時計
企画は「お金持ちの家を見せてもらう」だった。
相手は美容外科の医師で、三十七歳。個人でクリニックを二つ持っている。写真を見て、里佳が「イケメンじゃん」と言った。
「これ、加工?」
「本人が撮ったやつだって」
「加工でしょ、これは」
恵那は写真を伏せた。
「加工でも、来た人には分かるから」
*
家は都心のマンションの十七階にある。
玄関を入ると、廊下が長い。靴の音がしない。壁に何も掛かっていなくて、そのぶん奥行きが分かりにくかった。
「どうぞ、適当に撮ってください」
桐谷はそう言った。声はよく通る。歩き方が速くて、途中で一度、こちらを振り返って待った。
和彦はカメラを構えた。構えると、廊下の端が入りきらなかった。
*
時計は、寝室の隣の部屋にあった。
箱がガラスの棚に並んでいる。棚は三段で、一段に十二本ずつ入っている。開けると、小さな金属の音がした。
「いくつあるんですか?」
里佳が訊いた。
「三十四本です」
「三十四」
「集め始めて、八年目ですね」
桐谷は一つを取り出した。手つきが慣れている。
「これがいちばん高いです」
「いくらですか?」
「聞きます?」
「聞きたいです」
桐谷は笑った。それから、金額を言った。
里佳が声を上げた。陽菜も上げた。和彦はカメラを構えたまま、数字を頭の中で繰り返した。
*
棚の前は涼しかった。空調が別に入っているらしく、風の音が低く続いている。
桐谷が蓋を開けると、革の匂いがした。時計は少し重かった。持たせてもらった里佳が「重い」と言って、手首に載せた。金属が肌に触れて、里佳が肩をすくめた。
「冷たい」
「そうなんですよ。冬は冷たい」
桐谷は笑って、それを受け取った。受け取る指が、ガラスに触れないように動いた。
*
撮影は二時間かかった。
桐谷はよく喋った。時計の話をして、そのあと仕事の話になった。
「うちに来る人って、みんな悩んでるんですよ」
「悩みって、どういう?」
「顔のこととか、体のこととか」
居間には白いソファがある。桐谷はそこに座り直した。
「でも僕は、悩んでるなら変えていいと思ってるんです」
「変えていい」
「服は変えるじゃないですか。髪も変える。じゃあ顔は? って話です」
里佳がうなずいた。深くうなずいた。
「変えたら、その人が変わるんですよ。性格まで変わる。ほんとに変わります」
陽菜が口を開いた。
「わたしも、変われますか?」
「変われますよ」
「どこがいいと思いますか?」
桐谷は陽菜を見た。見て、二秒くらい置いてから答えた。
「宮下さんは、いまのままでも十分ですけどね」
陽菜が笑った。笑い方が、いつもより少し高かった。
画面の中で、陽菜の肩が少し前に出ていた。和彦はそれを撮っていた。
恵那は最後まで画面に入らなかった。
入らないまま、部屋の隅に立っていた。時計の棚も見なかった。桐谷が金額を言ったときも、顔が動かなかった。
帰りのエレベーターで、里佳が「すごかったね」と言った。
「うん」
「恵那さん、興味なさそうだったけど」
「あるよ」
「どこが?」
「単価」
恵那はそれだけ言って、階数の表示を見た。
*
帰りの車で、陽菜は窓のほうを向いていた。
「杉本くん」
「はい」
「いまのままでも十分って、どういう意味だと思う?」
和彦はハンドルを握っていた。信号が赤になって、足がブレーキに乗った。
「そのままの意味だと思います」
「そうかなあ」
陽菜は窓に額を近づけた。ガラスが曇って、指で拭いた。
「営業だったら、変えたほうがいいって言うよね、ふつう」
和彦は答えを持っていなかった。信号が青になって、足を動かした。
*
編集は二日で終わった。
二時間十分が、十六分になった。
和彦は時計が映っている時間を測った。三十四本のうち、画面に出たのは十九本。いちばん長く映ったのは、四番目に高いものだった。
いちばん高いものは、二十二秒だった。四番目のは、一分七秒あった。
理由は、桐谷がそれをいちばん長く喋ったからだった。金額の順ではなかった。
和彦はその二つの数字を、紙に並べて書いた。書いてから、線で消した。消しても、下に残った。
*
出したのは土曜の朝だった。
日曜には二十万を越えた。月曜は五十万。火曜に八十万で、そこから緩くなった。
コメントは五千を越えた。
〈考え方が好き〉
〈悩んでるなら変えていいって言葉に救われた〉
〈この先生に相談したい〉
和彦は三つ目のところで指を止めた。止めて、また動かした。
クリニックの問い合わせが増えたと、桐谷から連絡があった。
礼の文が長い。和彦は恵那に見せた。恵那は「よかったね」と言って、それで終わりだった。
その週、うちの塾の問い合わせも十一件あった。仁科が両方を表に入れた。
「関係あるの?」
「関係ないと思います」
「じゃあ、なんで増えたの?」
「見た人が、そのまま他の動画も見たからです」
仁科は数字を丸で囲った。囲ってから、横に線を引いた。
*
二か月後だった。
最初に見つけたのは陽菜だった。携帯を持って部屋に入ってきて、画面をこちらへ向けた。
「これ、あの先生じゃない?」
記事は短い。手術のあとに患者が救急搬送され、いまも回復していないと書いてある。クリニックの名前は出ている。医師の名前は、そのときはまだ無い。
三日後に、名前が出た。
*
部屋は静かだった。
里佳が「うそでしょ」と言って、それから何も言わなかった。大野が「まじか」と言って、缶を置いた。瀬川は画面を見ていた。
仁科はノートを開いた。開いて、何も書かずに閉じた。
和彦は自分の動画を出した。再生数は九十四万になっている。
*
翌日、管理の画面に警告が来た。
文面は短い。この動画が方針に触れる可能性があるので、確認してほしいと書いてある。消せとは書いていない。
和彦はそれを恵那に見せた。
「消して」
「消すんですか?」
「うん」
「訂正を出すとか、そういうのは」
「いらない」
恵那は画面を見ていなかった。鞄の中を探していた。
「訂正すると、こっちが何か言ったことになるから」
「はい」
「何も言わないのが、いちばん早い」
*
その日、部屋には誰もいなかった。
暖房が切れていて、床が冷たい。和彦は上着を着たまま座った。指がかじかんで、キーを押し間違えた。押し間違えたところを消して、また打った。
外で救急車が通った。音が近づいて、遠くなった。遠くなってから、しばらく耳に残った。
和彦は削除の画面を開いた。
押す前に、確認が出る。この操作は取り消せません、と書いてある。
和彦はもう一度、その一行を読んだ。読んでから、押した。
九十四万は、その場で消えた。コメントの五千も消えた。〈悩んでるなら変えていいって言葉に救われた〉も消えた。
時間は一秒もかからなかった。
*
作ったのに、十九時間かかった。
和彦はその数字を思い出して、それからやめた。並べても、何にもならなかった。
*
次の日、和彦は探した。
切り抜きが残っている。七つある。
いちばん長いのは三分で、桐谷が「変えていいと思ってるんです」と言うところが入っている。再生は四十万を越えている。
和彦は七つの再生数を足した。合計で六十一万だった。
消したほうより少なくて、消えていないぶんだけ多かった。
和彦はその数を手帳に書いた。書いてから、恵那に言った。
「残ってます」
「そうだろうね」
「消せますか?」
「消せない。うちのじゃないから」
*
恵那は、そのあと一度も桐谷の話をしなかった。
和彦も訊かなかった。訊く理由が見つからなかった。
その月、恵那は実習で二回いなかった。いない日は、部屋がいつもより早く暗くなる。
*
三日後、里佳が言った。
「あの人、悪い人じゃなかったよね」
「そうですね」
「言ってたことも、間違ってなかったし」
「はい」
「なんかさ、運が悪かっただけって気がする」
誰も、そのあと何も足さなかった。
和彦は自分の膝の上を見た。手のひらが乾いていて、指を握ると、関節のところが白くなった。
*
六時に、恵那が上着を着た。
閉まってから、大野が缶を出した。今日は何の打ち上げかと誰も訊かなかった。訊かないまま、里佳が缶を配った。
時計は七時前だった。
*
「四千四百」
「はい」
「今日、少ないね」
「人が少ないので」
「減った?」
「八人です」
大野は数えなかった。数えずに缶を開けた。
和彦はレシートを二つ折りにした。折り目のところが、少し破れた。
*
その週の欄に、和彦は打ち込んだ。
打ち上げ 四千四百円 大野立替 一月十六日
和彦は、その上の行を見た。十一月に打った「取材交通費」の行が、まだそこにある。
消す欄は、なかった。
*
二月に、和彦は報酬を振り込もうとした。
金額は撮影の前に決めてあった。桐谷は「いらないですよ」と言ったが、恵那が「出します」と言って、それで通っていた。
銀行の画面で、口座番号を打ち込む。名義を打って、金額を打って、確認を押した。
弾かれた。
もう一度打った。同じところで止まる。指がキーの上に残った。
画面に出ているのは短い文だった。この口座はご利用いただけません、と書いてある。
和彦は理由の欄を探した。無かった。
*
次の日、和彦は恵那に画面を見せた。
「凍結されてるみたいです」
「そう」
恵那はそれだけ言った。手は止まらなかった。
「どうしますか?」
「置いといて」
*
その週の欄に、和彦は出演料を入れなかった。
通っていないものは、精算ではない。和彦はそう思った。思ってから、その理屈をどこで覚えたのかを考えた。
思い出せなかった。
*
三月に、桐谷から一度だけ連絡が来た。
短い文だった。動画を消してくれてありがとう、と書いてある。それだけで、ほかには何もない。
和彦は返事を打とうとして、打たなかった。打つ言葉が見つからない。恵那にも見せなかった。
その文は、いまも管理の画面に残っている。
〈この動画は削除されました〉
十六分二秒/再生 940,000(削除時)
切り抜き 七件/合計 610,000




