第六章 祈り 前編
呑み込まれそうな深い暗闇の中、彼女たちはひたすらに走った。まずはとにかく追っ手を撒かなければならない。どうやら地下へと続く螺旋階段のようで、その螺旋を描く壁に肩を擦り付けながら手探りで走っていた。ところどころ石段が崩れてでもいるのか、足を踏み外したり、何かにつまずいたりして、時折、誰となく声を上げたり、毒づいたりするのが聞こえた。そんな中でもティセルだけは、足音の反響を頼りに、身軽に障害物をかわしながら走っていく。どのくらい走ったのか、やがて足元は平坦になり、どうやら廊下のような場所に出たことがわかった。行く手が左右に分かれていることに気がつき、先頭を走っていたティセルが足を止めた。
そこで、ティセルに促されて、ライカがランプに火を灯すと、誰からともなく溜息が漏れた。完全に視覚を遮断されるほどの暗闇というのは、やはり不安になるものだ。闇の中を動くことに慣れたティセルにとっても、それは同じことだった。
小さなランプの光の輪の中に浮かぶのは、延々と続くかに見える石壁だった。足元を照らすのがやっとの明りでは、先に何があるのかさえ見ることができない。しかしそんな小さな明かりでも、ないよりはずっと心強く感じられた。
やはりティセルを先頭に、ひとが二人並んで歩くのがやっとの狭い通路を進んでいった。いくら彼女の能力が優れていると言っても、あまりに複雑に入り組んだ路地が続き、全様は掴めない。とりあえずは勘を頼りに進んでみるしかなかった。歩いてみると、壁の石積みが崩れて道を塞いでいるところや、袋小路になっているところもあった。少し進んでは行き止まり、戻ってはまた違う道を探すということを繰り返す。
そのうちでわかったことと言えば、確かにこれは古い街であるということだった。細かく入り組んだ路地に、自然石を組み上げた壁や地面は、どことなく貧民街の街並みに似ている。光も風もまったく通わないせいか、ひどく朽ちてはいるが、二千年の時を経てもまだ木製の扉の残されたままの家屋もあり、商店の跡のようなものもあった。当然のことながら人の気配はまったくないものの、整然と片付けられたその様は、確かにこの街が覚悟の上で捨てられたものであることを物語っていた。
ひっそりと静まり返った廃屋の群れを見まわして、フムルが呟く。
「なんだか、寂しいわね」
ここまでに、噂されたような魔物の気配もなく、ここが不吉な場所であるという印象は感じられなかった。ただ、ひっそりと忘れ去られた街。そんなうらさびしい風情が漂っていた。
ティセルもしばし立ち止り、ランプの橙色の光の中に、ぼんやりと映る景色を眺めまわした。そのとき、急にライカが小さく声を上げて、ティセルの腕にしがみついた。
「見て! あれ……」
ライカの指差した方を見ると、闇の中に、ゆらゆらと揺れ動く小さな赤い点がひとつ浮かんでいた。赤い光の点は、ゆるゆると下降線を描くように動いたと思うと、ふっと消えた。かと思うと、再び少し離れたところでまた光る。その点を目で追っていると、今度はまた新しく、闇の中に赤い光が浮かび、互いに交差しながら闇の中を舞うように動いていく。
「虫……?」
ティセルは呟いた。耳を澄ますと、微かな羽音が聞こえてきた。推測では、5メートルほど先、小指の先にも満たないくらいの小さな羽根虫のようだ。
すると突然、フムルが甲高い声を上げて身震いした。
「えっ!? 虫ですって? 嫌だわ。なんでこんな地下洞に虫なんているわけ? あたし、虫って苦手なのよねぇ。たくさんいるの? ちょっとライカ、男の子でしょ? 見てきてよ」
フムルに背中を小突かれて、ライカは苦笑いしながら振り返った。
「そんな図体して、虫が怖いのかよ~。笑っちゃうな」
「当たり前じゃない! 虫が好きな女の子なんていないわよ!」
「だから、女の子って誰だよ」
フムルとライカがそんなやりとりをするうちに、1匹の虫がゆらゆらと近づいてきた。緩慢に明滅しながら飛ぶそれが、カーシュールの目の前まで来ると、彼は急に険しい顔つきになって、ローブの袖でそれを追い払って、言った。
「気をつけろ。こいつに噛まれるなよ。近くに、こいつの宿主がいるはずだ」
「宿主?」
いったい何のことを言っているのかわかりかねて、ティセルが聞き返すと同時に、小さな声が上がった。
「痛っ!」
ライカだった。どうやら、さっそく虫に噛まれたらしい。細い手首に、小さな赤い光が灯っている。それと共に、虫がギリギリと錆びた金属の軋むような不快な音を立てはじめた。
「馬鹿が! それは呼屍虫だ。アンデットの体内に住んでいて、生きた人間を見つけると、そうやって音を立てて宿主を呼び出すんだ。そいつは噛んで生きている人間か、死体かを区別してる。噛まれなければ、そのままやり過ごせたものを……」
カーシュールの舌打ちを合図にしたかのように、辺り一面で、一斉に赤い光が灯り、五月蠅いほどの鳴き声が上がった。すると、近くであるいは遠くで、低いうなり声が聞こえ、何かが蠢く音がする。
「来る!」
ティセルが鋭く、一言を発した。途端、ランプの光の輪の中に、人影のようなものが躍り出た。まるで足腰の弱った老人がよろめき、倒れそうになりながら、それでもやっと歩いているかのような、不安定で、緩慢な歩き方だった。しかし、腐臭をただよわせながら寄ってくるそれが、人間ではないのは一目瞭然だった。自らの身体から、腐肉を滴り落とし、腕や胸の骨をところどころ露わにし、赤く光る眼の中で、呼屍虫が蠢いている。
フムルが最初の一撃を与えた。
「いやんっ! 気持ち悪い奴らね!」
と、鼻にかかった声で叫ぶと同時に、手斧が空気を切り裂いて飛ぶ。斧は小気味よく回転しながら、生ける屍の首を刎ね飛ばし、肋骨を破壊しながらフムルの手元に戻ってきた。敵はバランスを崩して、石畳に崩れ落ちた。
「なんだ。たいしたことないんじゃないか」
ライカが溜息交じりに言った。
「やだっ! 汚い!」
手元に戻ってきた斧を見て、フムルが甲高く叫んだ。斧には腐りかけの肉片が張り付いていた。それを振り落とそうと、斧を振り回す。危うくその軌道に巻き込まれそうになったカーシュールが飛び退いた。
「危ないじゃないか!」
「あら、わざとよ。かわすなんて、運がよかったわね」
「そこ! 遊んでないで! まだ終わってないわよ」
まるで子供の喧嘩のように睨みあうフムルとカーシュールを、ティセルが一喝した。暗闇の中から、次々とおぞましいアンデッドたちが姿を現す。それらは、石畳に散らばった骨片、肉片を拾っては、自身の穴のあいた顔や腹に押し当て、取り込み、また自身の腕や足の肉を滴り落としながら集まってくる。
「あら、気持ち悪い!」
「あんまり、戦いたい相手ではないわね」
フムルが身震いし、ティセルも鼻にしわを刻んで言った。しかし、もうすっかり周りを囲まれ、戦わずに進むことは叶いそうもない。緩慢ながら、隙間なく囲みを詰めてくるアンデッドと、4人は背を合わせる形で対峙した。ティセルは斬りこむ覚悟を決めて、姿勢を低くする。そのとき、カーシュールが言った。
「この中に、火炎系か神官魔法の得意なやつは? こいつらは、たいして強くはないが、元が死体なだけに、どれだけ切り刻んでも死なない。ああして、自分のものでも他人のものでも、肉片を拾い集めて融合させて、何度でも襲ってくるんだ。やつらを殺そうと思ったら、強力な炎で焼き尽くすか、神官魔法で浄化するしかない。できるやつはいないのか?」
「残念ながらいないわね」
ティセルが即答する。自分は全く魔法は使えないし、カーシュールは鍵師専門で攻撃魔法も神官魔法も使わないのを知っている。フムルも、どう見ても魔法使いタイプではない。ライカは多少の魔法が使えると聞いたが、まだ小さい子供だ。これだけの数を焼き尽くすほどの魔力は期待できないだろう。
「ちょ……ちょっと待ってよ! はい、はいっ! オレ! オレ、魔法使えるよ。神官系はダメだけど、火炎も氷も空間もできる!」
ライカが、弾けるように皆の前に飛び出し、胸を張って親指を突き出した。そして今度は、くるりと敵の方へ向き直り、それらしく構えて、呪文の詠唱に入った。しかし、今までに聞いたことのある、リオンや仕事仲間の呪文の詠唱に比べると、どこかたどたどしく、時折滞ったりしているようだ。
「出でよ、火炎の奔流!」
掛け声も勇ましく、宙に描いた魔法陣が、燃える炎を宿して輝く。ところまではよかったが、奔流どころか、手毬ほどの大きさの炎の球が現れ、ゆるゆると下降線を描きながら敵方向へ飛び、目的地へ届くことなく、地面に落ちて消えてしまった。
一同の溜息が聞こえる。
「馬鹿……」
小さな声でティセルが呟き、飛び出した。腰の短刀を抜き、アンデッドの群れに切り込んでいく。
「仕方ないわね」
フムルも長斧を振り回しながら、後に続いた。
カーシュールが軽く口笛を吹いて、腕組みしてその様子を眺めている間に、辺りには蠢く肉片が散らばっていく。その様子を、ライカは呆然とした様子で眺めていた。
「走って!」
ティセルが短く叫んだ。それを合図に、モーゼの十戒のように開けた道を、揃って駈け出した。
ようやくアンデッドの群れをまき、辺りに静けさが戻る頃には、いったい現在地がどの辺りなのか、ティセルにもわからなくなっていた。どうやら細い路地の絡み合う街並みは抜けたらしく、大理石を敷き詰めた、広い通りに出ていた。
微かに、風が吹いた。この閉鎖された地下空で、微かにではあるが、確かに、生温かい風が吹いたのだ。腐りかけの果物のような、粘りつくような甘い香りを乗せて。
「風……?」
呟いて、風の来た方向を見やると、暗闇の中に、ぼんやりと光るものが浮かんでいるのが目に入った。建物の陰に隠れていたものか、少し覗き込んで見ると、それは2つの篝火であることがわかった。いよいよ追手との遭遇かと、素早く建物の陰に身を隠して、ランプの明かりを吹き消す。しかし耳を澄ましても、目を凝らしても、何物の動く気配も感じなかった。
「誰も……いないみたいね」
「よかった。追手じゃなかったんだ」
ティセルの隣で、息を止めて様子を窺っていたライカが、大きな息をついて、呟いた。また、生温かい風が吹く。
「まあ、敵がいるにしろ、いないにしろ、篝火が炊いてあるってことは、何かはあるのよ。とりあえず行ってみましょ」
フムルも大きな溜息をついて、立ち上がった。再びランプに明かりを灯し、フムルを先頭に、篝火の方を目指して歩き出した。
「危ない!」
突然、大股でずんずん進むフムルの腕を、ティセルが引っ張った。振り返ったフムルの身体が、一瞬がくりと沈み込む。
「きゃっ!」
フムルは短く悲鳴を上げて、しかし、体勢を立て直した。大理石の敷石が崩れ、唐突に大きな穴が開いているのだ。フムルは気付かずに足を踏み出し、危うく落ちるところだった。
「危なかったわ。ありがと、ティセル」
フムルは細い目でウインクして見せた。ティセルは、軽く溜息をつくと、ライカからランプを受け取り、穴の様子を調べてみる。
「ずいぶん大きいわね。それに、深い。街の階層を打ちぬいて、ずっと下まで続いてるわ」
「古い街なんだもんね。2000年も経てば、床に穴が開いたって不思議はないか」
ライカもティセルを真似るように穴を覗き込んで、言った。
「そんな感じじゃない。これは、まるで何か大きなものが衝突して、床を破壊しながら落ちていったような……」
「アンサルヴィエ……」
カーシュールが呟いた。
「美しい花を咲かせ、黒光りする幹が捻じれ絡み合うような巨木の中に、あらゆる災厄をもたらす魔物を抱き込んだ巨大な怪物。吐く息は、甘い香りを放ち、狂気を誘うという。最後はちょうど教皇庁本部の真上辺りでの空中戦になった。手傷を負って、弱った奴を、100人を超す魔導師が結界でを捕え、そのまま地下へ押し込めた。伝承ではそう語られている」
そのカーシュールの声に呼応するかのように、また、確かに風が吹いた。吐息のように、ぬるく、湿った風が。
「ともかく、先へ進むしか……ないわね」
フムルの呟きと共に、一行は再び歩き出した。




