吸収
その日の撮影は、よく撮れた。
三本ぶんを一日で回して、どれも途中で止まらなかった。里佳が二回噛んだが、二回とも笑いになった。笑いになったほうが良かったので、そのまま残すことにした。
終わったのは五時半だった。
恵那は片づけの前に帰る。いつもそうだった。誰かが「先輩が帰ったら」と言ったことは、一度もない。
その日も、恵那は五時四十分に鞄を持つ。
「おつかれさま」
「おつかれさまです」
ドアが閉まる音がして、廊下の足音が遠くなった。
*
六時前に、大野が袋を提げて戻ってきた。
缶と、袋菓子と、瓶が二本入っていた。瓶のほうは、和彦が見たことのない形をしていた。細くて、首が長い。
「なにそれ」
里佳が訊いた。
「もらったやつ。開けないと悪いでしょ」
大野は瓶を机の真ん中に置いた。置いた音が重かった。
*
その夜は九人いた。
里佳と陽菜が並んで座って、その日の撮影の話をしていた。二回噛んだところを、里佳が自分でやり直して見せている。陽菜が笑って、笑いすぎて咳をした。
瀬川は壁際の椅子に座っている。缶を一本持って、まだ開けていない。
仁科はノートを開いている。開いたまま、線を引いていた。表の幅を直しているらしい。直す必要があるようには見えない。
和彦は机の端で、レシートを数えていた。
その週は五枚ある。二枚が撮影の経費で、三枚が打ち上げの分だ。金額を足して、電卓に打って、また足した。
*
部屋は暑かった。四月なのに暖房が切れていない。窓を開けると、外の空気が冷たくて、誰かが「寒い」と言った。開けたのは五分だけだった。
缶を開ける音が、間を置いて続いていた。袋菓子の袋が破れる音が、そのあいだに一度入った。
*
七時過ぎに、ドアが開いた。
恵那だった。
「あ、鍵」
そう言って、机のほうへ来た。机の上に、鍵が一つ置いてあった。部屋の合鍵だった。
「置いてったんですか?」
「置いてった」
恵那は鍵を取った。取ってから、帰らなかった。
立ったまま、部屋を見ていた。
「先輩も飲んでけば?」
大野が言った。
「いい」
「一杯だけ」
「いい」
恵那は缶を受け取らなかった。壁の近くに立って、そのままだった。
里佳が椅子を一つ空けた。恵那は座らなかった。
仁科の手は止まっていない。線を引いて、定規をずらして、また引いている。
和彦はレシートを数えていた。
三枚目の合計が合わなかった。二回目で合った。二回目のほうが正しいのかどうか、確かめるために三回目をやった。
顔は上げていなかった。
部屋で笑い声がした。誰かが「まじで?」と言った。
「これさ」
大野の声だった。
「ケツから飲んだほうが、吸収が早いんだって」
笑いが起きた。里佳が「なにそれ」と言って、陽菜が「きたない」と言った。誰かが手を叩いた。
「ほんとだって。胃を通らないから」
「誰から聞いたのそれ」
「聞いた。前に、そういうのやってた人がいて」
和彦は電卓を打っていた。四桁目で間違えて、消した。
「じゃあ、やってみる?」
*
椅子が動く音がした。
「瀬川、ちょっと」
「え」
「いいから、ちょっと」
笑い声が続いていた。止める声は出なかった。瀬川の声が、短く一つした。
和彦は電卓の数字を見ていた。合計が出ていた。
「それは絶対にやめなさい」
和彦は顔を上げた。
恵那が壁のところから、一歩だけ前に出ていた。声が高かった。
その高さを、和彦は初めて聞いた。
*
部屋が止まった。
大野が瓶を持ったまま、恵那のほうを見た。持っている手は、まだ下がっていない。
「え、なんで」
大野が言った。
恵那は歩かなかった。立ったまま、答えた。
「吐けなくなるから」
「吐けない」
「胃に入れば吐ける。そっちからだと、出せない」
言い方は丁寧だ。速さも普段と同じだった。ただ、高さが戻っていない。
「意識がなくなっても、そのまま入りつづける」
「入りつづける」
「死ぬよ」
誰も何も言い返さなかった。
言い返さなかったのは、怒られたからではなかった。和彦にはそう見えた。
大野は瓶を机に置いた。置くとき、底が机に当たって、短い音がした。
「はいはい」
大野はそう言った。言ってから、椅子に座った。座って、缶を持ち上げて、口をつけずに置いた。
*
瀬川は動かなかった。
椅子のところに立ったままで、片手が椅子の背にかかっている。かかったまま、動かさない。指が白くなっている。
誰も瀬川のほうを見なかった。
和彦も、そこで目を戻した。
恵那は、それ以上は何も言わなかった。
鍵を持ったまま、少し立っていた。それから、ドアのところへ行った。
「じゃあ」
誰かが「おつかれさまです」と言った。一人だけだった。
ドアが閉まった。
*
和彦は電卓を伏せた。
手のひらが汗ばんでいて、机に跡がついた。跡はすぐ消える。消えたところを指でもう一度なぞった。
*
誰も喋らなかった。
里佳が缶を持ち上げて、また置いた。陽菜が携帯を出して、画面を見て、すぐ伏せた。
仁科のペンが止まっていた。止まってから、また動いた。動いてからは、前と同じ速さだった。
大野が「まあ、冗談だし」と言った。
誰も、それに答えなかった。
*
十分くらいして、里佳が立ち上がった。
「うち、明日一限だから」
「もう?」
「うん」
里佳が出ていくと、陽菜も鞄を持った。持ってから、瀬川のほうを見た。見て、何か言おうとして、言わなかった。
新しく来ていた一年の二人が、続いて出ていった。
*
残ったのは四人だった。
大野は缶を一本だけ空けて、それから帰った。帰りぎわに「じゃ、また」と言った。声はいつもと同じ大きさだった。
仁科はノートを閉じて、鞄に入れた。入れてから、机の上を一度拭いた。拭くものが置いてあったわけではなかった。
「杉本くん」
「はい」
「これ、書かなくていいから」
「なにをですか?」
「今日のこと」
仁科は表を指した。指した欄は、空いていた。
「はい」
「うん」
仁科は出ていった。
*
和彦は、恵那が言った言葉を思い出そうとした。
三つあった。吐けなくなる。出せない。死ぬよ。
三つとも短い。短いのに、部屋の音が全部消えた。和彦はそれまで、恵那が誰かを止めるところを見たことがなかった。
止めたのは、行為のほうだった。
*
瀬川は最後まで座っていた。
和彦はレシートを数え終えていた。数え終わっても、机の上に広げたままにしていた。
「杉本さん」
「はい」
「あれ、俺は断ったほうがよかったすかね」
和彦は言葉を探した。探して、見つからなかった。
「断っていいと思います」
「そうすよね」
瀬川は缶を持った。まだ開けていなかった。開けないまま、鞄に入れた。
「じゃ、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
*
部屋の外で、水の音がした。誰かが廊下の流しを使っている。音は二分ほど続いて、止まった。
*
一人になった。
時計を見ると、九時四十分だ。いつもは十一時を過ぎている。
和彦は缶を集めた。九本あるはずが、四本しか空いていない。残りは、開けられないまま机に並んでいた。
和彦はそれを袋に入れた。入れながら、瓶を見た。
瓶は二本とも、机の真ん中にある。栓は開いていない。
*
電気を消して、廊下に出た。
蛍光灯は一本切れている。階段を下りながら、和彦は段を数えた。数えようとしたのではない。
十四段だった。
*
次の日、部屋に行くと、瓶は無くなっていた。
誰が持ち帰ったのかは分からない。訊く相手も思いつかなかった。机の上は拭いてあって、輪の跡も残っていない。
仁科の表は壁に貼ってある。その週の欄は、四日ぶんが空いたままだった。
*
その週の欄に、和彦は打ち込んだ。
打ち上げ 三千二百円 大野立替 四月十日
いつもの半分だった。
和彦はもう一度、レシートを確かめた。金額は合っていた。
合っているのに、しばらく打てなかった。




