その四
門をくぐった途端、八様は買い物袋を覗き込んできた。
「ぷりん」
「最初に確認するの、そこなんですね」
「大事である」
「米も卵も肉も、同じくらい大事です」
「妾にとっては、ぷりんのほうが少し上だ」
「胸を張って言うことじゃないですよ」
八様は帽子のつばを押さえながら、藤乃の手元をじっと見つめている。
背が高いぶん、上から覗き込まれる圧がすごい。
まるで大型犬におやつの袋を見張られている気分だった。見た目は怪異そのものだが、中身は完全に食い意地の張った居候である。
「とりあえず中に入ります。重いので」
「うむ。妾が持とう」
「えっ」
「……ぷりんの入った袋だけ」
「そこだけかい」
結局、日用品や米の入った重い袋は藤乃が持ち、八様は桃味の炭酸とプリン二つが入った軽い袋だけを抱えて屋敷へ上がった。しかも持ち方が妙に大事そうで腹立たしい。
居間に戻ると、藤乃はすぐに腕まくりをした。
「まず台所を使える状態にします」
「今からか」
「今からです。夕飯作るんでしょう」
「供物を先に」
「夕飯を先に」
「供物」
「夕飯」
「……供物を夕飯に組み込めぬか?」
「お菓子は食後です」
ぴしゃりと言うと、八様は心底つらそうな顔をした。そんな顔をされても困る。
「じゃあ、八様はそこに座っててください」
「手伝わぬのか」
「手伝えるんですか」
「……応援なら」
「座っててください」
戦力外通告を受けた八様は不満げに唇を尖らせたが、素直に座卓の前に座り込んだ。猫の抱き枕を抱え込み、じっとこちらを見ている。視線だけはやたらある。
藤乃はまず冷蔵庫の中身を全部出し、使えそうなものと駄目なものを仕分けした。
しなびた長ねぎ、開封済みのハム、やたら大量の漬物、チューブのしょうが、賞味期限が危うい豆腐半丁。鍋の中の正体不明の煮物は、見なかったことにしたい気持ちを抑えて中身を確認した結果、どうやら大根と油揚げの煮物らしいと判明した。
「これ、八様が作ったんですか」
「うむ」
「意外とちゃんとしたものを」
「村の者がくれたのを温め直した」
「でしょうね」
賞味期限切れ寸前の食材と、今日買ってきた卵と鶏肉と野菜を並べながら、藤乃は頭の中で献立を組み立てる。米は炊くとして、味噌汁。鶏肉は照り焼きにでもすればいい。余った野菜は簡単に炒め物に回せる。
住み込みの家政婦でもないのに、初日から冷蔵庫の棚を拭いて献立を考えている自分に、少しだけ遠い目になった。
「八様」
「なんだ」
「味噌あります?」
「たぶんある」
「その“たぶん”やめましょうか」
「台所のどこかにあった気がする」
「気がするで済む話じゃないんですよ」
案の定、味噌は冷蔵庫ではなく戸棚の一番上から出てきた。しかも未開封のものが二つ。代わりに、開封済みの味噌は流しの下から発見された。
「なんでこんなところに」
「隠したのかもしれぬ」
「誰が」
「妾が」
「なんのために」
「……覚えておらぬ」
「でしょうね」
藤乃はもう驚くのをやめた。
米を研いで炊飯器にセットし、味噌汁用の鍋に水を張る。玉ねぎを切り、豆腐をさいの目にし、鶏肉に軽く塩を振る。包丁の音が台所に小気味よく響き始めると、屋敷の中の湿った空気が少しだけ“家”らしくなった気がした。
その変化が珍しいのか、八様は抱き枕を抱えたまま、のそりと台所の入り口までやってきた。
「藤乃」
「はい」
「よい匂いがする」
「まだ玉ねぎ炒めてるだけですよ」
「よい匂いである」
「鼻はちゃんと利くんですね」
「菓子の気配には敏いぞ」
「知ってます」
八様はそこで、鍋の中を覗き込もうとして帽子のつばを換気扇にぶつけた。
ごっ、と鈍い音がする。
「痛っ」
「ほらもう危ないから下がってください」
「今、痛っ、と言うたか?」
「言いましたね」
「怪異も痛いときは痛い」
「それを真顔で主張されても困るんですよ」
八様は不服そうに帽子を押さえながら、しかし素直に一歩下がった。
代わりに今度は冷蔵庫の前にしゃがみ込み、藤乃が仕分けていた菓子袋を勝手に漁り始める。
「八様」
「見ているだけである」
「ポテトチップスを開けようとしてる手つきでそれ言います?」
「まだ開けておらぬ」
「“まだ”の時点で有罪です」
藤乃は木べらを持ったまま振り返り、じろりと睨んだ。
「夕飯の前に食べたら、プリンは没収です」
「横暴」
「統治です」
「暴君ではないか」
「生活能力ゼロの怪異を管理するにはこれくらい必要なんですよ」
ぶつぶつ言いながらも、八様はしぶしぶ菓子袋を冷蔵庫の上へ戻した。
だがその視線は完全に未練たらたらである。
鶏肉を焼き始めたところで、藤乃は何気ないふうを装って口を開いた。
「そういえば、村の商店で聞いたんですけど」
「うむ?」
「この屋敷、八様だけじゃないらしいですね」
「……」
途端に、八様の動きが止まった。
菓子袋を見つめていた目が、すっと藤乃へ向く。帽子の影の奥で、暗い瞳が細くなった。
「誰が言うた」
「商店のおばさんが、ぽろっと」
「ぽろっと言うような話ではないのう」
「あと修一くん」
「あやつか」
八様は露骨に嫌そうな顔をした。
「塀によじ登ってくるので嫌いである」
「村の悪ガキに対する文句が俗っぽいな……」
藤乃は鶏肉をひっくり返しながら続ける。
「白い子がいるって聞きました。名前を聞かれても答えるな、とか」
「……余計なことを」
「やっぱりいるんですね」
「おる」
あっさり認めたので、藤乃は少し面食らった。
「そこは否定しないんですか」
「見られておるなら否定しても仕方なかろう」
八様は居間の方へ視線を流し、ぽつりと続けた。
「たまに出る」
「たまに」
「出る」
「ふわっとした説明ですね」
「小さい。白い。じっと見る。勝手に人の物に触る。以上」
「だいぶ迷惑な隣人みたいな扱いだな」
だが、藤乃はそこで手を止めた。
「“人の物に触る”って、さっき廊下で言ってたやつですか」
「うむ」
「何を触るんです」
「菓子」
「菓子なのか……」
もっとこう、呪具とか、祀り物とか、そういう不穏な単語が出てくるかと思ったのに、またお菓子である。ホラーの格が下がるのでやめてほしい。
しかし八様の顔は、妙に真面目だった。
「妾の供物に手を出す」
「それ、八様の私物ってだけでは?」
「供物は供物である」
「便利な言い換えですね」
鶏肉にたれを絡め、味噌汁の味を整えながら、藤乃は少し考えた。
「その白い子って、何なんですか」
「知らぬ」
「またそれですか」
「本当に知らぬ。気づいたらおった」
「いつから」
「ずいぶん前から」
「どれくらい」
「忘れた」
話にならない。
藤乃はため息をつき、炒めた野菜を皿へ移した。
「危ないものなんですか」
「場合による」
「その“場合”を詳しく」
「機嫌がよければ、ただうろうろしておるだけだ」
「悪いと?」
「名前を聞く」
ぴたり、と木べらを持つ手が止まる。
八様の声は低くも不気味でもなく、いつも通りの、どこか気の抜けた調子だった。だからこそ、その内容だけが妙に浮いた。
「名前を聞かれて、答えると?」
「連れていかれる」
「どこに」
「知らぬ」
「知らぬばっかりですね」
「だが、戻ってきたのを見たことはない」
台所の空気が、ほんの少し冷えた気がした。
藤乃は木べらを置き、振り返る。
八様は居間と台所の境目に立ったまま、こちらを見ていた。障子越しの夕闇が背後に沈み、薄い紙の向こうで風がかすかに鳴っている。帽子の影が顔の上半分を覆い、その下の口元だけがぼんやり白い。
「……それを先に言ってくださいよ」
「聞かれなかったゆえ」
「聞きますよ、普通」
「普通の範囲が広いのう、藤乃は」
いつものように気の抜けた調子で返されて、藤乃は脱力した。
怖がらせるなら怖がらせるで、もっとこう、順序というものがあるだろう。
「じゃあ、今後のルールを決めます」
「ルール?」
「白い子を見かけたら、無視。名前を聞かれても答えない。ついて行かない。物を取られても追いかけない」
「よい心がけである」
「他人事みたいに言わないでください」
「妾はついて行かぬし」
「八様もお菓子を奪われたからって追いかけないでくださいね」
「それは状況による」
「駄目です」
そこへ、ぐううう、と妙に存在感のある音が響いた。
藤乃が目を瞬かせると、八様が気まずそうに顔を逸らす。
「……腹が減った」
「でしょうね」
「よい匂いを嗅がされ続けたせいで、供物のことしか考えられぬ」
「供物じゃなくて夕飯を食べてください」
ちょうど、味噌汁も鶏肉も仕上がったところだった。
藤乃は食卓に皿を並べる。鶏の照り焼き、玉ねぎと豆腐の味噌汁、簡単な野菜炒め、漬物、それから炊きたての白いご飯。派手ではないが、少なくとも“炭酸と菓子で生きる怪異”に食べさせるには十分まともな献立だ。
「うわ」
八様が素で声を漏らした。
「何ですか」
「ちゃんとした飯だ」
「ちゃんとした飯です」
「屋敷にこういうものが並ぶの、久しぶりである」
「そんなにですか」
「最後に見たの、いつだったかのう……」
「思ったより重い話が出たな」
八様は座卓の前に正座し、しばらく料理を見つめていた。普段のだらしなさが嘘みたいに大人しい。
やがて、おそるおそるといった手つきで箸を持ち、照り焼きをひと口食べる。
数秒、沈黙。
それから八様は、ぱっと顔を上げた。
「うまい」
「それはどうも」
「うまいぞ、藤乃」
「よかったですね」
「うまい」
語彙が死んだ。
だがその言い方があまりにも素直で、藤乃は少しだけ肩の力を抜いた。怪異相手に料理を褒められて安心する日が来るとは思わなかったが、まあ悪い気はしない。
「野菜も食べてくださいよ」
「うむ」
「漬物だけに逃げない」
「見張りが厳しいのう」
「健康管理も仕事のうちです」
八様はぶつぶつ言いながらも、意外ときちんと箸を進めた。照り焼きを食べ、ご飯を食べ、味噌汁をすすり、野菜炒めにもしぶしぶ手を伸ばす。さっきまでお菓子だプリンだと騒いでいたわりに、まともな食事が嫌いなわけではないらしい。
「……もっと早く来ればよかったですね、私」 ぽろりと、そんな言葉が口をついた。
八様が箸を止める。
「何がだ」
「いえ。ここまで生活が荒れてるなら、もう少し前から誰か入っててもよかったんじゃないかと思って」
「来たことはある」
「前任が?」
「うむ」
「すぐ辞めたんですか」
「三日で泣いて帰った」
「何があったんです」
「妾を怖がった」
「まあ見た目は怖いですからね」
「あと、夜に白いのを見た」
「……なるほど」
そりゃ辞める。
藤乃はご飯をよそいながら、内心で前任者に同情した。普通の人間なら、ポンコツ怪異の生活立て直しだけでも十分荷が重いのに、夜には得体の知れない白い子まで出るのだ。泣いて帰るのも無理はない。
「藤乃は怖くないのか」
不意に、八様がそんなことを聞いた。
「何がです」
「妾も、あれも」
少しだけ、意外だった。
八様がそんなことを気にするとは思っていなかった。もっとこう、自分は怖くて当然、という顔をしているものだと思っていたのだ。
藤乃は湯呑みにお茶を注ぎながら、少し考える。
「怖いか怖くないかで言えば、そりゃ怖いですよ」
「ほう」
「見た目は普通に怖いですし。夜中にいきなり立ってたら悲鳴くらいは出ると思います」
「うむ」
「でも、今のところ“怖い”より“放っておけない”が勝ってるんですよね」
「……放っておけない?」
「財布を寝間着の袖に入れて、炭酸と漬物とお菓子で生きてる怪異なんて、目を離したらそのうち本当に干からびそうじゃないですか」
「そこまでではない」
「風呂場に洗濯物の山を築いてた時点で説得力ゼロです」
八様はむっとしたように眉を寄せたが、反論はしなかった。たぶん思い当たる節しかないのだろう。
食事が終わるころには、外はすっかり暗くなっていた。
障子の向こうに滲む夕闇は、山の村特有の早さで濃くなる。風が少し強くなったのか、どこかの戸板がかた、かた、と鳴った。薄い障子紙がそのたびに、かすかに震える。
藤乃が食器を流しへ運び、八様が珍しく自分から湯呑みを持って立ち上がった、そのときだった。
廊下の奥から。
ぺた、ぺた、と。
裸足が板張りを歩くような、湿った足音が聞こえた。
藤乃の手が止まる。
八様も、ぴたりと動きを止めた。
昼間に聞いたのと同じ音だ。けれど、今度はもっと近い。廊下の曲がり角ひとつ隔てた向こうに、何かが立っているような距離だった。障子の向こうの暗がりが、ひとつぶんだけ濃く沈んだ気がする。
ぺた。ぺた。
音は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
藤乃はそっと流し台の端に皿を置いた。視線だけで八様を見ると、八様は無言のまま、居間の奥――昼間に見たあの暗い廊下の方を睨んでいる。
その横顔から、さっきまでの食後の満足げな緩さが消えていた。
「……八様」 小声で呼ぶ。
「喋るな」 返ってきた声は低かった。
ぺた、ぺた。
足音が、廊下の角で止まる。
障子の向こう、細く開いた隙間に、白い指先がひとつ、すっとかかった。紙一枚隔てた向こう側で、何かがそこにいる。気配だけで、空気が薄くなる。
次の瞬間、障子の向こうに、小さな白い影が、すうっと立ち上がった。




