一億
三月だった。年度末で、どこも人が動く。
その週の相手を決めたのは、仁科だった。
投資をやっている人で、四十くらいの男だった。仁科は表を作って、和彦に渡した。時刻が入っている。十三時に入り、十三時半から収録、十七時撤収と書いてあった。
「誰の紹介ですか?」
「紹介じゃない。こっちから連絡した」
仁科はそれだけ言って、表の端を指で押さえた。紙が机に貼りついた。
*
男は十三時十分に来た。
シャツの襟が硬かった。鞄が重そうで、置くときに机が鳴った。中からノートパソコンを出して、開く。画面に数字が並んでいた。緑と赤が混ざっている。
和彦は寄って撮った。ピントが合うまでに二秒かかった。
「これ、映していいやつですか?」
「いいよ」
男は画面をこちらへ回した。指で下のほうをなぞって、それからやめた。
*
十三時半の少し前に、仁科が男と話した。
和彦は離れていたので、内容は聞こえない。男が二度うなずいて、それから笑った。仁科は笑っていない。ノートに何か書いていた。
戻ってきて、仁科が言った。
「口座の画面は使わない」
「使わないんですか?」
「スクショだけでいい」
「どう違うんですか?」
「動いてると、日付が出る」
仁科はノートを閉じた。閉じてから、時計を見た。
*
十三時半に、収録が始まった。
陽菜が正面に座って、男が横に座る。里佳が後ろでカンペを持っていた。持ち方が下手で、途中で一度落とした。落ちる音がして、男が少し笑った。
「去年は、どれくらい増えたんですか?」
陽菜が訊いた。訊き方は普通だった。
「一億」
陽菜が「え」と言った。声が上がって、そこで少し裏返った。
「一億」
「うん」
仁科が手を上げた。
「もう一回」
止まった。男が首を回した。骨の鳴る音がした。
「いまの、もうちょっと」
「もうちょっと?」
「一億ちょうどだと、切りがよすぎるので」
男は少し考えた。膝の上で指を組んで、また離した。
「一億ちょっと」
「はい、それで」
もう一度回した。
「去年は、どれくらい増えたんですか?」
「一億ちょっと、かな」
「一億!」
仁科がまた手を上げた。
「すみません、もう一回だけ」
三回目に、男はこう言った。
「一億二千万」
誰も、増えた理由を訊かなかった。
*
そのあとは、順調だった。
男はよく喋った。喋り方に癖があって、話の終わりを少し上げる。上げると、聞いているほうが頷きやすくなる。里佳が二回、頷きすぎて笑われた。
和彦は横のカメラを覗いていた。画面に男の手が入っている。指を組んで、また離す。組み直すたびに、右手が上になった。
「大事なのは、始めることなんですよ」
「始めること」
「そう。みんな、勉強してから始めようとするでしょ。逆なんです」
陽菜が「なるほど」と言った。言ってから、少し口を開けたままでいた。
男は水を飲んだ。飲んでから、コップを机の同じ場所に戻した。
「損してる人って、だいたい途中でやめるんですよ」
「途中で」
「そう。下がったときに怖くなって、売っちゃう。で、上がってから戻ってくる」
男はコップを持ち上げて、そのまま置いた。置く音がしなかった。
「逆をやればいいだけなんです」
里佳が後ろで「シンプル」と言った。カンペを持ったままだった。持ち方は、さっきより良くなっていた。
「短いほうは、どうなんですか?」
陽菜が訊いた。カンペには無い。
「短いほう?」
「短期って、危ないって聞きます」
男は笑った。笑ってから、少し前に出る。椅子が鳴る。
「全然いけますよ。短期でも、億は狙えます」
「億」
「狙えます」
陽菜が「へえ」と言った。里佳が後ろで小さく手を叩いた。音は入らない距離だった。
「ただ、長くやるなら、話は別で」
男が指を組み直す。右手が上になる。
「アメリカのインデックス。あれを買っておけばいいんです。それだけ」
「それだけ」
「それだけです」
和彦はカメラを覗いたままでいた。さっきの話と、いまの話が、繋がらなかった。繋がらないまま、録れている。
男は水に口をつけた。今度は、置くときに音がした。
「正直、僕はね」
「はい」
「投資やらない人って、バカだと思うんですよ」
誰も、何も言わなかった。
里佳がカンペを下ろす。瀬川が壁のほうを見る。陽菜だけが頷いている。頷き方は、さっきまでと変わらない。
仁科は手を上げない。ノートに何か書いて、そのままにしている。
「あ、いま言っちゃった」
男が笑う。笑ってから、仁科のほうを見る。
「大丈夫ですか、いまの」
「大丈夫です」仁科が言った。「そのままで」
*
十五時に休憩を入れた。大野が寄ってきた。
「俺もやろうかな」
「やればいいじゃないですか」
「いくらから?」
和彦は分からなかったので、男のほうを見た。男が「三万でもできますよ」と言った。
「三万か」
「三万でも、十年やれば違いますから」
大野は携帯を出して、何か調べ始めた。調べながら、缶を開けた。開ける音が部屋に響いて、瀬川がこちらを見た。
*
夕方までに、三時間半撮った。
和彦は素材を持って帰って、その夜に見返した。部屋は寒くて、指が冷たくなった。
スクリーンショットの画は、四枚あった。どれも下のほうが切れている。上には緑の数字が並んでいた。
和彦は一枚で止めて、拡大した。
元手が書いてある。年が書いてある。増えたぶんも書いてある。
和彦は電卓を出した。
一年でいくつになったかを割った。次の年も割った。三年ぶん割って、それを掛け合わせた。
合わなかった。
もう一度やった。今度は元手をいちばん少なく見積もった。それでも合わなかった。三度目は、年数のほうを増やしてみた。合うところまで増やすと、男が十九歳のときから始めていることになった。
和彦は紙に書いた。四行になった。
しばらく見てから、引き出しに入れた。鍵はかけなかった。
*
編集は二日かかった。
三時間半が、十四分になった。
「一億」のところは、三回目を使った。一回目と二回目は捨てた。捨てる前に、和彦は一回目を最後まで再生した。
男の顔は、三回とも同じだった。
バカだと言ったところは、切らなかった。
一度切って、前後を繋いでみた。繋がりは、そのほうが良かった。和彦は元に戻して、その日はもう触らなかった。
*
翌日、サムネイルの文字を仁科が決めた。
「〈年収一億〉って入れて」
「年収じゃないですよね。増えたぶんですよね」
「そう」
「じゃあ」
「〈年収一億〉」
仁科は画面を見たままだった。
「そっちのほうが、短いから」
和彦は文字を打ち込んだ。打ってから、喉のあたりが少し詰まった。
*
出したのは金曜の夜だった。
土曜の朝に十万を越えた。日曜には四十万になった。
和彦はコメントを上から読んだ。画面が近いので、目の奥が重くなる。
〈明日から始めます〉
〈もっと早く知りたかった〉
〈うちの親に見せたい〉
三百件目まで読んで、そこでやめた。数字のことを書いている人は、一人もいなかった。
和彦は引き出しを開けた。四行の紙は、そのままそこにあった。開けただけで、閉めた。閉める音が、思ったより大きかった。
*
撤収は十七時ちょうどだった。表のとおりだった。
恵那は来ていない。四か月、一度も来ていなかった。待つものが無いので、片づけがそのまま打ち上げになる。
時計は五時八分だった。
男も残った。上着を脱いで、いちばん奥に座った。
「一万二千九百」
「はい」
和彦が言って、瀬川が缶を配った。カメラは机の端で回っている。
途中で、割り勘の話になった。大野が財布を出した。
「先生の分は」
「あ、いいよ。領収書だけちょうだい」
「領収書?」
「経費で落とすから」
大野は少し止まって、それから「はいはい」と言った。
和彦は紙を書いて、渡した。宛名を訊くと、会社の名前が返ってきた。聞いたことのない名前だった。書きながら、ペンが一度かすれた。
*
男は、里佳の隣に移った。
「口座、作った?」
「作ってないです」
「作るだけならタダだよ」
「はあ」
「作っといたほうがいいって。始めないと、始まらないから」
里佳は缶を持ったまま笑った。笑ってから、和彦のほうを見た。和彦は目を合わせなかった。
男は九時前に帰った。帰りぎわに全員と握手をして、瀬川の手だけ二回握った。
ドアが閉まってから、瀬川が口を開いた。
「俺も、やってみようかな」
「株?」
和彦が訊くと、瀬川は「うん」と言った。それから、下を向いて笑った。
「三万でもできるって言ってたし」
誰も何も言わない。大野が缶を潰す音だけがした。
*
部屋に帰ってから、和彦は恵那に送った。
〈今日は投資の人でした。瀬川さんが、自分もやると言っています〉
返信は十分で来た。
〈ランダムウォークって知ってる?〉
和彦は打った。
〈知らないです〉
返信は、それきり来なかった。
和彦は調べた。三分で読み終わる説明だった。読み終わってから、もう一度読んだ。二度目のほうが短く感じる。
瀬川に送ろうとして、送らなかった。
*
その週の欄に、和彦は打ち込んだ。
打ち上げ 一万二千九百円 大野立替 三月十九日
出演料 〇円 なし 三月十九日
出演料の欄に数字を書いたのは、初めてだった。今までは、空けたままにしていた。
和彦は〇のところを、二度見た。
*
〈年収一億の投資家に、全部聞いてみた〉
十四分六秒/再生 612,000
切り抜き 十六件/いちばん多いのは 七分五十秒から
〈参考になりました〉




