発音
向こうから連絡が来たのは、ギフテッドの回を出した週だった。
英語教育の人だった。登録者は十一万いて、こちらの四倍だった。
「あの兄弟の回、見ました」
電話をかけたのは仁科で、和彦は横で聞いていた。スピーカーにしてあった。
「うちの教材、やってた子たちですよ」
仁科がノートに書いた。書いてから、時計を見る。ペンを持つ手は止まらない。
*
十月の初めに、その人が部屋に来た。
鞄が大きくて、机に置くと音がした。中から本が四冊出てくる。全部その人が書いたもので、表紙に顔が載っている。
「狭いですね」
「すみません」
「いや、いいんです。うちも最初はこんなでした」
その人は椅子を自分で引いて、座る。座ってから上着を脱いで、袖を肘までまくった。
*
次の日、和彦は確かめようとした。
あの兄弟が教材を使っていたかどうかは、録画のどこにも出てこない。訊いたのは英検の級と、いつから始めたかだけだった。
和彦は素材を頭から見返した。二時間十四分あって、途中で二度、目の奥が痛くなった。
途中で兄が「アプリで」と言うところがあった。アプリの名前は言っていない。
和彦はその一言を三回聞く。耳の奥が少し重くなった。
それ以上は、どこにも無かった。三回目でやめた。
*
収録の前の晩、和彦は部屋でその人のチャンネルを開いた。勉強のためだった。
再生数の順に並べ替えると、いちばん上に来たのはオーストラリアの回だった。ほかの回の六倍あった。
街で人に声をかけている。マイクは手に持っていた。
──日本人って、恋愛対象になりますか?
──ぜんぜんいけるよ。かわいいし。
──週に何回くらいしますか?
──毎日。ふつうでしょ。
──日本人は、少ないらしいんですけど。
──マジで。かわいそう。
──じゃあ、僕なんてどうですか?
──全然好みだわ。
最後の一言のあと、その人の声が入った。おお、と言っていた。もう一度、おお、と言った。
そこで動画は終わった。
訊いているのは、その人だった。相手は笑って答えていた。答えるたびに、字幕が出る。字幕は日本語で、下に英語の単語が三つずつ並んでいた。
和彦は最後まで見た。十九分あった。
使われている英語は簡単だった。中学で習うもので足りている。
コメント欄を開いた。上から三十件、全部が英語の話をしていた。
〈このくらいの英語で通じるんだ〉
〈勉強になります〉
和彦はそこで手を止めた。止めてから、もう一度開いて、再生数のところだけ見た。
*
収録は十四時に始まった。窓は閉めてあって、外の音は入らない。
陽菜が正面に座って、その人が横に座る。里佳が後ろでカンペを持っていた。
「英語って、何から始めればいいんですか?」
「発音です」
「発音」
「そう。日本人は最後にやるでしょ。あれが逆」
その人は水を飲んだ。飲んでから、唇と舌を動かして口の形を作る。
「見ててください。──water」
部屋が静かになる。喉のあたりで音が止まって、それから広がった。
「うわ、めっちゃいい」
陽菜が言った。言い方は本当だった。
「これ、口の中でやってるんです」
その人は自分の顎の下を指で押さえた。
「舌の位置。ここ。学校で習わないでしょ」
「習わないです」
「だから通じないんです」
「先生って、帰国子女なんですか?」
陽菜が訊いた。
「違います。大学から」
「大学から?」
「行ったこともなかったです、そのころは」
里佳が後ろで「えー」と言った。声が入って、和彦はレベルのつまみを一つ下げた。
「高校出てから始めて、そこまで喋れるようになるんですか」
「なりますよ」
「すごくないですか、それ」
陽菜が言った。その人は「いや」と言って、手を振った。振り方が慣れていた。
和彦はカメラを覗いたままでいた。昨日の十九分のことを考えていた。使われていた単語は、三つずつ並んでいたやつだった。
里佳が後ろでカンペをめくった。めくる音が入って、和彦は一度カメラから目を離した。
*
そのあと、一時間半喋った。
和彦は横のカメラを覗いていた。画面にその人の手が入っている。喋るとき、指が机を細かく叩く。叩く速さが、話の速さと合っていた。
喋っているのは日本語だった。
英語が出るのは、見本のときだけだった。和彦は数えた。八回あった。八回とも、単語一つだった。
「文章では言わないんですか?」
休憩のときに、和彦が訊いた。
「言いますよ。撮るときは短いほうが伝わるので」
「なるほど」
「長いと、みんな途中で止めるんです」
その人は携帯を見ながら言った。画面には自分のチャンネルが出ていた。
「止めるとこ、分かるんですか?」
「分かりますよ。全部数字で出ます」
その人は画面をこちらへ向けた。折れ線が一本、途中で急に落ちている。
「ここで半分いなくなる。二分四十秒」
「二分四十秒」
「だから、大事なことは二分より前に置きます」
和彦は手帳を出す。出してから、書かずに閉じた。指が表紙の縁をなぞった。同じことを前にも聞いている。
*
恵那は部屋にいた。
撮影のあいだ、壁際に立っていた。一度も口を挟まなかった。
終わってから、その人が恵那のほうを向いた。
「小林さんも、英語やってました?」
「いえ」
恵那はそれだけ言った。
「そうですか。じゃあ、これから伸びますよ」
「はい」
恵那は頷いた。頷いてから、机の上の本を一冊持ち上げて、裏を見た。値段のところを見ていた。
*
編集は二日かかった。
一時間半が、十二分になった。
和彦は「water」のところを頭に置いた。冒頭の八秒だった。置くと、そのあとの十一分が、その八秒の説明に見える。
置き方を変えて、真ん中にしてみた。真ん中にすると、ただの雑談になる。
和彦は頭に戻した。戻してから、こめかみを指で押した。
*
題は恵那が決めた。
「〈発音だけ直したら、通じるようになった〉」
「通じるようになった、って誰がですか?」
「誰でもいい」
「でも」
「読む人が、自分だと思うから」
和彦は題を打ち込んだ。打ってから、主語のところをもう一度見る。誰のことも指していなかった。
*
六時十分に、恵那が帰った。
その人は残った。上着を椅子の背にかけて、そのままにしていた。
時計は七時三十五分だった。
「三千九百」
「はい」
缶を配ったのは瀬川だった。冷えていて、指が濡れた。
「登録者、どうやって伸ばしたんですか?」
大野が訊いた。
「教材を作ることです」
「教材」
「動画だけだと、そのうち止まります。売るものがあると、止まらない」
大野は缶を持ったまま、しばらく黙っていた。それから「なるほどな」と言った。
*
その人は九時前に帰った。
帰りぎわに、机の上の本を四冊とも置いていった。
「読んでください」
「ありがとうございます」
「感想、動画にしてくれてもいいですよ」
和彦は本を積んだ。四冊で、腕にかかる重さが思ったより大きい。
積んでから、いちばん上の一冊を開いた。
最初の章が発音だった。次の章も発音だった。三つ目でようやく単語になって、そこから先は付録だった。
和彦は本を閉じる。表紙の顔が、こちらを向いていた。
*
十時まで残った。
里佳が「あの人、感じよかったね」と言った。
「そうですね」
「本、読む?」
「読みます」
「うそ」
里佳は笑って、缶を置いた。置いた場所が濡れていて、底に丸い跡がついた。
陽菜は携帯で、その人のチャンネルを開いていた。開いたまま、しばらく黙っていた。
「登録者、十一万だって」
「十一万ですね」
「あたしたち、いま二万八千」
陽菜は画面を消した。消してから、髪を耳にかけた。
*
その週の欄に、和彦は打ち込んだ。
打ち上げ 三千九百円 大野立替 十月十日
出演料の欄は空けたままにした。相互送客なので、金は動かない。
本の四冊も、どこにも入らなかった。
*
出したのは日曜だった。
月曜の朝に十万を越えた。前の回より速くて、和彦は数字を二度見た。
コメントを上から読んだ。発音の話が多い。次が教材の話だった。
和彦は、あの兄弟の名前が出ていないかを探した。三百件まで読んで、無かった。
和彦は素材のフォルダを開いた。ギフテッドの回だった。二時間十四分のほう。
「アプリで」のところを、もう一度だけ再生した。
和彦は再生を止めた。
名前は、やはり言っていなかった。
*
その週の終わりに、部屋で和彦は訊いた。
「恵那さん、英語できますよね」
恵那は画面を見たままだった。
「あの人には、いえって言ってましたけど」
「訊かれたのは、やってましたか、でしょ」
「はい」
「やってない。持ってるだけ」
和彦は少し黙った。喉の奥が渇いていた。
「恵那さんから見て、あの人ってどのくらい喋れるんですか?」
恵那は手を止めた。止まったのは一秒くらいだった。
「普通に喋れてるよ」
「普通、ですか?」
「うん。普通」
和彦は頷いた。頷いてから、手帳の角を指で押さえた。
「すごい人なんですね」
恵那は画面に戻って、数字のところをスクロールした。
「和彦くんって、中学とか高校のとき、欲しいものあった?」
「欲しいもの、ですか?」
「うん」
和彦は考えた。
「まあ、プレステとかですかね。ゲーム好きなんで」
「じゃあ、そのプレステの買い方、いつまでも自慢できる?」
「え」
「その買い方をずっと人に教え続けられる?」
和彦は口を開けて、そのまま閉じた。
「いえ」
「そういう最低な人間よ」
恵那はスクロールを続けた。指の動きは、さっきと同じ速さだった。
*
その夜も、和彦は数字を確かめた。三十八万を越えていた。
和彦は、その数字を手帳に書かなかった。
*
〈発音だけ直したら、通じるようになった〉
十二分八秒/再生 386,000
〈やっぱり発音が違う〉




