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その六

ぱり、と遠くでポテトチップスの袋が鳴る音がして、それきり廊下は静かになった。

気配はまだある。

 

障子の向こう、廊下の奥のどこかで、白い子がこちらを窺っている。そう思うだけで背中がぞわついたが、少なくとも今すぐ飛び出してくる様子はなかった。

 八様はしばらく廊下を睨んでいたが、やがて大きく息を吐くと、台所の流しに寄りかかった。

「……まったく、行儀の悪い」

「そこですか」

「人の家の菓子を勝手に開けるのはよくない」

「そこじゃないんですよ。いやそこもよくないですけど」


 藤乃は呆れながら皿を水につけた。

「“夜に迎えに行く”って言ってましたよ、あれ」

「うむ」

「危機感がポテトチップスに負けてません?」

「負けておらぬ。両方大事である」

「供物への執着が妙に強いな……」

八様はふんと鼻を鳴らすと、戸棚を開けてごそごそ探り始めた。今度は何を始めるのかと思えば、奥のほうから古びた茶筒を引っ張り出してくる。


「茶を淹れる」

「今からですか」

「こういう話は、茶があったほうがよい」

「雰囲気で誤魔化そうとしてません?」

「半分はその通りである」

「半分認めるんだな……」


 妙に正直で腹が立つ。


 だが、八様の横顔は先ほどまでよりいくらか静かだった。ふざけているようでいて、完全に誤魔化す気でもないらしい。藤乃は洗い物の手を止め、湯呑みを二つ拭いて座卓へ運んだ。

「じゃあ、ちゃんと聞きます」

「うむ」

「白い子のこと。屋敷のこと。八様のこと」

「欲張りであるな」

「ここで暮らすなら当然でしょう」

 八様は急須に茶葉を入れ、やかんの湯を注ぐ。その手つきは案外慣れていた。料理は壊滅的なくせに茶だけはまともに淹れられるらしい。妙なところで生活力が偏っている。

 湯気が細く立ちのぼり、香ばしい茶の匂いが居間に広がった。

 外では風が強くなってきたのか、木々がざわざわと鳴っている。古い屋敷はそういう音を拾いやすい。屋根裏か壁の中か、どこか遠いところで、みし、と小さく木が軋んだ。

 

八様は湯呑みに茶を注ぎ、自分の前にも藤乃の前にも一つずつ置いた。

「まず、白いのから話そう」

「お願いします」

 藤乃が湯呑みに手を伸ばすと、八様はその前にひょいと人差し指を立てた。


「先にひとつ言うておく」

「何です」

「今夜、もしまたあれが出ても」

「はい」

「絶対に名前を名乗るな」

「それはさっき聞きました」

「妾が呼んでもだ」

「……え?」


 一瞬、意味がわからなかった。


 八様は真顔のまま、淡々と続ける。

「妾の声で呼ばれても、返事をするな。障子の向こうから妾が呼んでも、戸を開けるな。姿が見えても、近づくな」

「どういうことですか」

「あれは真似る」

 湯呑みを持つ手が止まった。

「人の声を?」

「うむ。声も、足音も、気配も。全部そっくりというわけではないが、暗い場所や寝起きだと見分けがつきにくい」

「……ずるい怪異ですね」

「性格も悪い」


 そこで八様は一口茶をすすった。言うだけ言っておいて、自分は平然としているのが腹立たしい。

「だから夜、妾が藤乃を呼ぶことはない」

「絶対に?」

「火事でもない限りは」

「火事のときは呼ぶんですね」

「そのときは鍋も抱えて逃げねばならぬからの」

「鍋優先なんだ……」

 つい突っ込んでしまったが、今はそこではない。


「つまり、夜に呼び声がしても無視しろと」

「そういうことだ」

「わかりました」

 藤乃は素直に頷いた。

 こういうルールは、曖昧なままにしておくのが一番危ない。夜に何かが出る屋敷ならなおさらだ。

「で、白い子は何なんです」

「わからぬ」

「またですか」

「本当にわからぬものは、わからぬ」


 八様は帽子のつばに触れ、少しだけ目を伏せた。

「ただ、昔からこの屋敷にいる」

「八様より前から?」

「……どうだろうな」

 その答え方で、藤乃は眉をひそめた。


「そこ、曖昧になるんですか」

「妾がこの屋敷へ来た時には、すでにおった」

「来た時」

「うむ」

「八様、ここに“住んでいる”んじゃなくて、“来た”んですか」

 八様は黙った。

 その沈黙が、肯定だった。

 藤乃は思わず身を乗り出す。


「待ってください。八様って、この屋敷に最初からいる存在じゃないんですか」

「最初からではない」

「じゃあ何なんです」

「……八尺様である」

「そういうふわっとした肩書きの話じゃなくてですね」

 藤乃が詰め寄ると、八様は露骨に嫌そうな顔をした。だが逃げる代わりに、諦めたように湯呑みを置く。


「昔、この村の外れに祀られておった」

「祀られてた」

「うむ。今みたいな屋敷ではなく、もっと小さい祠のような場所だ」

「神様だったんですか」

「さあな。人が勝手にそう扱っておっただけやもしれぬ」

 さらりと、しかし妙に寂しい言い方だった。


「雨乞いだの、厄除けだの、子の無事だの。そういう願いを持ってくる者が昔は多かった。米や酒や菓子を供えて、手を合わせて帰る」

「それが“供物”」

「うむ」

 八様は少しだけ得意そうに顎を上げた。


「ゆえに、供物は大事である」

「話の流れで聞くとちょっと納得しそうになるのが悔しいな……」

 藤乃は茶をすすりながら先を促す。


「でも、今は祠じゃなくてこの屋敷にいる」

「祠が駄目になったのだ。崩れてな」

「それで?」

「当時の村の者が、今のこの屋敷へ移した」

 八様の視線が、居間の天井をゆっくりと辿る。


「もとは、この屋敷も人の家だった。村で一番大きい家でな。地主だか庄屋だか、そういう類の家系の屋敷だ」

「“だった”ということは、今は違う」

「一家が途絶えた」

「……白い子と関係が?」

「ある」

「やっぱり」

 八様はそこで言葉を切り、湯呑みを指で弄んだ。


 珍しく、言うかどうか迷っている顔だった。藤乃は急かさず待つ。今ここでせっつけば、また「長いから今度でよい」と逃げられかねない。


 しばらくして、八様はぽつりと口を開いた。


「昔、この家で子どもが死んだ」

「……」

「病か、事故か、誰かの手がかかったのか。そこはもう、誰もはっきり知らぬ。知っていても口を閉ざしたのかもしれぬ」

「その子が、白い子?」

「断言はできぬ」

 障子の向こうで風が鳴る。

 まるで、今の話を聞いているようなタイミングだった。藤乃は無意識に肩をすくめた。


「だが、あれが初めて出たのは、そのあとだと聞いた」

「聞いた?」

「妾も見たわけではない。当時の村の古老どもがそう話しておった」

 八様はいつになく淡々としていた。ふざけた調子が抜け、声だけが静かに落ちてくる。


「夜になると、廊下の奥から子どもの足音がする。名前を呼ばれる。返事をした者がいなくなる。最初はただの噂だったが、何人か本当に消えた」

「村の人が?」

「奉公人や、肝試しに入り込んだ若いのや、酔って迷い込んだ馬鹿やら」

「最後のはだいぶ自業自得寄りですね」

「そういう者ほど真っ先に食われる」

 食われる、という言葉に、茶の温度が急に下がった気がした。


「それで、村の人は屋敷を閉じたんですか」

「閉じた。だが完全には捨てられなんだ」

「八様がいるから」

「うむ」

 八様はあっさり頷いた。


「妾を別の場所へ移そうという話も出たらしいが、うまくいかなんだ」

「どうして」

「妾が嫌がった」

「あなたの都合なんですね」

「あと、あれもついてくる」

 藤乃は目を瞬いた。

]

「白い子が?」

「うむ。祠へ戻そうが山へ埋めようが寺へ押しつけようが、気づけばこの屋敷の廊下に立っておる」「嫌すぎるな……」

「ゆえに、ここにまとめて閉じ込めるのが一番ましだ、という結論になった」

 つまりこの屋敷は、八様の住処であると同時に、白い子を村から遠ざけるための檻でもあるわけだ。

 藤乃は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙った。


「八様」

「なんだ」

「それ、だいぶ大事な話ですよね」

「うむ」

「なんで昼間のうちに言わないんです」

「面倒であった」

「この怪異、情報共有の優先順位が終わってるな……」

 八様は悪びれもせず茶をすすった。もう少し申し訳なさを見せてほしい。


「じゃあ、ひとつ確認します」

「うむ」

「八様は、その白い子を追い出せないんですか」

「できぬことはない」

「できるんですか」

「一晩二晩、姿を消させるくらいならな」

「じゃあやってくださいよ」

「面倒である」

「さっきからそればっかりですね!?」

 藤乃が思わず声を上げると、八様は眉ひとつ動かさずに続けた。


「追い払っても、根が残る」

「根?」

「あれはこの屋敷そのものに絡んでおる。廊下、座敷、奥の部屋、庭の井戸、そういう場所に気配を残して、少しずつ戻ってくる」

「……奥の部屋」

「うむ」

 八様の視線が、居間の奥の暗い廊下へ向く。


「あの一番奥、閉じてある部屋があるであろう」

「商店の子が言ってました」

「あそこが、一番濃い」

「何がです」

「あれの気配が」

 藤乃は息を呑んだ。


 閉まった部屋。昼間から何度も話に出てきた場所が、ようやくはっきり輪郭を持った気がした。


「じゃあ、あの部屋をどうにかすれば」

「たぶん無理だの」

「即否定」

「昔、何人もやった。祓おうとした者も、札を貼った者も、部屋ごと焼こうとした者もおった」「焼こうとしたんですか」

「うむ」

「物騒すぎません?」

「村の者も切羽詰まっておったのであろう」


 八様はそう言ってから、少しだけ唇を歪めた。

「だが、何をしても駄目だった。札は朝には破れ、鍵は勝手に開き、火はその部屋だけ避けるように消えた」

「嫌な強さですね」

「まことに」

 しん、と沈黙が落ちる。

 

湯気の薄くなった茶の匂い。遠くで鳴る風。古い屋敷の軋み。さっきまでギャグと恐怖がせめぎ合っていた空気が、今は静かな重さに変わっていた。

 藤乃は、ぽつりと尋ねる。

「……八様は、どうしてここに残ってるんですか」


 八様が顔を上げた。

「白い子を閉じ込めるためなら、村の人たちが見張るとか、寺に頼むとか、やりようはあったでしょう」「なかったわけではあるまい」

「じゃあどうして」

「妾がおるほうが、あれが大人しい」

 即答だった。

 藤乃は目を見開く。


「大人しい?」

「うむ。完全に止まるわけではないが、妾が屋敷におると、あれは村まで下りていきにくい」

「……それって」

「番犬みたいなものだと思えばよい」

「いや、番犬にしてはでかすぎるし、ポンコツなんですが」

「失礼な」

 八様はむっとしたが、否定はしなかった。


「昔はもう少し、まともに恐れられる側であったのだぞ」

「今でも十分怖いですよ、見た目は」

「見た目は、とは何だ」

「中身が炭酸とプリンで構成されてる感じがするので」

「七割ほど事実である」

 認めるな。


 藤乃は頭を抱えたくなったが、同時に少しだけわかってしまった。

 この村が八様を完全に追い出さない理由。怖がりながらも食べ物を持ってきたり、屋敷のことを気にしたりする理由。白い子を村へ下ろさないために、八様という“別の怪異”にここへいてもらう必要があるのだ。

「じゃあ、八様は」

「うむ?」

「村の守り神、みたいなものなんですか」

「買いかぶるな」

 八様は、ふっと笑った。自嘲に近い、薄い笑みだった。


「そんな立派なものではない。ただ、ここにおるのが一番ましなだけだ」

「でも、ひとりでずっと?」

「まあな」

 その返事は軽かった。軽いのに、妙に長い時間の重みが滲んでいた。


 藤乃は、昼間に見た洗濯物の山や、炭酸しか入っていない冷蔵庫や、食後のプリンに目を輝かせる八様の顔を思い出す。だらしなくて、俗っぽくて、残念で、放っておくとたぶん生活が崩壊する怪異だ。

 けれど同時に、こんな古い屋敷で、白い子の気配と一緒に何年も――もしかすると何十年も、ひとりでここにいる存在でもある。

 そう思うと、胸の奥に妙な引っかかりが残った。

「……だから、前の人たちもすぐ辞めたんですね」

「白いのも出るし、妾もおるしの」

「だいぶ最悪の職場ですね」

「否定はせぬ」

 あまりにも素直で、藤乃は少し笑ってしまった。

 八様はそんな藤乃を見て、目を細める。


「おまえは、まだ帰ると言わぬのだな」

「初日で逃げたら悔しいので」

「変なところで意地が強い」

「八様に言われたくないですよ」

 そう返したところで、ふと気づく。

「……あれ」

「なんだ」

「お茶菓子、出てませんね」

「む」


 八様の顔が変わった。


 さっきまでのしんみりした空気が、一瞬で消し飛ぶ。八様はばっと立ち上がり、台所のほうを振り向いた。

「まさか」

「まさかじゃないですよね」

「薄塩が一袋やられた」

「ええ」

「では、残りは」

「冷蔵庫の上です」

「無防備!」

 叫ぶなり、八様は大股で台所へ向かった。帽子が鴨居にぶつかり、ごん、と鈍い音がする。


「痛っ」

「学習しないなこの怪異!」

 藤乃も慌てて立ち上がる。


 冷蔵庫の上に置いてあった菓子袋は、まだ無事だった。だがその横、開け放した小窓の格子に、小さな濡れた手形がべったり残っている。

 白い子が、ついさっきまでそこにいたのだ。

「……器用に持っていきますね」

「窓から盗むなと言うておるのに」

「注意の方向が万引き常習犯に対する店長なんですよ」


 八様は真剣な顔で菓子袋を抱え込み、そのまま居間へ戻ってきた。しかも今度は、自分の座布団の後ろへ隠すように置いている。防犯意識がそこだけ妙に高い。

「今夜はここへ置く」

「守り方が原始的だな」

「藤乃」

「はい」

「もし妾が寝ている間に白いのが来たら、すぐ起こせ」

「わかりました」

「全力で起こせ」

「そこはまあ、そうしますけど」

「供物がかかっておる」

「やっぱり主目的そこなんですね!?」

 叫んだ藤乃の声にかぶさるように、廊下の奥から、くすくす、と子どもの笑い声がした。


 八様がぴたりと動きを止める。

 藤乃も息を潜める。

 暗い廊下の向こうで、白い気配がひとつ、すっと横切った気がした。だが姿は見えない。ただ、湿った足音だけが、ぺた、ぺた、と遠ざかっていく。

 やがてそれも消え、屋敷にはまた風の音だけが残った。

「……今夜、寝られますかね」

藤乃がぽつりと言うと、

「寝る」

八様は即答した。


「いや、さっきまでの話を聞いたあとで?」

「寝不足は美容の敵である」

「怪異にも美容って概念あるんだ……」

 八様は真顔で頷いた。

「大事である。肌のつやに関わる」

「白い子に名前狙われてる状況で、優先順位がそこなのすごいな……」

 だが、その能天気さのおかげで少しだけ肩の力が抜けたのも事実だった。


 怖いものは怖い。屋敷の奥には得体の知れない白い子がいて、閉じた部屋には何かが溜まり、夜には名前を呼ぶ声がする。どう考えてもまともな環境ではない。

 それでも、目の前の八様があまりにも残念すぎて、恐怖だけに飲まれずに済んでいる。

「じゃあ、今夜のルールをもう一回確認します」

藤乃は指を折った。

「夜に呼ばれても返事しない。障子を勝手に開けない。白い子について行かない。八様の声がしても、戸を開けない」

「うむ」

「それから、ポテトチップスは冷蔵庫の上じゃなくて、戸棚の中にしまう」

「大事である」

「そこだけ返事が妙に力強いんですよ」

 藤乃は立ち上がり、残りのお菓子をまとめて戸棚の上段へ移した。椅子に乗って押し込むと、八様が下からそわそわ見上げてくる。


「見えるところに置いておいてはくれぬのか」

「駄目です」

「存在を忘れそうである」

「忘れてください」

「むごい」

 そんなやりとりをしながらも、藤乃は頭の片隅で、さっきの話を反芻していた。


 この屋敷は、白い子を閉じ込める檻。 八様は、その檻の番をする怪異。 そして閉じた部屋には、まだ手をつけてはいけない“何か”がある。

 初日から抱えるには、だいぶ重い話だ。

 けれど――。

「八様」

「なんだ」

「その閉まった部屋、明るいうちに一回見せてください」

「嫌である」

「即答」

「面倒だし、ろくなことにならぬ」

「でも、いずれ確認しないと駄目でしょう」

「駄目でない未来に期待したい」

「現実逃避しないでください」

 八様は本気で嫌そうな顔をしたが、最終的には小さく唸って、そっぽを向いた。


「……明日、昼ならよい」

「ほんとですか」

「ただし、妾も一緒だ」

「もちろんです」

「ひとりで行くなよ」

「行きませんよ」

「絶対にだぞ」

「だから行きませんって」

 念押しの仕方が妙に強い。


 その声音に、藤乃は少しだけ眉をひそめた。

八様はまだ、何かを隠している。白い子のことも、この屋敷のことも、全部を話したわけではないのだろう。

 だが、今は無理にこじ開けないほうがいい気がした。

 外はすっかり夜が深い。古い柱時計がぼうん、と間延びした音で時を打つ。屋敷の空気は冷え、障子の隙間から入り込む風が足元を撫でた。

 白い子は今も、どこかで笑っているかもしれない。

 それでも今夜は、少なくともひとつ前へ進んだ。

 明日、閉じた部屋を見る。 八様と一緒に、この屋敷の奥へ踏み込む。

 そう決めた途端、じわじわと現実味が湧いてきて、少しだけ胃が重くなる。


「……やっぱり今から帰るって言ったら駄目ですかね」

半分冗談で言うと、


「駄目である」

八様は座布団の後ろに隠した菓子袋を抱え込みながら、きっぱり言った。




「おまえが帰ると、明日の朝飯がなくなる」

「理由が最低だな!」

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