広告費
五月から、恵那が来なくなった。
来なくなったというより、来る日が減った。週に三回だったのが、二回になり、一回になった。六月には二回しか来なかった。
「実習ですか?」
和彦が訊くと、恵那は「それもある」と言った。
「それも」
「四年から、決めなきゃいけないの。何をやるか」
「決まってないんですか?」
「決まってない」
「どうやって決めるんですか?」
恵那は少し黙った。
「いつもは、数えたら決まるの」
「数えたら」
「うん」
「今回は?」
「数えても、同じになる」
恵那はそう言って、鞄を持った。持ってから、少し止まった。止まったのは一秒くらいだった。
恵那が来ない日は、仁科が回した。
仁科は台本を書かない。書かないのは恵那と同じだった。ただ、仁科は表を作る。時刻の入った表で、誰が何時に何をするかが書いてある。
壁に貼ると、その通りに動いた。
和彦は、そのほうが楽だと思った。楽なのに、なぜか手が遅くなった。
企画は、仁科が持ってきた。
「キャバクラで働いてみた」
「働くんですか?」
「一日だけ」
「誰がですか?」
「里佳」
里佳は「うち?」と言って、それから「まあ、いいけど」と言った。
*
店は駅の東口にあった。
五階まで上がると、廊下に鏡がある。鏡は横に長くて、歩くあいだずっと自分が映る。和彦は機材を持ったまま、そこを通った。肩が重くて、背中が丸まっていた。
中は暗かった。照明が低いところにあって、天井が見えない。香りが強い。甘くて、少し重い匂いだった。
店長は三十代の男で、よく喋った。
「撮影、ぜんぜん大丈夫ですよ。うち、そういうの慣れてるんで」
「ありがとうございます」
「むしろ助かります。求人が」
*
控室は狭かった。壁際にロッカーが並んでいて、扉の一つが閉まりきらない。床にヘアピンが落ちていて、和彦は靴の裏でそれを踏んだ。踏んでから、拾って棚に置いた。
髪を焼く匂いがした。誰かがアイロンを使っている。熱の音が、断続的に鳴っていた。
*
里佳は着替えて出てきた。
髪を上げて、耳が出ていた。服は店で借りたものだった。歩き方が少し変わっていた。
「どう?」
「似合ってます」
「でしょ」
里佳は笑った。笑ってから、鏡のほうを一度見た。見て、髪の後ろを直した。
教えたのは、サキという人だった。
二十代の半ばくらいに見えた。話し方が丁寧で、里佳より小さい声で喋る。指が細くて、爪が短く切ってあった。
「まず、灰皿ですね。二本吸ったら替えます」
「二本」
「はい。それから、お酒。グラスが半分になったら訊きます」
「訊く?」
「作りましょうか、って」
里佳はうなずいた。うなずきながら、手元を見ていた。
*
撮影は四時間だった。
里佳は客席に三回ついた。三回とも、店長が選んだ席だった。
和彦はカメラを離れたところから回した。客の顔は映さない。声も入れない。これは最初に決めてあった。
三回目のあと、里佳が戻ってきて、椅子に座った。
「疲れた」
「大変ですか?」
「大変。ずっと喋ってなきゃいけないんだもん」
里佳はグラスを持った。中は水だった。
*
終わりに、サキにインタビューをした。
「この仕事、長いんですか?」
「三年です」
「大変なこと、ありますか?」
サキは少し考えた。
「うーん、あんまり無いですね」
「無いですか?」
「みんな優しいので」
サキは笑った。笑い方が、里佳と少し似ていた。
和彦はカメラを止めた。止めてから、サキに礼を言った。サキも礼を言った。
*
四時間、和彦はほとんど立っていた。
肩に食い込むベルトを何度も掛け直した。膝の裏が張って、途中で壁に寄りかかった。寄りかかった壁は冷たくて、そこだけ気持ちがよかった。
耳が疲れていた。音楽が低いところで鳴りつづけていて、話し声がその上に乗る。乗った声だけが、意味を持たずに耳に入ってくる。
*
帰りに、店長が封筒を持ってきた。
「これ、うちからです」
「なんですか?」
「広告費です」
和彦は受け取った。中に現金が入っている。指で数えると、十五万あった。数え終わって、手のひらが少し湿っていた。
「これ、多くないですか?」
「いや、動画のぶんなんで」
店長は笑った。
「あと、これからのぶんも入ってます」
*
和彦は伝票を作った。
項目名を書く欄で、手が止まった。紹介料と書こうとして、やめた。誰も紹介していない。動画を出しただけだった。
和彦は「広告費」と打った。打ってから、しばらく画面を見た。喉の奥が乾いて、唾を飲んだ。
*
次の週、店長からメールが来た。
〈動画を見たという方から、三件応募がありました。うち二名が体験に来ます〉と書いてある。
文の下に、金額が書いてあった。一名につき、いくら。
和彦はその数字を見た。見てから、恵那に転送した。
返信は次の日に来た。〈受け取っていいよ〉とだけ書いてあった。
仁科が表に列を足した。
「これ、なんの列ですか?」
「送客」
「送客」
「見て、行った人の数」
仁科は定規で線を引いた。
「あと、これ」
もう一本、線が増えた。
「こっちは、働きに行った人」
和彦は二本の線を見た。二本とも、同じ店の名前が上に書いてあった。
*
出したのは金曜だった。
土曜に四十万。日曜に九十万。月曜で百三十万になった。前の回を越えた。
コメントは一万五千を越えた。
〈思ってたより普通の仕事で草〉
〈サキさんいい人すぎる〉
〈本間さん向いてそう〉
和彦は二つ目を三回読んだ。
サキが映っているのは、合計で二分四十秒だった。名前は出していない。店の名前は出していた。
*
その月、店に来た応募は十一件になった。
体験に来たのが七名。そのうち四名が続けた。四名ぶんの金額が、また封筒で来た。
和彦はそれも「広告費」で通した。
伝票の上のほうを見ると、同じ項目名が並んでいる。四月の分と、五月の分と、六月の分。金額だけが違う。
「これ、紹介じゃないんですか?」
和彦は仁科に訊いた。
「紹介したの?」
「してないです」
「じゃあ、違うでしょ」
仁科はノートを閉じなかった。閉じないまま、次の行を書いた。
「うちがやったのは、動画を出したことだけ」
「はい」
「見て、行くかどうかは、その人が決めてる」
和彦は、それに何も返せなかった。返せない理由も、そのときは分からない。口の中だけが苦かった。
和彦は自分の指を見た。
封筒を数えたときの紙の匂いが、まだ残っている気がした。手を洗っても、そう思った。
*
七月に、店長から連絡が来た。
サキが辞めたと書いてあった。理由は書いていない。かわりに、新しい人の名前が三つ並んでいた。
三つとも、和彦の知らない名前だった。
和彦は動画を開いて、サキが映っている二分四十秒を確かめた。
そこにいる。灰皿を替えて、グラスを見て、笑っている。
和彦はその二分四十秒を最後まで通した。通してから、閉じた。
消しはしなかった。消す理由が無かった。
*
その週、恵那は一度も来なかった。
和彦は数字と伝票を送った。返事は二日後に来た。〈ありがとう〉とだけ書いてある。
和彦は返事を打とうとして、打たなかった。
*
六時ごろ、仁科が「今日、やる?」と言った。
恵那が来ていないので、待つものが無かった。始まったのは五時四十分だった。
大野が袋を提げてきた。里佳が缶を配った。瀬川は最初から座っていた。
時計は五時四十分だった。
「八千二百」
「はい」
「里佳、また働きなよ」
大野が言った。
「やだ」
「なんで」
「一日でいい」
里佳は缶を持ち上げた。持ち上げてから、口をつけずに置いた。
「あれ、毎日やってる人、すごいと思う」
誰も、それに何も足さなかった。
*
その週の欄に、和彦は打ち込んだ。
打ち上げ 八千二百円 大野立替 七月十日
その上の行に、広告費が四つ並んでいる。合計は三十二万八千円になっていた。
項目名は、四つとも同じだった。
*
〈キャバクラで一日働いてみた〉
十八分三十秒/再生 1,310,000
〈サキさんいい人すぎる〉




