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桃源郷  作者: 胡蝶の夢
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第七章 幻の理想郷 前編

 フムルがその部屋に踏み込んだとき、地響きのように低く唸る機械音の中で、ティセルは意識を失っていた。炭を溶かしたような黒い染みの上で、死んだように横たわっていた。まだ息をしていることに安堵しつつも、部屋の様子からして、何か大惨事があったことは伺える。

「ティセル! ティセルってば! どうしたのよ? いったい、何があったの?」

 フムルが揺すっても叩いても、ティセルはなかなか目を覚まそうとはしなかった。血の気の失せた白い頬に、涙の跡があった。嫌な予感がした。部屋の隅に、ライカのバッグが転がっているのに、ライカの姿はない。ティセルの涙の意味を考えると、暗澹たるものが胸に込み上げてきた。

 カーシュールは、この部屋に入るなり、あちこちに散らばる書類や、魔道装置を食い入るように眺めては、低く唸ってばかりいる。しかし突然、操作盤を掌で叩くと、掠れた声で小さく笑い、呟いた。

「いいぞ。僕の求めているものは近い」

「何? どうしたっていうの?」

 フムルは訝しく思って、そちらに目を向ける。すると、カーシュールは操作盤に両手をついて、俯いたまま言った。

「錬金術とは、元は、他の物質を合成して、高価な金を作りだすために考案された技術だった。しかし、古代の技術では、金の合成など、いとも容易くできてしまった。そこから、魔道科学者たちは、更に価値のあるもの、エネルギーを生成する研究を始めたんだ。それが、僕の求めている錬金術だ。その副産物として産み出されたのが、魔道合金やキメラだ。そして、ここにある資料を元に推測すると……」

 カーシュールはそこで、言葉を切った。目を伏せ、込み上げてくる笑いをかみ殺すように肩を揺すった後、辺りを見回し、グロテスクな生物の入った水槽を指差して、続けた。

「魔道科学者たちの興味は、あれに向かったんだ。魔物だよ。様々な動植物や人間を合成して、最強の生物を生み出そうとした。他からのエネルギー供給がなくても生きられる、不老不死の、究極の生命体。年代からして、五賢者が現れる前、種族同士がいがみ合っていた頃だ。恐らくは、戦争のために……。その失敗作が、ここを徘徊している魔物ってことだろうな。その究極のものと言ったら……」

「まさか! アンサルヴィエを創ったのは……」

 フムルはそう呟いて、気がついた。それこそが教皇庁の秘密なのだと。魔物を作りだす研究は、秘密裏に行われていただろう。そして、世界を大混乱に陥れた巨大な魔物を作った本人が、それを倒して英雄のような顔をして教皇庁を設立する。権力の座を確固たるものとした今、その秘密は、なんとしても守らなければならなかったのだろう。

「そんなことだろうと思ったわ」

 いつの間に目を覚ましたのか、ティセルが身を起して、低く呟いた。

「ティセル! 気がついたのね。ライカは? ライカはどうしたの?」

 フムルは、その答えを予想はしていた。半ば労わるように、遠慮がちにその名を口にした。しかしティセルは声を発することなく、ただ静かに首を横に振った。

「そう……」

 長い沈黙が降りた。その沈黙を破って、カーシュールが口を開く。

「死んだガキのことなんて、どうでもいい。先を急ぐぞ」

「ちょっと、待ってよ」

 先に立って歩き出そうとするカーシュールを、フムルが呼び止めた。

「リオンが目指していたものは、これだったんじゃないの? 教皇庁の秘密。この資料を持ち帰れば、立派な証拠にもなるわ。もう、ここまででいいんじゃないの? ティセルの体力だって、もう限界だわ。これ以上進んで、何があるっていうの? 桃源郷なんて、やっぱりただのお伽噺なのよ。あるわけないわ」

 フムルは、身を起こしているだけでもやっとの様子のティセルを見た。満身創痍で、もうこれ以上動くこともできそうにない。もう、これが限界だろう。目的は達したのだ。

「まだよ。まだ目的地にはついてない。証拠って言ったって、まだ推測の域を出ないじゃない」

 しかしティセルは、意外にも力強い声で言った。

「勘違いしないで。まさか、桃源郷に行けば、リオンやライカが生き返るなんて思ってるわけじゃない。リオンは、魔物が人間の手で作られたってことは、知っていた節があったわ。そのリオンが桃源郷について調べてたのよ。桃源郷には、まだ他の何かがある。きっと、もっと決定的な何かが」

 ティセルはよろけながらも立ち上がり、歩き始めた。カーシュールがそれに続き、フムルもやや遅れて、大きな溜息と共に歩き出した。

 また、風が吹いた。甘い香りを乗せた、生ぬるい風が。


 研究所から先は、廃墟となった街が続いていた。綺麗に整備された石畳に、所々、街灯が灯っていた。かといって、人間が住んでいる気配はない。カーシュールによれば、どういう仕掛けなのかは定かではないが、古代には、わずかな地熱を増幅させてエネルギーに変える技術があって、それが未だに街にエネルギーを供給し続けているのだろうと言う。

 ただ、人間はいないのだが、地下へ進むほど、魔物の数は増えていくようだった。単体ではたいした脅威ではなかったが、なにしろ数が多い。ティセルは、どうにか気力だけで、ここまで歩いては来たが、戦える状態ではない。魔物を一手に引き受けるフムルにも、疲労の色が見えた。

「いったい、どこまで続くのかしら?」

 フムルが、首の筋をパキパキと鳴らしながら、大きな溜息をついた。あれから、追手には遭遇しないが、再三の魔物の襲撃を受けつつ進んできた。時間の感覚を奪われる暗闇の中、定かなことはわからないが、ずいぶん長い時間、歩き続けた気がする。

「お腹、空いたわね。少し休みましょうよ」

 フムルの腹が大きな音をたてた。確かに空腹だった。

 家の中で休むことも考えたが、万が一のとき、逃げ場を失うことにならぬよう、街の広場で野営することにした。手近な民家の扉を壊して薪にした。十分な量とはいかないまでも、持ってきた食糧で軽い食事を摂り、暖色の炎を見つめていると、自然と眠気に襲われる。

 ティセルは壁に寄り掛かって、心地よい眠気と戦っていた。こんなところで、無防備に眠りこけるわけにはいかない。しかし、カーシュールは呑気にも、身を横たえて、既に眠っていた。閉じようとする瞼を必死に開き、恨めしく彼を睨んだ。

 そのとき、同じように眠気に耐えている風だったフムルが、不意に口を開いた。

「ねぇ、ティセル。あんた、地上に戻ったらどうするつもりなの? 教皇庁の秘密をばらして、ひと騒ぎ起こす?」

 改めて聞かれると、具体的なことは何も考えていなかった。ただ漠然と、リオンの無念を晴らして、教皇庁をひっくり返せれば、くらいに思っていた。

「でもさ、あたしたちが教皇庁の秘密を持ち帰って騒いだところで、相手にされるのかしら? リオンなら……、教皇庁のトップに近かった彼の言うことなら、それなりの影響力はあったでしょうね。でも、あたしたちじゃ、逆賊のでまかせで片付けられそうな気がするわね。まあ、もともと指名手配犯なんだから、追われることになんの変りもないけど。あたしたちのしてることって、意味あるのかしら?」

 フムルの言うことは、もっともだった。地上に戻って、事実を公表したところで、相手にされるかどうか、甚だ疑問だ。

「わからない」

 そう答えるしかなかった。フムルが大きな溜息をついた。

「あたしさ、半分くらいは、桃源郷に行ってみたい気持ちもあったのよ。もし本当に理想郷があるのなら、そこへ行ってみたい。また地上に戻っても、教皇庁に勝ち目があるかどうかわからないじゃない。リオンの敵を討ちたい気持ちはあるけど、具体的に何をすればいいのかしら……。まあ、今そんなことを考えたって仕方ないわね。桃源郷、どんなところなのかしらね? 行きつけるのかしら?」

 それだけ言うと、フムルは大きく伸びをして、大あくびをした。

「あたしも少し寝るわ。あんたも少し寝た方がいいわよ」

 言うが早いか、フムルはすぐに鼾をかきはじめた。まったく、フムルといいカーシュールといい、危機感が足りないように、ティセルには思えた。魔物の襲撃なら、飛び起きてでも間に合うかもしれないが、無防備に眠っているところを追手に見つかったら、どうなるかしれない。

 ティセルは、となりで眠りこけるフムルの脇腹を蹴った。しかし、まったく起きる気配はなかった。

 ひとつ溜息をついたとき、一羽の蝙蝠が飛んでいるのに気がついた。閉鎖された地下空でも、蝙蝠くらいはいるのだろうか。蝙蝠は、ゆっくりと旋回するようにティセルたちの頭上を飛ぶと、またどこかへ飛び去った。

 蝙蝠が飛び去ると、また風が吹いた。温かく、一段と濃厚な甘い香りを乗せた風だった。その熟した桃のような香りをかぐと、ティセルは急に、猛烈な睡魔に襲われた。耳鳴りがして、見る間に目の前が霞んでいく。まずい。そう思いながらも、ティセルの意識は急速に失われていった。


 どのくらい眠っていたのか、物音に目覚めたときには、既に囲まれていた。リザードマンとでも呼ぶべきか、人間ほどの大きさで、直立する白いトカゲのような魔物だった。鋭い牙を剥きだして、蛇が獲物を威嚇するような唸りを上げている。

「フムル! 起きて!」

 ティセルは、あらん限りの力でフムルの顔を蹴りつけたが、フムルは一向に目覚めない。カーシュールはすぐに身体を起したが、何かまだ夢の中から抜け出せないような顔でぼんやりしている。

 いつの間にか、辺り一面に、微かに甘い香りが漂っていることに気付いた。原因は、恐らくそれだ。この香りをどこかで嗅いだ事があるとは思っていたのだが、今まで思い至らなかった。誘夢樹と呼ばれる、桃によく似た植物の、花粉の臭いだ。非常に希少な植物で、麻薬の原料として高値で取引される。幻覚や多幸感、鎮痛、そして催眠などの作用がある。ティセルだけ効果が薄いのは、常用していた煙草に、その成分も含まれていたせいだろう。耐性ができているのだ。

「起きなさいってば!!」

 ナイフの柄で額を小突いても、やはりフムルは起きなかった。魔物が一匹、ティセル目がけて飛びかかってきた。避ける間もなく、組み敷かれる形になる。ごつごつした鱗が、肌を引っ掻く。それを皮きりに、魔物たちは次々と襲いかかってきた。2体が眠っているフムルに覆いかぶさり、裂けんばかりに口を開いた。カーシュールは、地面に押し倒されて、やっと目が覚めたようで、驚いたように目を剥いた。

 そのとき、また一羽の蝙蝠が飛んできた。そして先ほどと同じように、ティセルたちの上を、ゆっくりと旋回する。その様子に気を取られていると、不意に、ティセルの上に圧し掛かっていた魔物の首が、宙を舞った。白く輝く氷の刃が魔物の首を刎ねたのだ。それは勢いを失うことなく、次々と魔物を切り刻んでいく。

 その男は、闇の中から、不意に現れた。一見はエルフのように見えた。細身の長身で、闇に溶けるような長い黒髪、黒いローブを身に纏っている。しかし、まるで死体の肌を思わせるような青白い肌に、光を放つような深紅の瞳は、純血ではないことを物語っていた。

 その場にいた半分ほどの魔物を両断すると、氷の刃は失速して地面に落ちると、砕けて消えた。残った魔物たちも、まるで、その男に怯えるように、逃げ去った。

「無事か? 久しぶりの客人だ。低能なできそこないにくれてやるわけにはいかない」

 男がそう言って、ティセルに手を差し伸べた。まるで血の気を感じさせない、青白く細長い指先に、鋭く尖った黒い爪が伸びている。いったい何者なのか、敵か味方か判断もつかず、ティセルはただその指先と、端正ではあるが、死者のように青白い顔を交互に眺めていた。

 そこへ、先ほどの蝙蝠が飛来し、差し伸べた腕に止まった。そして、まるで男の肉に溶けるように、蝙蝠は男の腕に吸収されていった。そこで、ティセルは男の正体に勘付いた。

「まさか……魔物!?」

 ティセルは、思わず、その手を払いのけた。大戦の頃には、知能が高く、人間の言葉を話す魔物もいたというが、まさか、この目で実際に見るとは思わなかった。

 すると男は、眉根を寄せて、小さく溜息をついた。

「そう呼ばれるのは不本意だが、近い存在であることは否定しない。しかし、恐れることはない。君たちは、私の、大切な客人だ。悪いようにはしない。ついてくるがいい」

 男は、まるで感情というものを感じさせない声で言い、身を翻した。しかし、翻しかけて、一瞬動きを止めると、こう名乗った。

「私はレイヴァス。これでも、君たちと同じ人間だ。いや、人間だった」

 それだけ言うと、彼はまだ眠っているフムルを軽々と抱きかかえ、ティセルに背を向けた。有無を言わせない、迫力のようなものがあった。ここで逆らえば、すぐにでも殺される。背筋の凍りつくような感覚と共に、そう直感した。彼の放つ、魔物独特の瘴気がそう告げていた。仕方なく、ティセルは、まだ寝ぼけているようなカーシュールの背を押しながら、後に従った。


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