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桃源郷  作者: 胡蝶の夢
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第七章 幻の理想郷 中編

 レイヴァスの後について、更に何階層か地下へ下った。ところどころ崩落して行き止まりになっている通路を迂回しながら、複雑に入り組む細い路地を抜け、薄暗い階段を下りた。先へ進めば進むほど、不思議と身体が軽くなる感覚があった。全身の痛みも薄れてくる。それが、次第に強くなる甘い香りのせいだと、ティセルにはわかっていた。やがて、細い通路の先に、眩いばかりの光が差し込んでいるのが見えた。通路の壁が崩れ、人ひとりが通れるほどの大きさの穴が開いている。光はそこから差し込んでいた。

 レイヴァスが光の中に足を踏み入れる。すると、その光に目を射られてのことか、フムルが小さな唸り声と共に目を開いた。そして、レイヴァスの肩に担がれたままの恰好で、頓狂な声を上げる。

「まぁ! ステキ! ここは……」

「目が覚めたようだな」

 レイヴァスは無表情のまま、フムルを地面に下ろすと、目顔でティセルとカーシュールにも中へ入るよう促した。

 光の中に踏み出した瞬間、ティセルは強烈な眩暈を感じた。それは奇妙な感覚だった。外だ。複雑な地下道をぐるぐると廻っているうちに、地下へ地下へと進んでいるつもりが、それは錯覚で、地上に出てしまった。そんな気がした。そこには、眩く温かな太陽があり、大地は柔らかな若草に覆われ、目の前には小さな清んだ泉と林がある。泉の脇には、色とりどりの花が咲き乱れる花畑があり、黒みがかった、蔓のような幹を互いに絡みあわせるようにして生える樹木の林には、今を盛りとばかりに濃い桃色の花が咲き乱れていた。ティセルは、エルデイシュタフに漂っていた甘い香りが、この林から発せられたものだと気づいた。誘夢樹だ。非常に希少な樹木で、こんなに群生しているのは、見たことも聞いたこともない。

「桃源郷……」

 我知らず、ティセルは呟いていた。まさに伝説に詠われる桃源郷の景色だった。色濃く立ちこめる、甘い花の香りが鼻腔をくすぐるたびに、脳幹が痺れるような感じがする。頭がぼんやりして、徐々に思考が停止していくような感覚があった。

 不意にレイヴァスが振り返り、血の気のない唇を歪めて、ニヤリと冷笑した。口角から、獣のような鋭い牙が覗いた。

「君たちは、ここで死ぬ。最期に美しいものを見せてやろう。来るがいい」

 レイヴァスは何か言ったようだが、言葉の意味がわからなかった。確かに聞こえてはいるが、ただの音の連続としてしか認識できない。まるで魔法にでもかけられたように、再び身を翻したレイヴァスの背を追って歩き出していた。

 可憐な花を踏みしだき、泉の脇を通り抜けるとき、緑なす下草の中に、白いものが埋もれているのが目に入った。白い半球形のがらんどうに、三つの穴が開いている。それを見たとき、ティセルの頭の中で警鐘が鳴った。しかしそれも、すぐに甘い香りにかき消されてしまった。

 泉を通り過ぎると、どこからともなく薄い霧が流れてきた。しかしそれに触れたとき、それが霧ではないことがわかった。霧というよりは煙だ。湿った感じではなく、むしろさらさらとした微細な粒子が舞っている感じだった。軽く咽ると共に、強烈な、果物の腐ったような臭いが鼻腔に充満した。軽い吐き気を催し、頭がくらくらする。

 ぼんやりと煙る視界の中、木立を抜けると、レイヴァスの背中越しに、巨大な樹がそびえたっているのが見えた。黒光りする蔓が、蛇のように曲がりくねり絡み合い、直径にして何十メートルあろうかという巨大な幹を形成している。天を覆う枝には、梢がたわむほどに、濃い桃色の可憐な花房をつけている。誘夢樹は、桃によく似た植物で、本来ならさほど大きくなる木ではない。しかし、これは正しく、誘夢樹の巨木だった。

 呆然と見上げていると、風もないのに、枝が大きく揺れた。枝という枝を天に向けて、背伸びをするように反らしたかと思うと、叩きつけるように勢いよく振り下ろす。その勢いで風が巻き起こり、大量の花びらと花粉をまき散らし、辺りを薄桃色に染めた。まるで大樹が呼吸をするかのような様だった。

 霞む視界に花びらが踊る。ひどく耳鳴りがして、気が遠くなる。むせかえるような甘い香りが、脳幹を痺れさせる。危険だ。頭のどこかで、警鐘が激しく鳴り響いているのに、思考が働かず、身体が麻痺したように動かなかった。


 ここは、暖かくて、なんて心地よいのだろう。穏やかな春の陽だまりのようだ。辺り一面に咲き誇る美しい花が、ひらりひらりと舞い散り、優しく頬を撫でていく。ティセルの頬をくすぐるように掠めた桃色の花びらが、羽根のように踊りながら、清らかな水を湛える泉に落ちた。可憐な花びらは、水面に映った彼女の顔の上を、くるくると楽しげに回りながら流れていく。彼女はその様をぼんやりと眺めていた。

 満開の花房が映り込み、水面は一面に淡い桃色をして見えた。水面が揺れるのに合わせて、きらきらと輝いている。不意に、桃色一色の景色の中に、黒い影が現れた。それが人影だと気がつくのに、少し時間がかかった。その人影の手が、そっとティセルの肩に触れた。

 振り返って、ティセルは息を呑んだ。まさか、そんなはずがない。彼がこんなところにいるはずがない。

「どうしたんです? そんな顔をして。私の顔に、何かついてますか?」

 彼は、少しだけ小首を傾げ、ふんわりと笑った。

「そんな……、どうして? 死んだはずじゃ……」

「何を言ってるんですか? 君は、そのためにここに来たのでしょう? ここは、どんな願いも叶う、桃源郷ですよ。君が、私を生き返らせた」

 彼は、リオンは、そう言うと、長くしなやかな腕で、ティセルの肩を包みこんだ。背中に、彼の体温を感じる。あの夜、裸の背に触れた温かみと、同じものが背に触れた。あの夜と同じように、頭の真上に彼の息遣いを感じる。そして、あの夜と同じように、ティセルは身を固くして、ただ俯く。

「ティセル、よかったね」

 声がして振り返ると、誘夢樹の林の中、張り出した枝に腰掛けて笑いかける、ライカの姿があった。足をブラブラと揺らしながら、あどけなく微笑んでいる。しかしその頬笑みはどこか不自然で、ティセルはふと違和感を覚えた。足は地についているのに、どこか頼りなく、波のように揺らぐ感覚があった。そうだ、そうなのだ。

「違う。そんなわけない……」

 ティセルは呟くと、リオンの腕を振り払った。リオンは困ったような顔をして、再び手を伸ばす。

「どうしたんですか? 私の子供を産んでくれるんでしょう? 約束を、忘れたんですか? この楽園で、2人だけで暮らしましょう。何も恐れることなんかない。もう、戦わなくていいんです。もう教皇庁なんてどうだっていいじゃないですか。もうこれ以上傷つかなくていい」

 ティセルはその手から逃げるように後ずさると、リオンに向き直った。そして、震える声で言った。

「忘れたりしない。だけど……こんなことあり得ない。死んだ人は生き返らない。これは、夢なのよ」

 これは夢だ。ティセルにはわかっていた。色濃く漂う、誘夢樹の香りが見せる幻覚なのだ。この足元の揺らぐような感覚を、彼女は知っている。何度となく体験してきた、麻薬の見せる幻覚の世界だ。それにしても、なんて甘く、心地よい夢。このまま、この夢に呑まれてしまいたくなる。

「どうしてそんな悲しいことを言うんです? 私の言葉が信じられませんか?」

 リオンは悲しげに俯いた。差し出された手が、力なく下ろされる。胸が締め付けられる思いがして、ティセルは硬く目を閉じた。瞳を閉ざし、僅かな時間ではあったけれど、共に過ごしたリオンの顔や仕草、言葉を思い出す。違うのだ。

「違う。これは夢なのよ。リオンは、絶対にそんなこと言わない。仮に本当に生き返ったとしたって、そんなことは言うはずないのよ。もう戦わなくていいなんて言わない。教皇庁との戦いを諦めたりするはずない。ライカだってそうよ。ライカはあんなふうに、あどけなく笑ったりしない。もっと、生意気に、小憎たらしく笑うわ。これは……私の願望なのよ。夢でしかないの!」

 瞳を開く。やはり困ったような顔をして、静かに微笑むリオンの顔が、霞んで揺れて見えた。

「私はもう、教皇庁には負けたんです。戦って勝ち目がないことがわかったんです。もう戦わない。ここでティセルと2人だけで幸せに暮らしたい。そう思うことが、可笑しいですか?」

 それは、リオンの声だったのか、この夢を否定したくない、ティセル自身の胸の内だったのか、その言葉は妙にぼやけて、頭の中で反響して、ひどい頭痛を誘った。

「ごめん……ごめんね、リオン。だけど、リオンはもう死んだの。決して生き返ったりしない。私がするべきことは、そんなことじゃないでしょう? リオンも、ライカも死なずに済むような、そんな世界を創ることでしょう? 私は、リオンの意志を継いで、教皇庁と戦うわ。こんな甘ったれた願望に、負けたりしない」

 ティセルは潤んだ瞳で静かに言った。それから、立ちつくすリオンの胸に顔を埋め、ゆっくりと両腕をその背に回した。柔らかな温もりと、甘い花の香りがした。



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