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桃源郷  作者: 胡蝶の夢
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第六章 祈り 後編

 意識を取り戻して、一番初めに目に入ったのは、鉄格子だった。どうやら捕まったらしい。ことの経緯を思い出して、フムルは、自分の大失態に、自ずと顔が赤くなるのを感じた。そして、照れを隠すかのように、鉄格子をガタガタと揺らし始める。

「ちょっと! てんとう虫は卑怯よ! 開けなさい! ここを開けなさいよ!」

 喚きながら鉄格子を揺すったが、見張りの兵は、ちらりと一瞥をくれただけで、声一つ発しなかった。

 今度は、格子の間から手を伸ばし、かけられた錠を引っ張ったり、太い指を無理やり鍵穴に差しこもうと試みたりする。そのとき、背後で声がした。

「無駄だよ。この檻は開けられない」

 振り返ると、壁際でカーシュールが、膝を抱えるようにして項垂れていた。深い溜息をつくと、自らの両手をぼんやりと眺めて、独り言のように言った。

「情けないな。天才鍵師だなんて言ったって、道具を取り上げられたら、こんな単純な南京錠ひとつ開けられない。こんな……どこにでもあるような南京錠ごときが!」

 カーシュールは、その白くたおやかな手をぎゅっと握りしめ、膝頭に額を押しつけた。細い肩を震わせ、震える吐息を押し殺すように、大きく息をついている。

「やだ。ちょっと、あんた、泣いてるの?」

 その問いかけには答えなかったが、カーシュールは確かに泣いているようだった。フムルは軽く溜息をつくと、黙ってその隣に座った。

「こんなはずじゃなかったんだ。錬金術を手に入れて、今度こそ……母さんに認めて欲しかっただけなのに。今度こそ、もう助からない。殺される。嫌だ。死にたくない」

 カーシュールは、震える声で、囁くように話し始めた。焦点の合わない目で、敷石の床を見つめたまま。そして、自嘲気味に、乾いた笑い声をたてた。

「可笑しいだろ? いい歳をして、母さん、だなんて。笑えよ。ガキだって……マザコン野郎だって、笑えよ!」

 しかし、フムルは笑う気にはなれなかった。自分もそうであったように、自分のルーツである“親”という存在にこだわることが、彼の言うように子供じみたことだとは思えなかった。

「可笑しくないわよ。いくつになったって……むしろ、歳を重ねれば重ねるほど、親ってものの存在の大きさに気づくものだわ。愛したり、憎んだりしながら、それでも忘れられるものじゃないもの。あたしだって、そうよ。今でも、お父様のこと、よく考えるわ」

 カーシュールは、ちらと横目でフムルを見た。しかし、何を言うでもなく、しばしの間、黙り込んだ。それから、大きな溜息とともに、言葉を吐きだした。

「母さんは、片田舎の富豪の一人娘だった。子供のころから、村の権力者との間に婚約が交わされていて、何不自由なく暮らしていたお嬢様だったんだ。それが、旅芸人の男と恋に落ちた。妊娠したことが親にばれて、勘当され、男を追って聖都まで来たはいいが、結局男には捨てられた。くだらない、よくある話さ。そして生まれたのが僕だ。でも、苦労知らずに育ってきた母さんに、たった一人で子供を育てていくなんて無理だったんだ。どんな職も手につかず、結局は娼婦のような生活しかなかった。家には不特定の男が出入りして、ときには母さんも僕も、暴力をふるわれることもあった。そんな生活に嫌気がさした母さんは、酒を飲んでは僕に言ったものさ。お前ができなければ、こんなことにはならなかったのに。お前さえ、生まれてこなければ……ってね。貧しかったからさ。金があれば、生活に困らなければ、きっと母さんはそんなことを言わなくなる。そう思って、僕は独学で鍵師になった。犯罪でも、小汚い雑種と組んで仕事をすることも、どうでもよかった。金が必要だった。でも、母さんは、そんな僕を、もっと汚らわしいものでも見るような眼で見るようになった。それなら、もっと大きな力を。もっと偉大な何かを手に入れれば、母さんも僕を認めてくれるような気がして……。僕は馬鹿だな。結局、こうして誰にも愛されないまま、死んでいくんだ」

 涙を隠すように、俯いたまま語るカーシュールの言葉を、フムルは黙って聞いていた。それぞれに過去があって、皆、自分の生きる価値を求めて、足搔きながら生きている。そんな気がした。フムルは、そっと彼の肩を抱き寄せ、囁いた。

「可哀そうなひと。愛されないって、辛いわね。あたしね、ずっと自分の存在を呪ってきた。あたし、普通に生まれてきた子供じゃないの。お父様は、究極の肉体を求めて、遊びのように異種交配を繰り返してた。その集大成があたし。残酷な方法で、玩具のように産み出されたのよ。もうその時にはお父様は死んでたけど、それを知ったとき、あたしはお父様を憎んだわ。でもね、今は違うの。リオンって、馬鹿な男に出会ったから。彼は、命がけでひとりの女を愛したわ。許されない恋だった。結局、彼女は死んじゃったけど、彼、言ったのよ。自分の身勝手のせいで、彼女を幸せにすることができなかった。愛さなければよかった……てさ。でも、それは違うわ。彼女、愛されたんだもの。どんな形であれ、あんなに求められたんだもの。幸せだったに決まってる。そのとき、あたし、気付いたのよ。あたしも愛されたんだって。狂った動機でも、方法は間違っていても、あたし、お父様に心から愛されていたと思うの。お父様は、あたしを庇って殺されたのよ。そんなにまで、命を懸けるほどに、あたしは愛された。それだけで、あたしの生まれてきた価値はあったんだって」

 カーシュールは、聞いているのかいないのか、虚ろな目を彷徨わせていた。そして一言、呟いた。

「うらやましいな……」

 フムルは大きな溜息をついた。それから、カーシュールの頬を両手で掴むと、無理やり自分の方へ向け、にっこりと微笑んだ。

「まだ死ぬと決まったわけじゃないわ。まだ明日は来るわよ。そんな暗い顔してちゃダメ! あんた、顔は良いのよねぇ。あとは、あの残虐趣味だけなんとかなれば、きっと誰か好きになってくれるひともいるわよ。どんなに絶望的な状況でも、明日はどんな日が来るかわからないのよ。あたしが絶望してたとき、リオンが救ってくれたように、あんたにも素敵な出会いがあるかもしれないじゃない」

 それは突然だった。フムルの両手をすり抜けて、カーシュールがフムルの腕の中に滑り込んだと思うと、唇が重ねられた。哀願するような瞳が、フムルを見つめる。少ししょっぱい、熱い唇が、フムルの耳元に囁きかける。

「フムルは僕を、愛してくれる? 他の誰かじゃない。フムルが欲しい」

「ちょ……ちょっと、馬鹿! あんた、見境が無いにも程があるわよ!」

 全身が熱くなり、頭蓋内に拍動を感じる。フムルは、胸の鼓動を隠すように、慌ててカーシュールを引き離した。カーシュールは、背を壁に打ちつけられ、一瞬苦痛の表情を見せたが、次の瞬間には、また元の余裕の笑みに戻っていた。

「くくっ、やっぱり、可愛いな」

 更に頭に血が昇るのを感じ、フムルが怒声を上げようとした、そのとき、声がした。

「やめろ、やめろ! 醜悪なものを見せつけてくれるじゃないか」

 鉄格子の向こうに、派手な青色の鎧を纏ったヒューマンの男がふんぞり返っている姿が目に入った。草摺の前部には大きく聖騎士団の紋章が描かれている。フムルには、見覚えのある装束だった。

「あら、こんなむさ苦しい所へ、異端審問官長のお出ましなの? 何か御用かしら?」

 忘れもしない、あの日ユリアスが身に着けていたものと同じ装束だ。フムルは鼻で大きく息をつくと、目だけは鋭く相手を睨みつけながら、赤い唇を捻じ曲げて笑顔を作った。なぜ異端審問官が出てくるのか。単に反逆者を駆逐するなら、警邏隊か騎士団の仕事のはずだ。何か、ある。

 しかし、長官はフムルの問いかけを無視して、いきなり抜き身の剣を、格子の間から差し入れて、フムルの喉元に突きつけた。鋼の冷たい感触が顎に当たる。

「おい、化け物。赤毛の小娘とはどういう関係だ?」

 いきなり化け物と呼ばわれて、素直に返事をするわけもない。そうでなくても、答える気はなかったが。

「あんたに関係ないじゃない。あんたこそ、あの子のなんなのよ?」

 フムルは、ふんっ、と鼻で笑った。

 長官も口角を引き攣らせながら、苦々しげに笑った。

「状況がわかっていないらしいな。小娘から何を聞いた? このエルデイシュタフに侵入した目的はなんだ? 答えろ。それを聞き出すために、わざわざ生かしておいたんだ。答えないなら、今すぐに首を刎ねるぞ」

 鋭い切っ先に力が込められ、喉元にちりちりと焼けるような痛みが走る。一筋、温かい血液が流れるのを感じた。しかし、フムルは笑っていた。くっく、と笑いながら、虫でもつまむように剣先を指先でつまむと、そのまま長官の手から剣を抜きとり、紙くずでも放り投げるように、投げ捨てた。

「気になるんだ? リオンがティセルにどこまで教えたのか。やっぱり、ここには、桃源郷なんてお伽噺じゃなく、教皇庁の秘密が隠されてるのね? ますますこんなところで、のんびりしてるわけにはいかないわね」

 フムルは立ち上がると、ゆっくりと鉄格子に向かって歩き出した。

 苦り切った顔で長官が合図すると、数人の兵士が三叉を手に駈け出してきた。そして鉄格子に近寄ろうとするフムルを、抑えつける。さすがに3本の三叉で抑えつけられては、なすすべもないのか、フムルは、苦い顔で、腹に食い込む鉄の棒を眺めたまま、壁に押し付けられた。

「そんな強がりを言っていられるのも、今のうちだ。たっぷり痛い思いをしてから吐くがいい。教皇庁の秘密を外に漏らすわけにはいかんのだ。何を知ったか、誰に喋ったのか、全部吐かせてやる」

 長官が勝ち誇った顔で言い終わるかと思えば、突然フムルが絶叫を上げた。

「きゃぁぁぁぁっ! なんてことすんのよ!? あたしのお気に入りが……」

 叫ぶと同時に、3本の三叉を一度にへし折った。そして、服に引っかかった1本を、そっと抜きとる。お気に入りのワンピースに穴が開いてしまったことに、ショックを受けて、身動きできなかったのだ。

「やだ。革製なのよ……。直せるかしら? 嫌だわ、上手く縫ったって痕が残っちゃう。どうしてくれるのよ、まったく……」

 叫ぶだけ叫ぶと、今度はぶつぶつと言いながら、疵口を指先でつまんでは覗いている。カーシュールも含め、その場にいた皆が、呆然とその様子を眺めていた。

「まあ、仕方ないわね」

 ややあって、フムルは呟くと、周囲が呆然とする中、鉄格子に歩み寄り、それを両手で掴んだ。そして、軽くカーシュールの方へ振り返ると、言った。

「ねえ、あんた、押してもだめなら引いてみな、って言葉知ってる? あれと一緒よ。鍵が開かないなら、ぶっ壊せばいいのよ」

「はぁ?」

 呆れ顔で聞き返すカーシュールの目の前で、フムルは鉄格子を捻じ曲げ始めた。太い格子が、見る間に曲がっていく。

 兵士たちが、慌ててそれぞれの武器を構える。しかしあっという間に鉄格子は無残に曲がり、人ひとりが通れる程の穴が開いた。窮屈そうに、しかしするりと檻を抜け出したフムルは、一直線に長官に掴みかかった。

「さあ、痛い思い、してもらおうかしら?」


 どこかで、誰かが呼んでいる声がする。ティセル、ティセルと、煩いくらいに繰り返し、名前を呼ばれる。目を開けたいのに、とてつもなく瞼が重い。やっとのことで目を開けると、薄闇の中に、ぼんやりとライカの顔が浮かんでいた。

「よかった。生きてた」

 心配げなライカの顔越しに、上を見上げる。崩れたフロアの階層が、ぼんやりとだが、5段ほど見えた。フムルの大暴走に終わった虫使いとの戦いがあったのは、災厄の扉の前だから、地下一階部分に当たる。5階分の高さを、無防備に落ちて、よく助かったものだ、とティセルはひとつ溜息をついた。

 しかし、一命は取り留めたとはいえ、楽観できる状況ではないこともわかっていた。毒蜘蛛に噛まれた傷は、焼けるように痛み、毒が回ったものか、全身に鈍い痺れを感じる。大蜘蛛の攻撃を受けた右腕も、骨折している。落下の衝撃のためか、肋骨も何本か折れているようだ。身体を起こすのさえ、一苦労だった。

「上は、どうなったの? フムルとカーシュールは?」

 しかし、その問いには、ライカも首を横に振るばかりだった。

「わからない。オレも崩落に巻き込まれて、落ちてきたから。オレは途中で引っかかって、ここまではロープで降りてきたけど、ティセル、この高さを真っ逆さまだもん。さすがに死んだかと思ったよ」

 安堵のためか、ライカは半泣きの顔で笑った。

「ともかく、このままここにいるのも危険ね」

 ティセルは全身の痛みを堪えて、どうにか立ち上がった。しかし、強烈な眩暈に襲われて、身体がぐらつく。そこへライカがさっと脇に入り、身体を支えてくれた。心配そうな顔で見上げるライカに、ティセルは目顔で頷いて見せた。

 ライカに支えられて歩きながら、ふと、あることに気がついた。一条の光も差し込まないはずの地下空だと言うのに、どこからか青白い光が差しているのだ。ライカはランプを持っていない。

「この灯りは?」

「さあ。奥の方からだね」

 その方向へ向かうと、それは、一枚の扉の隙間から漏れ出ていることがわかった。耳を澄ましてみたが、酷い頭痛で、細かな音までは探れない。ただ、何か機械の駆動音のようなものが聞こえた。

 覚悟を決めて、そっと扉を押し開けてみる。すると、眩しいほどの光が目を射た。一瞬、目の前が真っ白になって何も見えないほどだった。しかし、目が光に慣れてくると、次第にその内部の様子が見えてくる。

「これは……」

 そこは何かの研究室のようだった。いったい何をするためのものなのかはわからないが、巨大な魔道装置が、広いフロアの中央に据えられ、多くの円柱形の水槽が周りを取り囲んでいる。一度だけ見たことがある、魔道合成獣を作る研究施設に似ていた。

 どうやら機械は動いているようだが、辺りを見渡しても、人の姿はない。生き物の動く気配も、何物かが潜んでいるような息遣いもない。とりあえず、危険はなさそうだと踏んで、ティセルは、手近にあった椅子に座り込んだ。熱でもあるのか、合金のひんやりした感触が心地よかった。

 もう一度、辺りをよく観察してみる。水槽の大半は割れて、空になっていたが、いくつかには、生死の程はわからないが、何やら生物らしきものが入っていた。恐らくは魔道合成獣だろう。しかし、そのどれもが、今までに見たことのないような、グロテスクなものばかりだった。表皮を毟った人間の身体を、頭部だけ魚の頭に挿げ替えたようなもの。口から無数の触手が飛び出した、人間の生首。潰れた肉塊を串で刺し連ねて作ったかのような、ひとがた。

「悪趣味ね」

 呟いたとき、不意に、そのうちの一つが動いたような気がした。狭い水槽の中で、巨大な蝙蝠のような羽根を畳み、縮こまるような姿勢で浮遊する人間。しかし、緑色の皮膚をしたそれには、胸から上の部分が削げるように無く、赤黒い内臓が覗いていた。羽根を伝って、首のあるべき部分から、鎌首をもたげるような形で大蛇が牙を剝いている。禍々しい姿だった。

「ティセル。これって……」

 なにやら書類のようなものを熱心に見ていたライカが呟いた。

「読めるの?」

 ティセルの目の前にも、似たような書類はあったが、古代文字で書かれている上、魔道用語なのか、よくわからない言葉ばかりで、さっぱり内容はわからない。

「少しだけ。オレだって、魔導師の端くれなんだ。少しは魔道科学の勉強もしてるんだよ」

 そう言って、ライカは得意げに、少し笑った。しかし、すぐに真顔に戻って、何か言いかけた。しかし、ティセルがそれを制する。

「しっ! 何か来る!」

 ティセルは鋭く、ひとこと言うと、素早く物陰に身を潜めた。ライカもそれに倣う。

 入ってきたのとは反対側の扉の方から、具足の鳴る音がする。鈍った感覚では、数の程まではわからないが、確かに何者かが近づいてくるのがわかった。ややあって、扉が開く。

「なんだ、ここは?」

「これは驚いた。2千年も前の魔道装置がまだ生きているとは……」

「これが……錬金術というものか」

 扉が開いた瞬間、入ってきた男たちは、驚いたような顔をして、ざわめいた。教皇庁の紋章の入った鎧を纏った15人編成の小隊だった。紋章の色からすると、聖騎士団らしい。が、その中央に、騎士らしからぬ人物がいることに気がついた。すらっとした細身の長身で、軽装鎧の上から、宝石をあしらった絹のマントを羽織っている。その男の顔を見た瞬間、ティセルは思わず息を呑んだ。

 見たことのある顔だった。柔らかそうな金髪に、青い瞳。リオンだ。一瞬、見間違うほどに、その男はリオンに似ていた。しかし、良く見れば、歳はもう少し上のようだ。そして、決定的に違うのは、その瞳の冷たさだった。冷酷さを感じさせる、鋭い目つきをしていた。

「アレン様、何者かが潜んでいる気配が……」

 先頭のホビットが、その中心の男に、囁くように言った。アレンと呼ばれた男が、軽く顎をしゃくると、護衛らしき3名を残して、残りの騎士が散らばった。見つかるのは時間の問題だ。

「絶体絶命ね。この状態で、とても15人を相手に戦えない」

 ティセルは小さく舌打ちをした。そして、傍らで身を縮めるライカをちらりと見た。それからひとつ溜息をつく。

「逃げなさい。ここは私がなんとか時間を稼ぐ。逃げて」

 そう言うと、痛みを堪えて、床を蹴った。腰から短刀を抜き、手近にいた騎士に斬りかかる。しかし、最初の一撃は、すんでのところでかわされた。無理もないことだと思った。ティセルの観が正しければ、彼らは聖騎士団の中でも最強の精鋭部隊、近衛隊だろう。完全に歩が悪い。それでも、すぐさま足払いをかけ、具足の隙間から、膝の裏を突きさした。男の悲鳴が上がる。

 そこへすかさず、矢が飛来する。それを短刀で弾き落とし、再び床を蹴って、アレンを守る中心の部隊目がけて走った。しかし、そこへ轟音を響かせて、眩いほどの雷撃が降り注いだ。幅のある雷撃をかわすことができず、まともに食らった。目の前に鮮やかな黄色い火花が散り、全身に強烈な痛みが走る。どうやらアレンが放ったものらしい。全身が痺れて動けなかった。もう少し時間を稼ぐつもりだったのに、あっけなく床を舐める羽目になってしまった。

「ティセル!!」

 ライカが叫んで、駆け寄ってくる。

「馬鹿! 私に構わずに逃げなさい! 早く!」

 ティセルは、振り絞るような声で、ライカに行った。しかし、ライカはその言葉を無視して、倒れ込んだティセルの身体に取りすがった。

「できないよ。ティセルを置いて逃げるなんて……オレにはできない」

 そう言ったライカの声は震えていた。声だけではない。弱弱しい笑みを作った顔も、触れる手も、足も、身体中が、小刻みに震えていた。

「オレだって男なんだ。ティセルは、オレが守るよ」

 ライカは、震える声で言うと、立ち上がった。この状況で、いったいライカに何ができるというのか。戦って勝てる相手ではない。自棄を起こして、死に花でも咲かせようというのか。かといって、現実的に逃げ切れる望みがあるかと言えば、それも難しいことではあるのだが。

 足も震えて、満足に歩けないような格好で、ライカは歩き出した。しかし、向かう方向が違っている。戦うのなら、アレンを囲む部隊だろうに、ライカはどこを目指しているのか、見当違いの方向へ進んでいた。

「なんだ? 来るんじゃなかったのか? 結局逃げるのか。妙なガキだ」

 アレンが鼻で笑って、弓を番えた騎士の肩を叩いた。それを合図に、矢が放たれる。矢は鋭く空気を切り裂き、一直線に飛び、ライカの背中に命中した。騎士たちの中から、失笑が起こった。ライカは、倒れながらも、まだ這うようにして前へ進んでいる。そんなライカに、方々から、嘲笑まじりに矢が放たれる。肩に、足に矢を受けながら、それでもライカは進む。しかし力尽きたのか、ひとつの水槽の下まで辿り着くと、ライカは動かなくなった。

「ライカ……、何馬鹿やって……」

 ティセルの胸の内から、何かが込み上げてきて、目の前が霞むのを感じた。悔しさか、憤りか、悲しみか、判然とはしない感情が湧きあがり、ティセルは握りこぶしで床を叩いた。

「どうやら、こいつがティセルとかいう赤毛の女のようだな。こんなにあっさり見つかるとは、やはり、運が向いている証拠か」

 アレンが言って、ティセルに歩み寄ってきた。満足げな笑みを浮かべ、肩を揺らしながら、悠然と歩んできた。もう少し、もう少し前へ出れば、せめてその足先にナイフを突き立ててやれるのに。そんなことを思いながら、ティセルは背の高いアレンを見上げていた。

「君には感謝しているんだよ」

 アレンは、出し抜けにそう言った。

「あの生意気なリオンを死に追いやってくれたのは、君だからね。お陰で、一度は奪われた次期大賢者の座を取り戻せたよ。君が騎士団に捕まって殺される前に、是非、お礼がしたくてね。それで捜索隊に志願したんだ」

 そう言いながら、アレンはティセルの目の前まで来ると、靴先でティセルの顎を蹴りあげた。刺してやりたい。そう思いながらも、ティセルの腕は言うことを聞かなかった。まだ先ほどの雷撃の余韻が残り、全身が痺れて、感覚がない。そのくせ、蹴られた痛みだけは感じた。

「まずは、目かな? それとも乳房でも切り取ってやろうか」

 アレンは楽しげに含み笑いをしながら、身動きの取れないティセルの身体を仰向けにし、舐めるように見まわす。その瞳には、狂気を感じさせる色があった。

「気が済まないんだよ。禁呪を使って死んだ? それだけじゃ、気が済まない。もっと苦しませなけりゃ、私の気持ちは晴れないんだ。奴が命を懸けて守った女だって? それなら、リオンのその大事な女でも痛めつけなきゃ、私の気は晴れないんだよ」

 けたたましく笑いながら、アレンがティセルの胸倉に手をかけたときだった。部屋の中央から、高い機械音が鳴りだした。見ると、身体中を矢に貫かれたライカが、魔道装置の操作パネルに、覆いかぶさるようにして、何かの操作をしているところだった。

「ティセル、ここはね、魔道合成獣を作るところだったんだ。でも、普通のキメラじゃない。いろんな生き物……人間も含めて、合成していた。オレは……魔物になるよ」

 ライカはそう言うと、ゆらりと立ち上がって、空の水槽の下の扉から、中に滑り込んだ。その水槽とパイプで繋がれているのは、さっき動いたように見えた水槽だった。機械が一層大きな音で唸り始め、水槽が赤い光に包まれる。耳鳴りのような音が響き、フロア全体が振動する。

 耳障りな音を立てて、水槽が粉々に割れ、散った。何か大きな黒い塊が、空を切って飛び上がり、宙に浮いた。大きな翼がゆっくりと風を巻く音がする。

「ライカ……なの?」

 ティセルは仰向けに倒れたまま、呆然とその生物を眺めていた。それは、黒い竜だった。漆黒の翼に、黒金のような鱗。赤い縁取りの鋭い目を持つ、禍々しい黒竜だった。

 竜は、一度ティセルの上を旋回するように飛んでから、長い尾でアレンの胸を打ちつけた。咄嗟のことにかわす間もなかったのか、アレンは後ろへ弾き飛ばされ、胸を押さえて蹲る。そこへ慌てて騎士たちが駆けつけた。

 竜は地に足をつけると、一度、大きく咆哮した。赤い縁取りの目で、鋭く敵を睨み据え、今度は炎を吐きだす。しかしこれは、魔法使いが防いだ。炎が魔法陣に跳ね返される。

 次は騎士たちの反撃だ。魔法陣の向こうから矢が射かけられ、脇から数名の剣士が斬りかかる。しかし、竜の鱗は硬く、どの攻撃もかすり傷を与える程度で、致命傷を与えられない。剣士たちが炎に焼かれて退くと、竜は魔法陣めがけて突進した。

 魔法使いが体勢を崩し、魔法陣が消えた。しかしその瞬間、竜も目に矢を受けて、絶叫を上げた。矢の食い込んだ瞳から、赤い血が流れる。それでも竜は突進を止めず、魔法使いを含めた5人を踏みつけ、尾で打ちすえた。そして、背後から飛びかかってくる騎士たちを尾で打ち、或いは炎を浴びせ、或いは鋭い角を突き刺した。やがて、残されたのは、アレンと2人の騎士だけになっていた。

「くそっ! 錬金術の産み出した魔物を、こいつらに使われるとは……」

 壁際に追い詰められ、アレンは苦々しげに呻いた。護衛している2人の騎士にも、焦りの色が伺える。アレンが、2人に何か耳打ちをした。すると剣士と槍使いが左右に分かれて、竜に攻撃をしかける。その間に、アレンが呪文の詠唱に入った。魔法攻撃を仕掛けるつもりらしい。時間稼ぎに出た2人は、捨て身のようだ。竜の攻撃をかわそうともせず、懐に入り込んで足止めをしている。そのうち、1人の首が食いちぎられて、宙を舞った。

「こんなところで……、2千年も前の骨董品に負けるか!!」

 空間全体を震わせるような巨大な雷鳴が轟いた。それと同時に、竜の口から豪炎が吐きだされる。両者にそれが届くのは、同時だった。アレンの身体が炎に包まれた。そして、竜は稲妻に打ち抜かれ、棒立ちになる。次の瞬間、竜は地響きを伴って、倒れた。

「ぎゃぁぁぁぁっ!」

 絶叫が響き、アレンも床に倒れ、身を焼く炎に身もだえ、転がりまわった。肉の焼ける嫌な臭いが充満する。竜の下敷きになった騎士も、もう動くことはなかった。その様子を、ティセルはただ呆然と見ていた。

 やがてアレンも動かなくなると、ティセルはよろよろと立ちあがり、竜の元へと歩み寄った。竜の身体には、まだ雷撃の余波が残り、近づくと、ティセルの身体にも、ピリピリとした刺激が伝わってきた。そして、竜の身体は徐々に炭化を始めている。

「ライカ?」

 恐る恐る声をかける。もうそれが、ライカなのか、一匹の竜なのかわからないままに。

 すると、竜の口は開かないのに、どこからか穏やかな声が聞こえてきた。耳に聞こえると言うよりか、脳に直接響くような感じだった。

「ああ、悔しいなぁ……。相打ちか。オレがもっと強かったら、ちゃんと勝てたのかな。ティセルにそんな怪我させずに済んだのかな。でも、ティセルを守れてよかった」

 ティセルは、ライカの傍らに跪き、ただ言葉もなく、その声を聞いていた。何を言っていいのかも、わからなかった。声は、ふふっと、小さく笑ったようだった。不思議と、照れくさそうに笑うライカの顔を見た気がした。

「ほんとはね、オレがもっと大人だったら、もっと強かったら、先生にもティセルを渡さなかったのに。でも、オレ、まだガキだからさ……。先生になら、ティセルをあげてもいいと思ったんだ。だから、きっと桃源郷に辿り着いて、先生を生き返らせてね。きっとだよ。幸せになってね。好きだよ、ティセル。それから……泣いてくれて、ありがとう」

 炭化して脆くなった竜の身体に、涙の粒が落ちた。次々と零れ落ちる滴に溶けるように、竜の身体は崩れていく。やがて竜の身体が崩れ去り、床に黒い染みを残すばかりとなるまで、滴は降りやまなかった。


 

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