ギフテッド
兄弟だった。
兄が小学四年生で、英検一級を持っている。弟は二年生で、準一級を持っている。チャンネルは自分たちで回していて、登録者は四千いた。
「四千?」
大野が画面を覗いた。
「うちより少ないじゃん」
「少ないよ」恵那が言った。「でも、見てるのが親だから」
「親が見てんの」
「見てるのは親。押すのも親」
恵那は画面を閉じた。
「うちの塾に、いちばん近い」
*
工藤湊と、工藤律。
母親が連れてきた。玄関で靴を揃えて、そこから先へは入らなかった。廊下の椅子に座って、鞄を膝に置いて、そのまま二時間いた。
「よろしくお願いします」
湊が言った。律が半歩あとで、同じことを言った。
湊のほうが頭一つ背が高い。髪の分け方は同じだった。湊が先に喋って、律が少しあとから喋る。
母親は喋らなかった。挨拶のときだけ声を出して、あとは黙っていた。廊下の椅子は硬くて、座ると背もたれが鳴る。二時間のあいだに、その音が三回した。
和彦は水を持っていこうとした。持っていく前に、母親が自分の鞄から水筒を出した。
*
撮影は部屋でやった。
里佳が真ん中に座って、両側に二人を置いた。カメラは正面から一台。和彦がもう一台を横から回した。
「じゃあ、英検一級って、どのくらい難しいんですか?」
里佳が訊いた。声はいつもより高かった。
「難しいです」
湊が答えた。
「どのへんが?」
「単語が難しいです。あと長いです」
里佳が続きを待った。続きは来なかった。
「えっと、たとえば、どんな単語?」
「いろいろあります」
里佳が手元の紙をめくった。めくってから、弟のほうを見た。
「律くんは、準一級だっけ」
「はい」
「二年生で準一級って、それもすごくない?」
「兄が四年生のときに一級だったので」
「うん」
「ぼくは二年生なので」
里佳が言葉を探した。探しているあいだ、律はこちらを見ていた。
「じゃあ、律くんのほうが速い?」
「速いです」
律がそう答えた。湊は何も言わなかった。表情も動かなかった。
*
和彦はカメラの後ろで、時間を確かめていた。レンズの縁が頬に当たって、そこだけ温かくなる。構えた腕が重くなって、途中で肘を机に載せた。
十分で、使えそうな受け答えは二つだった。
二人は嘘をついていない。訊かれたことに、正しく答えている。ただ、答えが二文で終わる。終わったあと、次を自分から出さない。
里佳は喋りつづけた。喋りつづけると、二人は短く返す。返されると、里佳がまた喋る。
画面の中で、喋っている時間の八割が里佳になっていた。
里佳がメモを裏返した。裏にも何か書いてあった。
「じゃあ、英語で自己紹介してもらえますか?」
湊が話し始めた。
途中で止まらない。速さも変わらない。発音は和彦の耳には完璧に聞こえた。二分近く喋って、最後まで一度も詰まらなかった。
律も同じだった。順番が違うだけで、長さもほとんど同じだった。二年生と四年生の差は、そこには出なかった。
「うわっ、超発音いいじゃん」
陽菜が本当に驚いた声を出した。手を口のところに当てて、そのまま止まっている。
「いま、何て言ってたの?」
「自己紹介です」
「うん、それは分かるけど」
「学校のことと、好きなことです」
「好きなことって?」
「いろいろです」
*
里佳が次の質問を探していた。手元のメモを見て、めくって、また戻している。
その間に、湊が口を開いた。
「あの、英語で会話しましょうか」
里佳が顔を上げた。
「え」
「そのほうが、たぶん続くので」
律が半歩あとで、同じ方向を向いた。
「うち、英語できないんだけど」
「二人でやります」
*
二人が向かい合った。
喋り出すまでに、一秒もかからなかった。
速かった。日本語のときと、速さがまるで違う。湊が言い終わる前に律が入って、律が言い終わる前に湊が返す。途中で二人とも笑った。笑ったところで、また続いた。
和彦は意味が分からなかった。分からないまま、撮っていた。
里佳が横で口を開けている。陽菜は身を乗り出して、二人の顔を交互に見ていた。
四分続いた。止める人はいなかった。
*
「なんの話してたの?」
止まってから、陽菜が訊いた。
「学校の給食の話です」
「給食」
「はい」
「それで四分喋れるの?」
「英語だと、喋れます」
湊はそう言った。悪気は無かった。
*
和彦はレンズの後ろから口を開いた。その日で、一度だけだった。
「なんでそんなに喋れるんですか?」
「保育園のときから、家でずっと流れてたので」
律が答えた。
「流れてた?」
「テレビも、車の中も、英語です。ごはんのときも」
「日本語は」
「日本語も、あります」
律はそう言って、少し考えた。
「でも、あとから覚えました」
里佳が身を乗り出した。椅子が床で鳴った。
「アメリカンスクールとか、行ってるの?」
里佳が訊いた。
「行ってないです」
「え、行ってないの?」
「ふつうの小学校です」
「うちの近所の?」
「はい。歩いて十五分です」
里佳が「へえ」と言った。言い方が長かった。
*
「じゃあ、海外は? 住んでたとか」
「ないです」
「一回も?」
「一回もないです」
湊がそう言って、にこにこした。目が細くなって、前歯が見えた。笑ったまま、顔が戻らない。律も同じ顔になっていた。
「行ってないのに喋れるって、よく言われます」
「言われる?」
「すごいって」
律が何度もうなずいた。うなずくたびに、肩が上下した。二人とも、そこだけ声が大きかった。
「うわ、たしかにすごい」
陽菜が言った。
「ですよね」
湊はそう返した。返してから、律のほうを見た。二人で顔を見合わせて、また同じ顔になった。
*
その日、二人が自分から言ったのは、そこだけだった。
あとは全部、訊かれてから答えている。和彦は撮りながら、それを数えていた。
和彦はカメラを構えたまま、その言葉を聞いた。
あとから覚えた、というのは、順番の話だった。日本語のほうが、あとだった。
和彦は続きを訊こうとした。訊こうとして、質問が出てこなかった。
*
二時間で終わった。
母親が廊下から立ち上がって、玄関で頭を下げた。二人も同じ角度で下げた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったです」
恵那が言った。恵那は最後まで画面に入らなかった。
*
「あの」
湊だった。靴を履きかけて、そこで止まっている。
「なんですか?」
「このなかでいちばん英語できるのって恵那さんですか?」
和彦は片づける手を止めた。訊いた理由が分からなかった。
恵那は鞄の紐を肩にかけ直した。それから、口を開いた。
「Sweetie, why are you forcing the English? We're in Japan, so speaking Japanese makes the most sense here……right?」
言い方は、優しかった。声の高さも、日本語のときと同じだった。
湊が「はい」と言った。
日本語だった。
*
律が口を半分開けて、そのまま止まっている。湊は靴を持ったままだった。
「……いま、めっちゃ普通でした」
律が言った。
「そう?」
「そうです。すごい普通でした」
律が身体を少しだけ前に出した。
「あの」
今度は律だった。
「恵那さんは、英語が嫌いなんですか?」
日本語で訊いた。
恵那は少し考えた。考えたというより、言葉を選んだように見えた。
「Language is just a tool. There's no point in liking or disliking a tool.」
*
二人が黙った。
湊が律のほうを見た。律も湊を見た。二人とも、眉のあたりが少し寄っている。
さっきまでの顔が、そこで止まっていた。
「言葉は道具だって」
律が里佳に言った。訳し方が短かった。
「へえ」
里佳はそう返した。返してから、時計を見た。
二人は、まだ同じ顔をしていた。
恵那の顔は動かなかった。動かないまま、日本語に戻した。
「気をつけて帰ってね」
*
里佳が玄関のほうへ出てきた。
「なんで分かったの?」
里佳が訊いた。湊のほうにだった。
「聞いてれば分かります」
「聞いてればって」
「なんとなく」
湊は靴を履いた。履いてから、もう一度頭を下げた。
*
母親は、玄関のところに立っていた。
二時間、廊下にいた人だった。英語のあいだも、そこにいた。一メートルも離れていない。
「ありがとうございました。いい経験になりました」
母親はそう言って、頭を下げた。深く下げた。
「こちらこそ」
恵那が言った。
和彦は母親の顔を見た。
嬉しそうだった。息子たちが英語で話しかけられたことを、喜んでいる顔だった。
「この子たち、家でもずっと英語なんです」
「そうみたいですね」
「わたしは、全然なんですけど」
母親は笑った。笑ってから、口元に手を当てた。
*
和彦は、二時間の廊下のことを思った。
テレビも、車の中も、ごはんのときも英語だと、律は言った。その家を作った人が、いま、全然なんですと言っている。
和彦は何も言わなかった。言うことが、そもそも無かった。
*
玄関のドアが閉まった。
「恵那さん、いま英語でなんて言ったんですか?」
陽菜が訊いた。
「日本にいるんだから、日本語でいいんじゃない、って」
「それだけ?」
「それだけ」
恵那は鞄を持ち直した。
「あの子たち、日本語のほうが大変そうだったから」
陽菜が「やさしい」と言った。
恵那は返事をしなかった。返事をするようなことではない、という顔だった。
里佳が缶を開けた。開ける音が短かった。
「英語、嫌いなんですか?」
里佳が訊いた。さっき律が訊いたのと、同じことだった。
「嫌いじゃない」
「好きでもない?」
「歯ブラシを好きかって訊かれても、困るでしょ」
「困る」
「ドライヤーも」
里佳が笑った。
恵那は笑わなかった。困っている顔でもなかった。
*
和彦は、それ以上は訊かなかった。
カメラは、もう止めてあった。
*
里佳が息を吐いた。
「あれ、どうすんの?」
「編集します」
「できる?」
「やってみます」
*
その夜、和彦は素材を通した。部屋には誰もいない。蛍光灯の一本が切れかけていて、十分おきに小さく鳴った。
素材は二時間十四分あった。
和彦は最初、答えだけを抜いていった。抜くと、答えの前後に里佳の声が残る。残った声を消すと、そこに間ができる。間を詰めると、答えと答えがくっつく。
くっつけると、話が変わった。
湊が「難しいです」と言ったあとに、律の「単語が多いからです」を置く。二人は別のことを訊かれている。それでも、置くと、会話に見えた。
これは足していない。順番は変えた。変えたが、言葉は一つも作っていない。
和彦は一度、手を離した。指の関節が固まっていて、伸ばすと音が鳴った。喉が渇いていたので、机の上の水を飲んだ。ぬるくなっていた。
*
英語の四分は、最初に外した。
字幕をつければ使える。つけるには、聞き取って、書き起こして、訳す必要がある。和彦にはできない。外に頼めば金がかかる。
それに、見る人は日本語で見に来る。
和彦はその四分を「使わない」のフォルダへ移した。指を二度動かしただけだった。
二人がいちばん喋っていたのは、そこだった。
*
二日目に、和彦は継ぎ目を数え始めた。数える理由は自分でも分からない。数えていると、手が止まらずに済んだ。
紙に正の字を書いた。一つ切って、一本。もう一つ切って、二本。
三十分で、正の字が七つになった。
*
三日目の夜に、仁科が来た。
「まだやってるの」
「まだです」
「何時間目?」
「たぶん、十四時間目です」
「多いね」
仁科はノートを開いて、和彦の行に何か書いた。
「時間、書いといたから」
「なんの時間ですか?」
「かかった時間。次から見積もれるでしょ」
仁科は定規を出した。線を引いて、また閉じた。ペンを置く音が短かった。
*
四日目にできた。
二時間十四分あった素材が、六分半になった。
和彦は正の字を数えた。二十八個と、一本。百四十一だった。
紙に書いた。
〈継ぎ目 百四十一〉
書いてから、その下を見た。何も書くことがなかった。
*
三日目の夜中に、音が合わなくなった。切りすぎて、息の音まで消えていた。人が喋っているのに、息を吸う音が一度もない。和彦は消した息を、別のところから持ってきて、足りないところに置いた。
それは、足したことになるのかもしれなかった。和彦は少し考えて、それでも置いたままにした。息は本人のものだった。
*
四日目の朝に、できた。
できたものを、和彦は通した。
二人はよく喋っていた。訊かれたことに答えて、答えたあとに一言足していた。互いの言葉を受けて、続きを言っていた。笑うところで笑っていた。
どこにも嘘はなかった。
英検一級は本当だ。英語は本当に喋っている。声も、顔も、そのままだった。
和彦は最後まで通してから、椅子の背にもたれた。肩が固まっていて、回すと音がした。
*
夕方に、恵那が来た。
「ここ、切ろうと思ってます」
和彦は場面を出した。行ってないのに喋れる、と湊が言うところだった。
「なんで?」
「自慢に聞こえるので」
「聞こえるね」
恵那は画面を止めた。止めた場所は、湊の前歯が見えているところだった。
「でも、残して」
「嫌がられませんか?」
「嫌がられない」
恵那は指で画面を一度叩いた。
「そこだけ、子どもに見えるから」
和彦は、その場面を戻した。戻すのに、押すだけでよかった。
恵那は画面を先へ送った。送った先で、指を止めた。
「並べないで」
恵那が画面を見て、そう言った。
「並べる?」
「二人を横に切り替えるやつ。交互に出さないで」
「どうしてですか?」
「下の子のほうが速く見えるから」
恵那は画面の中の律を指した。
「二年生で準一級。並べると、そこだけ残る」
「本当のことですけど」
「本当だよ。でも、見た親が諦める」
恵那は指を離した。
「諦めた親は、塾に来ない」
「はい」
「二人で一人みたいに出して」
和彦はカットを組み直した。組み直すのに、また四時間かかった。
*
終わったのは夜中だった。恵那はまだ机の端にいた。
「恵那さん」
「うん」
「これ、すごいと思いますか?」
恵那は少し黙った。黙って、画面をもう一度見た。
「英検一級?」
「はい」
「持ってるよ、私も」
和彦は画面から目を離した。
「そうなんですか?」
「うん。数検も」
恵那は椅子に座らなかった。
「あれ、勉強すれば取れるの。時間はかかるけど、取れる」
「すごくないですか?」
「すごいって言われても、私は何のことか分からなかった」
*
恵那はそこで、少しだけ言葉を足した。
「小学校のとき、飛ばされて、教室にいるのが全員年上だった。解き方は教わったけど、それ以外は誰も教えてくれなかった。教える人がいなかったから」
「はい」
「あの子たちも、たぶんそう」
和彦は何か言おうとした。
「でも、それは動画に関係ないでしょ」
恵那は鞄を肩にかけた。
「この回は、映えるから出すの。それだけ」
*
組み直したあと、和彦は最初に作ったほうと見比べた。
交互に切り替えるほうが、動画としては面白かった。律のほうが速く答える。湊は一度考える。考えているところに律が入る。二人のやりとりに見えて、そこだけ生きていた。
和彦はそのファイルを消さずに、別のフォルダへ移した。フォルダの名前は「使わない」にした。
*
出したのは日曜の朝だった。
昼に八千、夜に二万四千になった。翌日は六万を越えた。
コメントを和彦は上から読んだ。
〈うちの子にも見せました〉
〈やっぱり早期教育ですね〉
〈海外行ったことないのがすごい〉
〈二人とも礼儀正しくて感動〉
和彦は三つ目で止まった。
礼儀は、切っていない。あそこだけは、そのまま置いてある。
*
陽菜が携帯を持って部屋に入ってきた。画面をこちらへ向けて、少し笑っている。
「これ、あの子たち?」
「そうです」
「撮ったときと、なんか違わない?」
「切ったので」
「切ると、こんなに変わるんだね」
陽菜は画面をもう一度見た。見ながら、髪を耳にかけた。
「でも、こっちのほうがいいよね」
「いいと思います」
「本人たちも、こっちのほうが嬉しいでしょ」
和彦はうなずいた。うなずいてから、うなずいた自分の首の動きが、少し遅れて分かった。
*
塾の問い合わせが、その週で三十一件あった。
オンラインのほうにも、体験の申し込みが十九件来た。仁科が両方を表に入れて、横に線を引いた。
「効いてるね」
「効いてます」
「また出す?」
「たぶん」
仁科はペンを置かなかった。置かないまま、次の行に日付を書いた。
*
その週、和彦は動画をもう一度、最初から通した。
六分半のあいだに、二人は十九回喋っている。十九回とも、答えが二文で終わらずに続いていた。続いているのは、和彦が続けたからだった。
紙を出して、書きかけて、やめた。書くと、それが残る。残ると、誰かが読む。
和彦は紙を丸めて、鞄に入れた。捨てはしなかった。
*
水曜に、湊から連絡が来た。管理の画面に、短い文が入っていた。
〈ぼくたちのチャンネルも、のびました。ありがとうございます〉
登録者は四千から一万一千になっていた。
和彦はその画面をしばらく開いていた。返事は恵那が打った。打つのに三十秒もかからなかった。
*
夕方、瀬川が椅子を運んでいた。
「あの子ら、すごいっすね」
「すごいです」
「英語ぺらぺらで」
「ぺらぺらでした」
「頭いいと、あんな喋れるようになるんすね」
和彦は返事をしなかった。返事の代わりに、画面のフォルダを閉じた。
フォルダには、使わなかった二時間七分が入っている。消していない。消す理由もなかった。
*
六時十分に、恵那が出ていった。
閉まってから、大野が「今日やる?」と言った。誰も断らなかった。里佳が缶を数えて、大野が買いに出た。戻ってきたとき、袋の底が濡れていた。
時計は七時七分だった。
大野がレシートを机に置いた。
「五千九百」
「はい」
「今日、何の打ち上げ?」
大野が訊いた。
「ギフテッドの回です」
「なんて?」
「ギフテッド」
「なにそれ」
「才能がある子のことです」
「へえ」
大野は缶を開けた。開けてから、もう一度言った。
「才能って、測れんの」
和彦は答えなかった。答えられなかった。
*
その週の欄に、和彦は打ち込んだ。
打ち上げ 五千九百円 大野立替 十月三日
謝礼 二万円 工藤様 九月二十九日
編集にかかった十九時間を入れる欄は、なかった。
*
〈小4で英検1級の兄と、小2で準1級の弟に聞いてみた〉
六分三十二秒/再生 214,000
〈二人とも礼儀正しくて感動〉




