三ヶ月で変わる
瀬川を撮ることになったのは、大野が言い出したからだった。
「地味な男を三ヶ月で変えるってやつ。あれ伸びるよ」
「あれって?」
「見たことない? 前と後で並べるやつ」
里佳が携帯を出して、似た動画を探した。すぐ見つかった。三本目で、再生が百万を越えているものが出た。
「ほんとだ、伸びてる」
恵那は画面を覗いた。覗いて、それから瀬川を見た。
瀬川は椅子を運んでいた。四脚まとめて抱えて、壁際に置いている。
「瀬川くん」
「はい」
「三ヶ月、うちに預けてくれる?」
「いいっすよ」
考える時間は、二秒もなかった。
*
最初に撮ったのが、前の画だった。
和彦がカメラを構えた。瀬川は部屋の白い壁を背にして立った。
「どうすればいいすか」
「立ってるだけでいいです」
「笑います?」
「笑わなくていいです」
瀬川は立った。手は体の横に下ろしている。動かなかった。
和彦は三十秒撮った。撮って、止めた。
*
撮っているあいだ、部屋は静かだった。空調の音だけが低く続いている。
瀬川の靴が、床を一度だけ鳴らした。鳴らしてから、また止まった。
和彦はレンズの中の顔を見た。顔は何も言っていない。目だけが、時々、右のほうへ動いた。動く先には、恵那が立っていた。
*
その日から、三ヶ月が始まった。
髪を切った。眉を整えた。服を買いに行った。歯を白くする通院が八回あった。里佳が食事の管理をして、大野がジムの会費を出した。
全部、和彦が欄に入れた。
美容室 八千円 里佳立替
衣料 四万二千円 大野立替
歯科 十二万四千円 大野立替
ジム会費 三ヶ月ぶん 二万七千円 大野立替
合計は十九万一千円になった。項目名の欄には「企画費」と入れた。
*
瀬川は文句を言わなかった。
言われたところへ行き、言われたものを着た。ジムには週に三回通って、一度も休まなかった。
「きつくないですか?」
「きつくはないっす」
「毎日やってますよね」
「言われたんで」
瀬川はそう言って、椅子を運んだ。運ぶ手つきは、前と同じだった。
*
一か月が過ぎたころ、和彦は前の画を確かめた。
三十秒しかない。白い壁の前に立って、動かないだけの三十秒だった。
和彦はそれを恵那に見せた。
「これ、足りますか?」
「足りない」
「三十秒あります」
「そうじゃなくて」
恵那は画面を止めた。止めた場所は、瀬川が瞬きをしたところだった。
「これ、地味じゃないの」
「地味だと思いますけど」
「立ってるだけだから、なんとも見えない」
恵那は画面を戻した。
「前の画って、ひどくないと意味がないの」
*
和彦は素材を探した。
部屋で撮ったもののなかに、瀬川が映っているところがある。椅子を運んでいるところ。机の端で飲み物を配っているところ。カメラの後ろにいるところ。
どれも短くて、どれも背中だった。
顔が映っているのは三箇所だけで、そのうち二箇所は、もう髪を切ったあとだった。
和彦は残った一箇所を切り出した。四秒あった。
四秒では、足りなかった。
*
「もう一回、撮ろう」
恵那が言った。
「前の画をですか?」
「うん」
「でも、もう変わってます」
「戻せばいい」
和彦は意味が分からなかった。分からないまま、聞いていた。
「髪はワックス落とせば戻る。服も、前のやつがあるでしょ。眉は伸びてないけど、画では分からない」
「本人には」
「言うよ。言わないと着てくれないから」
和彦は自分の手のひらを見た。汗ばんでいて、机の縁に跡がついた。
言われたことは分かる。分かるが、口の中が乾いていた。水を飲んでも、すぐまた乾いた。
*
瀬川は着替えた。
前の服は、部屋の隅の紙袋に入ったままだった。捨てていなかった。捨てる理由がなかったからだと、瀬川は言った。
髪を濡らして、分け目を戻した。眼鏡を掛けた。眼鏡はもう使っていないもので、度が合っていなかった。
「これ、見えないっす」
「立ってるだけなので」
「まあ、そうすね」
瀬川は同じ壁を背にして立った。
和彦はカメラを構えた。
「もう少し、猫背でお願いします」
「猫背」
「はい」
瀬川は背中を丸めた。丸めてから、少し戻した。
「これくらいですか?」
「もう少しです」
瀬川はもう少し丸めた。手が体の前で組まれた。組んでから、また下ろした。
和彦は撮った。二分撮った。撮っているあいだ、指がシャッターの縁に当たって痛かった。
撮りながら、和彦は自分が何を撮っているのか分からなくなった。分からないまま、止めなかった。
*
撮り終わってから、瀬川が眼鏡を外した。
「これ、いつのやつになるんすか」
「三ヶ月前のことになります」
「今日っすけど」
「はい」
瀬川は眼鏡をポケットに入れた。レンズがシャツに擦れて、短い音がした。入れてから、少し笑った。
「まあ、いいっすけど」
和彦は何か言おうとした。喉のところまで来て、そこで止まった。舌の奥が苦かった。
*
その夜、和彦は二本の三十秒を並べた。
三ヶ月前のものと、五日前のもの。壁の位置が少し違う。光の入り方も違う。和彦は色を合わせて、明るさを下げた。下げると、二本の差が消えた。
差が消えると、どちらが古いのか分からなくなる。
和彦は五日前のほうを選んだ。理由は、そちらのほうが猫背だったからだった。
*
編集は五日かかった。
前の画と、後の画を並べる。並べるときは、同じ位置に立たせて、同じ大きさにする。切り替えると、同じ人が別人になる。
和彦は切り替えの速さを何度も直した。速すぎると気づかれる。遅すぎると効かない。
〇・四秒に落ち着いた。決めるまでに、耳のほうが先に慣れた。
*
途中の三ヶ月は、四分に収めた。
髪を切るところ。ジムで持ち上げるところ。服を選ぶところ。歯の色が変わっていくところ。
どれも本当にあったことだった。全部、その順番で起きている。
嘘は一つもない。
和彦はそう思って、それから、最初の二分のことを思った。
「タイトルは?」
「〈地味な男が、三ヶ月で変わる〉」
恵那が言った。それだけだった。
「三ヶ月ですか?」
「三ヶ月でしょ」
「はい」
和彦は打ち込んだ。数え直したら、九十四日あった。
*
出したのは日曜の夜だった。
月曜の朝に三万。夜に十八万。火曜で六十万を越えた。
コメントは八千を越えた。和彦は上から読んだ。
〈別人すぎる〉
〈努力って裏切らないんだな〉
〈最初の写真の人がかわいそうになってきた〉
和彦は三つ目で指を止めた。肩の力が抜けて、背中が椅子に当たった。
最初の写真の人は、九十四日前ではなかった。五日前だった。
*
月曜の夜、部屋に瀬川が残っていた。
暖房が切れかけていて、空気が冷たい。缶を開ける音が、遠くで一度した。
瀬川は新しい服を着ていた。袖の丈が合っている。前は合っていなかった。
*
瀬川は、その動画を何度も見ていた。
部屋の隅で、携帯を横にして、音を出さずに見ている。同じところで止めて、また最初から流した。
「杉本さん」
「はい」
「これ、俺っすよね」
「瀬川さんです」
「どっちも?」
「どっちもです」
瀬川は画面を伏せた。伏せてから、また表に返した。
「なんか、後ろのほうは、覚えてないんすよ」
*
その週から、瀬川に人がつくようになった。
コメントに名前を書く人が出て、切り抜きが五つ出た。恵那が「次から前に出て」と言って、瀬川は「はい」と言った。
椅子を運ぶ役は、新しく来た一年生に移った。
*
六時半に、恵那が帰った。
閉まってから、大野が缶を出した。六十万いったから当然だという言い方だった。
里佳が瀬川の肩を叩いた。乾いた音がした。叩かれた瀬川は笑ってから缶を持った。持ったまま、開けなかった。
時計は七時九分だった。
「六千百」
「はい」
「瀬川、モテるようになったろ」
「そうすかね」
「なるって。顔じゃないんだよ、あれは」
大野が言った。
「並べ方だよ、並べ方」
誰も、それを否定しなかった。
*
三月に、和彦はフォルダを整理した。
「使わない」の中に、最初に撮った三十秒が残っている。本当に三ヶ月前の三十秒だった。
和彦はそれを開いた。白い壁の前に、瀬川が立っている。手は下ろしている。背中は丸めていない。眼鏡も掛けていない。
地味には見えなかった。ただ立っているだけだった。
和彦はそのファイルを閉じた。消しはしなかった。
*
その週の欄に、和彦は打ち込んだ。
打ち上げ 六千百円 大野立替 二月十三日
和彦は、その上に並んだ「企画費」の四行を見た。合計は十九万一千円のままだった。
瀬川の欄は、そこには無かった。
*
〈地味な男が、三ヶ月で変わる〉
九分五十秒/再生 618,000
〈最初の写真の人がかわいそうになってきた〉




