付き人
六月に入って、仁科が人を呼んだ。テレビで見たことがある人だった。
名前は出てこなかった。顔は分かる。何かの番組で、端のほうに座っていた人だった。声のほうが先に思い出せた。低くて、少し掠れている。
「いまは、あんまり出てないみたい」
仁科はそう言って、時刻の入った表を出した。十三時に入り、十三時半から収録、十六時撤収と書いてある。
*
当日、二人で来た。約束の時刻より十分早かった。
一人が本人で、もう一人は事務所の人だった。事務所の人が先に名刺を出した。両手で出して、少し腰を折った。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
和彦は名刺を受け取った。厚みがあって、指で持つと角が硬い。机の端に置いた。会社の名前は聞いたことがなかった。
事務所の人は椅子を勧められても座らず、壁際に立った。鞄を足元に置いて、そのまま動かなかった。
*
収録が始まった。窓は閉めてある。外の音は入らない。
陽菜が正面に座って、その人が横に座る。里佳は後ろでカンペを持っていた。
「テレビって、いつから出てるんですか?」
「二十二からですね」
「若いですね」
「若いですよ。何も分かってなかったです」
その人はよく笑った。笑うとき、肩が一度上がる。息の音が、笑いより先に出た。
*
十分ほどして、陽菜が訊いた。
「あの、これ訊いていいのか分からないんですけど」
「なんでも訊いてください」
「銀次さんの付き人だったんですか?」
その人は水を飲んだ。飲んでから、コップを机に置く。底が当たる音がした。
「ええ」
それから、少し前に出た。
「あの人ね、静かに見えるでしょ。怒らせたらやばいんですよ」
里佳がカンペを下ろした。紙が膝に当たって、乾いた音を立てた。
*
そこから十分ほど、話が変わった。誰も戻さなかった。
現場に入る時間のこと。楽屋の並び方のこと。誰が先に挨拶するかのこと。全部、銀次の話だった。
「一回、灰皿飛んできましたからね」
「え」
「いや、こっちにじゃないですよ。壁に」
大野が「へえ」と言った。缶を持ったままだった。
「で、そのあと何て言ったと思います?」
「なんて言ったんですか?」
「ごめんね、って」
少しの間があった。里佳が「へえ」と言った。
その人は、笑うところで自分から笑った。声が部屋の中で止まって、それだけだった。
*
しばらくして、その人が身を乗り出した。椅子が床をこすって、短い音がした。
「あと、これはあんまり言っちゃいけないんですけど」
「言っちゃってください」
里佳が言った。
「一回ね、撮影現場にヤクザが乗り込んできたことがあって」
「乗り込んできたんですか?」
「揉めたんですよ。で、取っ組み合いになって」
その人は自分の襟のあたりを掴んでみせた。指が布を握って、すぐ離れた。
「追い返しちゃったんですよ、銀次さんが」
誰も声を出さなかった。
「一人でですか?」
「一人で」
陽菜が頷いた。頷いてから、里佳のほうを一度見た。
「そのあと何事もなかったみたいに撮影に戻って。すごいでしょ」
「すごいですね、それ」
言ったのは陽菜だった。声の高さが、いつもと同じだった。
*
しばらくして、瀬川が壁際から言った。
「あの、すみません」
「銀次さんって、どういう人でしたっけ」
その人は一瞬止まった。止まってから、笑った。
「知らない?」
「すみません」
「いや、いいんです。もう出てないから」
和彦はレベルのつまみに指をかけた。針が振り切れかけていたので、一つ下げた。指の腹が、つまみの溝で少し滑った。
*
しばらくして、その人がコップを置いた。
「でもね、いい人なんですよ」
「いい人?」
「お世話になってたんで、俺。ある日、飲みに連れて行かれて」
その人はコップを両手で持った。持ったまま、しばらく喋らなかった。
「今日はお前の付き人卒業の日だ、って言って」
「え」
「手紙くれたんですよ」
部屋の音が止まった。エアコンだけが残った。
「泣きましたよ、俺」
里佳が「うわ」と言った。言い方が、さっきまでと違っていた。
「それで、分厚い封筒も一緒にもらって」
「封筒?」
「中に百万入ってたんですよ」
大野が「まじで」と言った。二回言った。この日、部屋がいちばん動いたのはここだった。
和彦は、その金額をどの欄に入れるかを考えた。考えてから、自分の帳簿ではないことに気づいた。
「それが今でも使えなくて」
「使えない?」
「まだ家の引き出しに、手紙と一緒にとってあるんですよ」
誰も、次の言葉を出さなかった。
陽菜は何も言わなかった。膝の上で、指を組んで、また離した。
*
部屋の隅で、和彦は横のカメラを覗いていた。
画面に、事務所の人が入っている。壁際に立ったままだった。表情は変わらない。メモも取っていない。
止めもしなかった。壁にもたれもせず、まっすぐ立ったままだった。
*
撤収は十六時ちょうどだった。表のとおりで、一分も違わなかった。
和彦は素材を持って帰って、その夜に通した。一時間四十分あった。
途中で、和彦は二つの数を分けて書いた。
○その人の話 二十二分
○銀次さんの話 六十八分
残りは、雑談と、間だった。部屋が静かな時間が、思ったより長い。
和彦は、その二つの数をしばらく見ていた。指が机の上で止まっていた。
*
編集は三日かかった。二日目の夜に、一度全部やり直した。
一時間四十分が、十四分になった。
銀次の話は、そのうち九分あった。灰皿のところも、ヤクザのところも、丸ごと残した。
*
十六時半に、事務所の人が先に帰った。
本人は残った。上着を椅子の背にかけて、缶を受け取る。指先が濡れていた。
時計は五時十五分だった。
「一万四千二百」
「はい」
缶を配ったのは瀬川だった。冷えていて、指が濡れた。カメラは机の端で回っている。
「YouTubeって、どうやったら伸びるんですか?」
その人が訊いた。訊き方が、さっきの喋り方と違っていた。
「毎日出すことですかね」
和彦が答えた。
「毎日?」
「はい」
「それ、しんどくないですか?」
「しんどいです」
その人は缶を持ったまま、しばらく黙っていた。
「テレビは、月に二本なんですよ。いま」
返事はなかった。大野が袋菓子を開けて、机の真ん中に置いた。
*
その週の欄に、和彦は打ち込んだ。
打ち上げ 一万四千二百円 大野立替 六月五日
出演料 八万円 なし 六月五日
出演料の欄に金額が入ったのは、初めてだった。前は〇と書いた。その前は、空けたままだった。
金額は向こうが言ってきた。仁科は値切らなかった。
「うちは、この額なので」
和彦はそのまま打ち込んだ。
*
出す前の日、部屋に事務所から連絡が来た。
仁科が電話を受けて、和彦のところへ来た。
「銀次さんのところ、抜いてほしいって」
「全部ですか?」
「全部」
「九分あります」
「うん」
仁科は時計を見た。それから、指で机の縁を一度叩いた。
「抜いて」
*
抜いた。九分ぶんを選んで、消して、前後を繋いだ。
十四分が、五分になった。
残ったのは、その人がテレビに出始めたころの話と、いまの本数の話だった。
手紙の話も、抜いたほうに入っていた。
和彦は通しで見た。五分は短い。短いが、繋ぎ目は分からなかった。
「これで出しますか?」
「出す」
仁科はノートに何か書いた。四つ目の欄だった。
*
出したのは金曜だった。夜の八時に出した。
土曜に一万八千を越えた。日曜は二万一千で止まった。
その週の平均は九万だった。二万一千は、その四分の一に届かない。
和彦は数字を三度打ち直した。三度とも同じだった。目の奥が重かった。
コメントは百二十件だった。上から読んだ。
〈この人、誰でしたっけ〉
和彦はそれを二回読んだ。喉の奥が渇いていた。
*
月曜に、仁科が数字を確かめた。
「二万一千」
「はい」
「そう」
仁科はそれだけ言って、表に線を引いた。手は止まらなかった。
線を引き終わってから、顔を上げずに言った。
「なんで男って、武勇伝好きなのかな」
和彦は答えを持っていなかった。
仁科はそれ以上、訊かなかった。次の行に、また線を引いた。
*
和彦は、抜いた九分をゴミ箱に入れなかった。
別のフォルダを作って、そこに移す。
名前を付ける欄があった。
日付だけ入れた。
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〈元付き人が語る、テレビの裏側〉
五分二十秒/再生 21,000
〈この人、誰でしたっけ〉




