その五
白い指先は、障子の縁をなぞるように、するりと下へ滑った。
ぺた、ぺた。
次の瞬間、障子が、すう、と横に開く。
そこに立っていたのは、子どもだった。
七つか八つほどに見える、小さな女の子。白い着物のようなものを着て、長い黒髪を胸元まで垂らしている。肌は月の光みたいに青白く、裸足の足先は濡れたようにてらてらしていた。
顔立ちは整っている。だが、整いすぎていて逆に人形じみて見えた。
何よりおかしいのは、その目だ。
黒目がやけに大きい。白目との境目が曖昧で、薄暗い廊下の中で、そこだけがぬらりと光っているように見える。
女の子は廊下の暗がりに立ったまま、じっと藤乃を見ていた。
瞬きもしない。
呼吸もしていないように見える。
藤乃は思わず息を詰めた。昼間に見た影より、ずっとはっきりとした“異様さ”がそこにある。怖い。普通に怖い。八様の寝間着の袖から羊羹が出てきた話とは全く別のベクトルで怖い。
女の子の唇が、ゆっくりと開いた。
「――おまえ、なまえは」
ひどく幼い声だった。
高くて、柔らかい。どこにでもいる子どもの声に近いのに、抑揚だけが妙に乏しい。まるで誰かの真似をしているみたいな、不自然な響きだった。
藤乃の背筋に、冷たいものが走る。
村で聞いた話が脳裏をよぎった。
名前を聞かれても、答えるな。
つい反射で口を開きかけたところへ、すぱん、と乾いた音が響いた。
「駄目である」
八様が、どこから持ってきたのか長い柄杓で白い子の額をはたいたのだ。
べしっ、という実に生活感のある音がした。
緊迫感が一瞬で死んだ。
「痛ぁい」
白い子が額を押さえてしゃがみ込む。声に抑揚が戻った。さっきまでの不気味さが嘘みたいに、普通に痛がっている。
藤乃は思わず八様を見た。
「何してるんですか」
「何って、止めた」
「止め方が雑なんですよ」
「これが一番早い」
「躾の行き届いてない猫じゃないんですから」
八様は柄杓を杖みたいに床へ突き、しゃがみ込んだ白い子を見下ろした。
「勝手に出てくるなと言うたであろう」
「だって、新しいのがいた」
「“新しいの”ではない。藤乃である」
「名前言ってるじゃないですか!」
「しまった」
しまった、ではない。
白い子が、額を押さえたままぴたりと動きを止めた。ゆっくりと顔を上げる。黒目がちの目が、すうっと藤乃に向く。
「ふじの」
幼い舌で転がすように、その名前を繰り返す。
「ふじの、ふじの、ふじの」
「八様」
「うむ」
「最悪のやらかししてません?」
「うむ……」
「“うむ”じゃないんですよ」
八様は明らかに気まずそうに視線を逸らした。柄杓を持つ手が、わずかに泳いでいる。どうやら本気でうっかりしたらしい。締まらなすぎる。
白い子は立ち上がった。
小さな裸足が一歩、板の間へ踏み出される。ぺたり、と湿った音がした。よく見ると、その足跡はうっすら水気を含んでいる。なのに、廊下も着物の裾も濡れていない。そこだけが妙に現実離れしていた。
「ふじの」
もう一歩。
「おまえ、ふじの」
「違います」
反射で藤乃は答えた。
「いや藤乃であるが」
「今は違います! 空気を読んでください!」
八様が「なるほど」とでも言いたげに頷いた。納得する前に協力してほしい。
白い子は首をかしげる。髪がさらりと頬を滑った。
「ふじの、ちがう?」
「違います」
「では、なんだ」
「……通りすがりの買い物帰りです」
「屋敷の中だぞ」
「わかってますよ!」
白い子はじっと藤乃を見つめている。瞬きはやはりない。その目が、獲物を観察する獣みたいに、ゆっくりと藤乃の顔から肩、手元へ移っていった。
次に視線が止まったのは、流し台の脇に置かれたレジ袋だった。
ポテトチップスの袋が、ちょうど一番上に見えている。
白い子の目が、すっと細くなる。
「あ」 藤乃は嫌な予感がした。
「それ、妾の供物である」 八様が低く言う。
だが遅かった。
白い子はぺたん、と床を蹴るようにして、ありえない速さで台所へ飛び込んだ。小柄な身体が、白い残像みたいにぶれる。次の瞬間にはレジ袋をひったくり、ポテトチップスだけを抱えて廊下へ引き返していた。
「おい待て」
「泥棒じゃないですか!」
「だから言うたであろう、人の物に触ると!」
そんな説明では足りない。
白い子は廊下の真ん中でぴたりと止まり、ポテトチップスの袋を胸に抱えたまま振り返った。無表情だった顔に、ほんの少しだけ笑みに似たものが浮かぶ。
「ふじの」
「だから違いますって」
「ふじの、あそぼ」
「嫌です」
「即答」
「当たり前でしょう」
白い子は不満そうに首を傾げた。
「おまえ、こない?」
「行きません」
「なんで」
「なんでって……」
行き先がわからない怪異についていく人間がどこにいる。
そう言い返そうとした、そのとき。
白い子の口元が、ゆっくり吊り上がった。
「こないと、よるにむかえにいく」
ぞわり、と背中が粟立つ。
声は相変わらず幼い。むしろ甘えるみたいに柔らかかった。なのに、その言葉だけが妙に冷たく、湿って、耳の奥に残る。
今までの「ポテトチップス泥棒」という残念な印象が、一瞬で剥がれ落ちた。
藤乃が言葉を失う横で、八様が前へ出る。
長い白い腕がすっと伸び、藤乃を半歩後ろへ押しやった。
「やめよ」
低い声だった。
今までで一番、怪異らしい声だった。
「それ以上は許さぬ」
「はっしゃくさま」
「返せ」
「やだ」
「返せ」
「やだ」
完全に子どもの喧嘩みたいな応酬なのに、空気だけは笑えないほど張りつめていた。
白い子はポテトチップスを抱きしめたまま、じり、と後ろへ下がる。八様も一歩前へ出る。広い帽子の影が、廊下の床に黒く落ちた。
「おまえ、またよそから連れていく気か」
八様が言う。
「だって、さみしい」
「妾の知ったことではない」
「はっしゃくさまも、ずっとひとり」
「だから何だ」
「じゃあ、ひとりがふたりになればよい」
その言葉に、八様の顔から表情が消えた。
藤乃ははっとする。
さっきまでなら、ただの怪談めいたやりとりとして流せたかもしれない。
だが今のは違う。
白い子は明らかに、八様の何かを知っている口ぶりだった。
八様は数秒、黙ったまま白い子を見下ろしていた。
やがて、ぽつりと吐き捨てる。
「妾とおまえを一緒にするな」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
びし、とどこかで戸が鳴る。風もないのに障子がわずかに震え、台所の蛍光灯が一度だけ明滅した。白い子の髪がふわりと浮き、廊下の奥の闇が濃くなる。
八様の足元から、じわじわと黒い影が広がっていく。
いや、影ではない。砂だ。
細かく乾いた黒い砂が、畳と板の隙間から染み出すみたいに現れ、するすると八様の周囲へ集まっていく。見覚えのある、乾いた土の匂い。昼間、門の前で感じたのと同じ匂いだった。
「……うわ」
藤乃は素で引いた。
「八様、それ何ですか」
「今ちょっと黙っておれ」
「そんな新情報を急に出されて黙れるわけないでしょう」
白い子も、さすがに怯んだらしい。ポテトチップスを抱えたまま、じりじりと後退る。
「はっしゃくさま、ずるい」
「うるさい。返して寝ろ」
「いや」
「菓子を抱えて寝るな」
「じゃあ、ひとくち」
「駄目である」
何なんだこの会話は。
怪異同士の対峙にしては生活臭が強すぎる。だが、白い子はしばらく八様と睨み合ったあと、ふいに藤乃へ視線を戻した。
「ふじの」
また、その名を呼ぶ。
「こんどは、ちゃんとくる?」
「行きません」
「じゃあ、またきく」
「聞かないでください」
白い子は答えず、くすりと笑った。
今度の笑い方は、子どもらしい無邪気さより、ずっと古くて薄気味悪いものに見えた。
「つぎは、へんじしてね」
そう囁いたかと思うと、白い子の身体がふっと薄くなる。霧がほどけるみたいに輪郭がぼやけ、次の瞬間にはもう、廊下の奥の闇に溶けていた。
ぺた、ぺた、という足音だけが、遠ざかっていく。
最後に、ぱり、とポテトチップスの袋を開ける音がした。
「開けた!」
藤乃が叫ぶ。
「開けおったな……」八様が低く唸る。
「そこですか!?」
緊張の糸が、見事な勢いで切れた。
八様は廊下の奥を睨んだまま、悔しそうに唇を噛んでいる。どう見ても“得体の知れない怪異に目をつけられた”ことより、“ポテトチップスを奪われた”ことのほうにダメージを受けていた。
「八様」
「なんだ」
「確認なんですけど」
「うむ」
「今の、普通に危ないやつですよね?」
「うむ」
「でも一番ショックなの、ポテトチップス盗られたことですよね?」
「……供物であるからな」
「否定しないんだなあ」
藤乃は額を押さえた。頭が痛い。
怖い。今のは確かに怖かった。名前を呼ぶ声も、迎えにいくという囁きも、ぞっとするほど気味が悪かった。あれが夜ごと屋敷をうろついているのだと思うと、背筋が寒くなる。
なのに、隣にいる怪異がポテトチップスを惜しんでいるせいで、恐怖の純度が保てない。
「……あれ、いつもああなんですか」
「いつもではない」
「じゃあ今日は何なんです」
「新しい者がおるから、機嫌がよいのだろう」
「嬉しくない歓迎ですね」
「まことに遺憾である」
八様は柄杓を壁に立てかけ、どっと疲れたように肩を落とした。さっきまで足元に集まっていた黒い砂は、もう跡形もなく消えている。畳の上には何も残っていない。
藤乃はその足元を見つめた。
「……さっきの砂、何ですか」
「砂である」
「見ればわかります」
「妾の力みたいなものだ」
「みたいなもの」
「そういうふわっとした理解でよい」
「よくないですよ」
藤乃はきっぱり言った。
「今後この屋敷で暮らすなら、危ないことは全部把握しておきたいんです。白い子のことも、あの閉まった部屋のことも、八様のその砂も」
「……」
「話してください。今すぐ全部、とは言いません。でも、少しずつでも」
八様は黙り込んだ。
帽子のつばの下で表情は読みにくい。ただ、いつもの面倒くさがりの顔とは少し違った。何かを測るみたいに、静かに藤乃を見ている。
やがて、小さく息を吐く。
「……茶を淹れよう」
「話を逸らしましたね?」
「今のは長くなる」
「そういう前置きで本当に長い話を始める人、だいたい重要なこと隠してるんですよ」
「うるさいのう」
だが、完全に拒絶する声音ではなかった。
八様は台所の棚を開け、珍しく自分から急須を取り出した。危なっかしい手つきで湯呑みを並べる姿は、さっきまで黒い砂を纏っていた怪異と同一人物――いや同一怪異とは思えないほど生活感にあふれている。
そのギャップに、藤乃は深くため息をついた。
「とりあえず」
「うむ」
「ポテトチップス、もう一袋買っておいて正解でしたね」「なんと」
「薄塩、二袋あります」
「藤乃」
「はい」
「おまえ、よい女だの」
「現金ですねえ」
怖い話の直後だというのに、八様はあっさり機嫌を直した。
その単純さに呆れながら、藤乃は流しに残った皿を洗い始める。背中越しに感じる屋敷の気配は、まだどこか落ち着かない。廊下の奥から、誰かがこちらを見ているような感覚も消えてはいない。
それでも今夜は、少なくともひとつだけはっきりした。
この屋敷にいるのは、八様だけではない。 白い子は本当にいて、藤乃の名前を知った。 そして八様は、あれをただ放置しているわけではない。
――なら、聞かなければならない。
どうして八様は、あの白い子を屋敷から追い出さないのか。 どうして村の人間は、八様を恐れながら、それでも完全には見捨てていないのか。 この屋敷で、いったい何が起きているのか。
湯が沸く音が、しんとした居間に広がる。
その音に紛れるようにして、廊下のずっと奥から、くすくすと子どもの笑い声がひとつだけ聞こえた。




