彼女ができたことがない
「瀬川くん、彼女いたことある?」
恵那が訊いたのは、企画の打ち合わせのときだった。
「あります」
「何人?」
「二人っす」
「いつ?」
「高校と、去年」
恵那は指を止めた。止めてから、また動かした。
「じゃあ、いないことにしよう」
「いないことに、ですか?」
和彦が訊いた。
「うん。一回も」
「本当は二人いますけど」
「そこだけ変える」
恵那は画面を伏せた。
「あとは全部、本当のことでいく」
*
企画は、瀬川と里佳を組ませるものだった。
二人で一日過ごして、それを撮る。買い物をして、飯を食って、帰る。台本はない。行き先だけが決めてあって、それも口で言われただけだ。
「付き合ってることにするんですか?」
「しない」
「じゃあ、なんですか?」
「一緒にいるだけ」
恵那は鞄を持った。
「付き合ってることにすると、嘘が二つになるでしょ」
*
撮影の前に、瀬川が和彦のところへ来た。
「あれ、言うんすよね。彼女いたことないって」
「言うことになってます」
「高校のやつ、知ってる人いるんすよ」
「同じ大学ですか?」
「いや、地元っす」
瀬川は指で机の縁をなぞった。なぞってから、手を下ろした。
「まあ、見ないっすかね」
「見ないと思います」
「そうすよね」
*
当日は晴れていた。
駅前で待ち合わせて、そこから撮り始めた。里佳が先に来ていて、瀬川があとから来た。来たとき、里佳が「おそい」と言った。
「五分前っす」
「うちは十分前に来てるから」
「それは早いっす」
二人が笑った。和彦はカメラを回していた。回しながら、後ろについて歩いた。
*
駅前は人が多かった。放送の音と、車の音と、誰かの笑い声が重なって、和彦のマイクが何度も割れた。
和彦は音を諦めた。諦めて、二人の後ろ姿だけを追った。人の肩が何度も間に入る。入るたびに、和彦は半歩ずれた。歩きながら撮ると、腕の付け根が痛くなる。
*
買い物は一時間半かかった。
里佳が瀬川に服を選ばせた。瀬川は三着持って、鏡の前で迷った。迷っている時間が長かった。
「これでいい?」
「うちに訊かないでよ」
「訊いてるんすけど」
「自分で決めな」
瀬川は真ん中の一着を戻した。戻してから、また取った。
和彦は、そのやりとりを撮った。撮りながら、これは本当だと思った。
*
店の中は暖かくて、上着を脱ぐと背中に汗が残っている。焼けた油の匂いがして、隣の席の話し声が近い。
*
昼を食べた。
カメラは机の端に置いた。二人は普通に喋っていた。バイトの話と、テストの話と、それから知らない誰かの話をした。
和彦は箸を持ったまま、二人を見ている。手が止まっていることに、しばらく気づかなかった。
三十分ほどして、里佳が「杉本くんも食べなよ」と言った。
「食べてます」
「食べてないでしょ、それ」
和彦は自分の皿を見た。半分残っている。冷めた油が縁で白くなっていた。
*
帰りに、公園を歩いた。
夕方で、風が冷たかった。里佳が上着の前を合わせて、腕を組んだ。
「寒い」
「貸します?」
「いい」
「寒いんすよね」
「いいって」
里佳はそう言って、少し先を歩いた。瀬川が追いついた。追いついてから、並んだ。
二人はしばらく黙って歩いた。靴の音だけが、前を行ったり後ろへ来たりしている。
和彦は後ろから撮っていた。撮っているものが何なのか、そのときは分からなかった。
*
ベンチは冷たかった。座ると、その冷たさが腿の裏から上がってくる。里佳が「うわ」と言って、少し腰を浮かせた。
風が鳴っている。木の上のほうで、ずっと鳴っていた。和彦はマイクの向きを変えた。変えても、音は入りつづけた。
*
最後に、瀬川に一つだけ訊くことになっていた。
ベンチに座らせて、カメラを正面に置いた。
「瀬川くん、彼女って、いたことあるんですか?」
訊いたのは里佳だった。訊き方は普通だった。
瀬川は少し黙った。膝の上で、指が一度だけ動いた。
「ないっす」
「一回も?」
「一回も」
里佳が「うそでしょ」と言った。言い方が本当に驚いていた。
「いや、ほんとに」
「いまの瀬川なら、絶対いるじゃん」
「いないっすよ」
瀬川は笑った。笑い方は、いつもと同じだった。
嘘は、その一言だけだった。
ほかは全部、その日に起きたことだ。服で迷ったのも、飯を食ったのも、公園が寒かったのも、二人が黙って歩いたのも、全部本当だ。
一緒にいた時間は、七時間ある。
その七時間は、一秒も作っていない。作れるものでもない。
*
撮り終わったあと、瀬川は少しのあいだ座ったままでいた。膝に手を置いて、正面を見ている。
里佳が先に立ち上がって、手を差し出した。瀬川はその手を取らずに、自分で立った。立ってから、ズボンの後ろを払った。
和彦はカメラを下ろした。下ろすとき、肩の力が抜けて、腕が重く感じた。
*
編集は三日かかった。
七時間が、十二分になった。
和彦は最後の場面をいちばん後ろに置いた。置くと、そこまでの十一分が、その一言のための時間に見える。
置き方を変えて、真ん中にしてみる。真ん中にすると、ただの一日になる。
和彦は後ろに戻した。戻してから、こめかみを指で押した。
「タイトル」
「〈彼女ができたことがない男と、一日過ごしてみた〉」
恵那が言った。
「長くないですか?」
「長くていい。今回は中身で見られるから」
和彦は打ち込んだ。
「サムネは?」
「二人が並んで歩いてるところ。顔は見えなくていい」
「見えなくてですか?」
「うん。顔が見えると、どっちの動画か分かっちゃうから」
*
出したのは金曜の夜だった。
土曜に二十万を越えた。日曜には七十万になった。
コメントは一万を越えた。和彦は上から読んだ。
〈この距離感がリアルすぎる〉
〈作ってない感じがいい〉
〈本間さんのほうが好きになってそう〉
和彦は二つ目を三回読んだ。読むたびに、喉の奥が少しずつ締まった。
作っていないのは本当だった。作ったのは、一言だけだった。
*
月曜に、里佳が来た。
「うち、あれ本気に見えた?」
「見えました」
「困るんだけど」
「困りますか?」
「困らないけど」
里佳は椅子に座った。座ってから、足を組んだ。
「あの日、普通に楽しかったからさ。それが困る」
和彦は返事を持っていなかった。
「楽しかったのは本当なんだよね」
「本当だと思います」
「じゃあ、なんも嘘ついてないじゃん、うち」
「ついてないです」
「だよね」
里佳は笑った。笑ってから、少し黙る。指で机の縁を二度叩いて、それからやめた。
*
瀬川は、その週から連絡が増えたと言った。
コメントに名前を書く人が増えて、切り抜きが十二出た。いちばん多いのは、最後のベンチのところだ。
「あそこばっかりっすね」
「あそこが効いてるので」
「嘘のとこっすね」
瀬川はそう言って、椅子に座った。運ぶ役はもう別の人になっていた。
「べつに、いいんすけど」
*
水曜に、地元の人からコメントが来た。
短い文だ。〈高校のとき彼女いたよね?〉と書いてある。
和彦はそれを恵那に見せた。
「消しますか?」
「消さない」
「でも」
「消すと、本当だったことになるから」
恵那は画面を返した。
「放っておけば、下に落ちる」
*
三日後に、そのコメントは見えなくなっていた。
消えたのではない。新しいコメントが上に積もって、下に行っただけだ。
和彦は下まで送って、それを探した。八百件目のあたりにある。返信は一つもついていない。
和彦は画面を閉じた。閉じた指が、そのまま机の上に残った。
*
六時二十分に、恵那が帰った。
閉まってから、大野が袋を提げて戻ってきた。七十万いったからやるという言い方だった。
里佳と瀬川が並んで座っていた。並んでいるのは、その日が初めてではなかった。
時計は六時五十分だった。
「五千五百」
「はい」
「おまえら、付き合っちゃえば?」
大野が言った。
「付き合わないっす」
「なんで」
「なんでって」
瀬川は缶を持ったまま、少し笑った。
里佳は何も言わなかった。言わないまま、缶を口に運んだ。
*
その週の欄に、和彦は打ち込んだ。
打ち上げ 五千五百円 大野立替 三月六日
撮影経費 九千八百円 杉本立替 三月一日
撮影経費は、二人の昼と、電車代と、公園の自販機の分だった。
七時間の欄は、なかった。
*
〈彼女ができたことがない男と、一日過ごしてみた〉
十二分四秒/再生 728,000
〈作ってない感じがいい〉




