した。そして、ティセルは覚悟を決めた。ここで死ぬわけにはいかない。リオンの悲願を、誰も非業の死を遂げずに済むような世界を創るため、戦わなくてはいけない。レイヴァスやアンサルヴィエという悲しい存在を、二度と産み出すことのない世界を。自分にそれができるのかは、わからない。それでも、ここで負けるわけにはいかないのだ。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!!」
ティセルは、我知らずのうちに叫んでいた。叫びながら、杭を構えて走り出していた。レイヴァスはフムルに羽交い絞めにされたまま動けずにいる。このままなら、正確にレイヴァスの心臓を刺し貫くことができる。助走をつけ、最後の力を振り絞って、ティセルは力強く地面を蹴った。
杭の先が、弾力のある肉に突き刺さる感覚が、掌を伝って腕に達した。肋骨を砕き、背の皮膚を突き破って、赤黒い血飛沫が散るのが目に入った。しかし、何か違和感を覚える。
「あんた! 何やってんのよ!」
甲高く怒鳴る、フムルの怒声が耳に届いた。ティセルはふと我に返り、後ろへ飛び下がって、何が起きたのかを把握した。
あらぬところを彷徨っていたと思ったカーシュールが、フムルに取りすがり、レイヴァスの背後でもつれあうようにして座り込んでいる。レイヴァスは、胸に杭を受けてはいたが、心臓には程遠い、ほとんど脇に近い部分に杭は食い込んでいた。こんなときに、結局カーシュールが邪魔をするのか。いったい何を考えているのだ。ティセルは歯噛みした。
フムルは、驚いたような顔をしてカーシュールに組み敷かれたまま座り込んでいる。
「死ぬな。僕をおいて、死ぬなんて許さない」
カーシュールがうわごとのように言った。その目は、ただ真っすぐに、フムルを見つめていた。
レイヴァスは、苦悶の表情を浮かべながらも立ち上がった。
「おのれ……、もう生捕には拘らない。殺してやる!」
そして、杭を抜き去ると、両手を大きく広げて、呪文の詠唱に入った。周りの空間が歪み、レイヴァスを中心に、どす黒い瘴気が渦を巻く。その圧倒的な迫力に、ティセルは動くことができなかった。今度こそ万事休す。そう思った時だった。
レイヴァスの背後の大樹が、アンサルヴィエが再び呼吸するように、大きく枝を揺らした。梢から幾本もの蔓が伸び、レイヴァスの身体を包みこんでいく。レイヴァスは驚きを隠せない様子で、きょろきょろとその伸びてくる蔓を見回した。
「ルヴィエ? いったい、何を……」
ふと見ると、アンサルヴィエの中心に、それまでは見えなかった、美しい女性が絡め捕られているのが見えた。穏やかに眠るように閉じていた目を、ゆっくりと開き、女性が口を開いた。
「レイヴァス。こんなに傷ついて、可哀そうに。もう良いのです。あなたは、十分に私を守ってくれた。あなたの戦いはもう終わりです。もう、私と一緒に眠りましょう。私の見せる夢の中で、静かに、永遠に」
蔓はレイヴァスの身体をすっかり包み込むと、優しく導くように、中心へと誘っていった。レイヴァスは驚きに見開かれた瞳を、静かに閉じると、抗うことなく、彼女の元へと吸い込まれていった。
「ルヴィエ……私を、許してくれるのか? お前を、こんな姿にした張本人の、私を。あの日、最強の魔力を誇ったお前を、最強の化け物に変えるため、自ら手を下した私を。許してくれるのか?」
レイヴァスの青白い頬を、一筋の光るものが伝った。そして、両腕を伸ばし、何かを抱き止めるように、腕を縮めた。穏やかな、幸せに満ちた顔つきだった。
レイヴァスは、女性の脇に、抱き込まれるように大樹の中に収まった。眠る子供のように安らかな表情のまま、見る間にその肌は木質に変わり、周りの蔓と同化していった。
「あなたの心が……、私には届きました。私は夢を司る樹、誘夢樹の化身。あなたが、私たちのような悲しい存在を産み出さない世界を創るというのなら、私は再びここで眠りにつきます。彼と共に、永遠に……」
女性は、ルヴィエはそう言うと、再び静かに瞳を閉じた。大樹の根元から太い蔓が伸び、彼女の姿を包み込む。そして、もう一度呼吸するように大きく枝を揺らすと、盛大に桃色の花びらを散らした。温かな風が吹いた。
舞い散る花びらの中、ティセルは呆然とその光景を眺めていた。フムルも、カーシュールに巻きつかれたまま、ただ舞い踊る花びらを眺めていた。
「終わったわね」
フムルが呟いた。それからゆっくりとカーシュールを引き剥がして、立ち上がった。カーシュールは、再び夢の中を彷徨うような、虚ろな目つきに変わり、あらぬ方向へふらふらと歩きだした。ひとりでくすくすと笑い、花畑の花に顔を埋める。彼は、一度は夢から覚めながら、また夢の中を彷徨っているようだった。
「あ~あ、結局、桃源郷なんて、幻に過ぎなかったのね。誘夢樹の見せる幻覚が、桃源郷の正体だったなんて……馬鹿げてるわ」
大きく伸びをしながら、フムルは言って、すぐに脇腹の傷を抑えて蹲った。
「桃源郷は、あったのよ」
ティセルが呟いた。フムルが怪訝な顔で、ティセルを見る。
「レイヴァスにとっては、ルヴィエと共に、静かに過ごせるここが、本当の意味での桃源郷だったに違いないわ。私には、その気持ち、少しだけわかるから……」
もう動くことはなかったが、まだひらひらと可憐な花びらを降らせる彼女を、ティセルは見上げた。洞穴を煌々と照らす魔道灯の強い光が、花房の間から、ちらちらと揺れて見えた。
「そうね。あたしにも、わかるわ」
フムルが言った。そして、花畑の中から、カーシュールを引っ張り出す。カーシュールは、薄ら笑いを浮かべたまま、なにかぶつぶつと呟いている。
「帰りましょうか」
振り返って、フムルは照れくさそうに笑った。
「あたしも、自分なりの戦いをしてみようと思うの。また、新しく生きる意味を見つけたから。完全に脳をやられてるみたいだから、戻ってくるかどうかわからないけど、あたし、この人を守りたい。あたしを、愛してくれる人が、まだここにいるんだから」
そしてフムルはカーシュールを引きずるようにして、洞穴を後にした。ティセルはしばし、そのまま立ち尽くし、再び、ルヴィエを見上げた。目の前を、走馬灯のように、様々な人の生きざまが蘇ってきた。
虐待に晒されながら、その意味も知らず、ただ懸命に生きていた雑種たち。何も知らず、自分たちの正義を信じて生きていた純血種たち。魔物となっても、ただひたすらに生きてきたものたち。祈り続けて、報われないまま命を落としたエルファンの姿。幼い命を自分のために捧げたライカ。そして、リオン。
私は戦わなくてはいけない。ただ現状に絶望し、自虐に溺れていたって、何も変わりはしない。強大なものに怯え、恨み、卑屈になっていても、望むものは絶対に手に入らない。守りたいものを、守ることなんてできない。それなら、私は、戦う。ティセルは決意を新たに、一歩を踏み出した。自分の手で、未来を掴み取るために。




