その三
結局、財布は寝間着の袖から出てきた。
「本当に入ってた……」
「言ったであろう」
「誇るところじゃないんですよ」
しかも出てきたのは財布だけではなかった。くしゃくしゃになったレシート二枚、飴玉、ヘアゴム、なぜか小袋の塩、それから食べかけらしい個包装の羊羹まで一緒に転がり落ちてきた。
「袖が四次元ポケットか何かですか」
「便利であろう」
「管理能力の低さを収納力で誤魔化さないでください」
財布の中身を確認すると、現金は思っていたより入っていた。札も小銭もそれなりにある。少なくとも今日の買い出しには困らなさそうだ。
藤乃は財布を自分の鞄に入れ、メモ帳を取り出した。
「じゃあ行ってきます。買うもの、もう一回確認しますよ」
「うむ」
座卓の前に正座した八様は、なぜか妙に姿勢がよかった。さっきまでしょんぼりしていたくせに、供物の話になると目がきらきらしている。怖い顔でやるな、と藤乃は思った。
「米、卵、豆腐、鶏肉、野菜、洗剤、ゴミ袋、トイレットペーパー」
「ぽてとちっぷす」
「あとで」
「炭酸」
「あとで」
「かっぱえびせん」
「あとで」
「ちょこれいと」
「発音が腹立つな……」
藤乃はメモ帳の端に小さく「菓子類」とだけ書いた。個別に全部記録していたらきりがない。
「あと、聞いておきますけど」
「なんだ」
「屋敷にひとりで置いておいて大丈夫なんですか、八様」「どういう意味でだ」
「私が戻るまでに家がさらに荒れないかって意味です」
「失礼な。妾を何だと思っておる」
「目を離すと増殖するタイプの散らかし魔」
「心外である」
そう言いながら、八様はすでに座卓の上の煎餅の袋を探し始めていた。
ついさっき「供物が尽きた」と騒いでいたくせに、居間の隅から予備のせんべいを発掘したらしい。やはり信用ならない。
「ひとつだけ約束してください」
「うむ?」
「私が戻るまで、屋敷の中で余計なものを増やさないこと」
「余計なものとは」
「洗濯物の山とか、食器の山とか、怪しい何かとか」
「最後だけ雑ではないか?」
「雑にしか言えない状況にしたのはそっちです」
八様は少し考えたあと、こくりと頷いた。
「では妾も約束を求める」
「何です」
「ぷりんは三つ買うてきてほしい」
「二つです」
「三つ」
「二つ」
「……では二つ半」
「どうやって買うんですか」
「世の中には大きいぷりんもある」
「交渉の方向がおかしいな……」
結局、プリンは二つ、ポテトチップスは薄塩、炭酸は桃味、かっぱえびせんは大袋ということで妥協が成立した。八様は不満げだったが、これ以上譲歩すると本当に菓子しか買わされなくなりそうだったので、藤乃は心を鬼にした。
玄関で靴を履きながら振り返ると、八様は廊下の奥からじっとこちらを見ていた。
白いワンピースに大きな帽子。昼間の薄明るさの中でも、やはりその姿は異様だった。これで黙って立っていれば、普通に怖い。というかかなり怖い。
「何ですか」
「……早う戻れ」
「おやつを人質にされてるみたいな言い方やめてください」
「違う」
「じゃあ何です」
「財布を持ったまま逃げるやもしれぬと思うと、少し不安になった」
「信用ゼロですね」
「妾の金であるぞ」
「ちゃんと買ってきますよ」
そう言うと、八様は「うむ」とだけ答えた。だが、その声は妙に小さかった。
少しだけ、本当に少しだけ、留守番を嫌がる子どものようにも見えたが、藤乃は気づかなかったことにした。気づくと面倒が増えそうだったからだ。
屋敷を出て坂を下る。
昼間だというのに、村の空気はやはり薄暗い。山に囲まれて日が差し込みにくいせいもあるのだろうが、それだけではない気がした。家々の軒先には古びたしめ縄や御札のようなものが下がっていて、どの家の前にも小さな盛り塩が置かれている。村の入口で感じた“関わりたくない”という空気は、ここへ来てさらに濃くなった。
道の途中で、畑仕事をしていた老婆とすれ違った。
老婆は鍬を持ったまま顔を上げ、藤乃を見る。視線が、藤乃の手にした買い物メモに移り、それから彼女が下りてきた屋敷の方角をちらりと見た。
「……あんた、あの屋敷から来たのかい」
「ええ。今日からお世話係で入ることになりまして」
藤乃がそう言うと、老婆の顔色が目に見えて変わった。
ぎょっとしたような、気の毒そうな、なんとも言えない表情だ。
「お世話係……?」
「はい」
「ほんに……よう引き受けたねえ」
第一声がそれだった。
藤乃は苦笑する。
「皆さん同じ反応をしますね」
「そりゃするさ。あそこは――」
老婆はそこで口をつぐんだ。何かを言いかけて、飲み込んだ顔だった。代わりに、胸元にぶら下げた数珠をぎゅっと握りしめる。
「……日が暮れる前に戻りな」
「善処します」
「善処じゃなくて、戻るんだよ」
妙に強い口調だった。
それだけ言うと、老婆は鍬を抱えてそそくさと畑の奥へ引っ込んでしまった。まるで、それ以上屋敷の話をしたくないように。
「日が暮れる前に、か」
藤乃はひとりごちた。
脅し文句としてはわかりやすい。ホラーのお約束というやつだ。
だが、あの老婆の顔には、脅かしてやろうという意地の悪さより、本気の怯えが滲んでいた。
村の商店は、郵便局の隣にある小さな店だった。
看板には『よろず みねた商店』とある。食料品と日用品と雑貨をまとめて扱っているらしく、入口の脇には野菜の箱、店先には洗剤やトイレットペーパーが積まれていた。自動ドアではなく、がらりと横に開ける引き戸だ。
藤乃が中へ入ると、からん、と鈴が鳴った。
「いらっしゃ……あら」
レジの奥から顔を出したのは、五十代くらいの女性だった。丸顔で愛想のよさそうな人だが、藤乃を見るなり一瞬だけ表情が固まる。その目が、藤乃の背後を確かめるように揺れた。
「もしかして、あの屋敷に入った人?」
「今日からお世話係になりました」
「まあ……」
店主らしい女性は、気の毒そうな顔と、どこか興味津々な顔を半々にした複雑な表情になった。
「大変でしょう」
「初日から買い出しに来ています」
「ああ、やっぱり」
「“やっぱり”なんですか」
「八尺様、昔からそうなのよ。お菓子が切れるとすぐ機嫌が悪くなるから」
そんなことまで村に知れ渡っているのか。
藤乃はかごを取りながら、思わず眉を上げた。
「ずいぶん親しまれてますね」
「親しまれてるかどうかはさておき、目立つからねえ」
「でしょうね」
店の奥から、小さな笑い声が聞こえた。
振り向くと、小学生くらいの男の子が、菓子コーナーの陰からこちらを覗いている。坊主頭に日に焼けた顔。だが目だけが妙に好奇心に満ちていて、いかにもろくでもないことを言い出しそうな顔だった。
「ねえねえ、八尺様ってほんとにいるの?」
「いるよ」
「でかい?」
「でかいですね」
「人食う?」
「今のところプリンとポテトチップスの話しかしてません」
「なにそれ」
男の子はけらけら笑った。店主の女性が「こら、修一」とたしなめるが、本人は全く堪えていない。
「八尺様、夜になると窓から見るんだよ」
「そうなの?」
「うん。おれ、見たことある。白くてでっかくて、ぽぽぽって言うの」
「へえ」
「でもこの前、縁側でアイス食べてた」
「情緒が忙しいな……」
修一と呼ばれた少年は、ますます面白がった顔になった。
「ねえ、お姉さん。あの屋敷の奥、入った?」
「奥?」
「長い廊下の先の、閉まってる部屋。あそこ、夜になると子どもの声がするんだって」
「修一」 店主の声が、さっきより低くなった。
ぴたりと、店の空気が止まる。
修一は「あ」と小さく口を開け、ばつが悪そうに視線を逸らした。店主は愛想笑いを浮かべているが、目だけが笑っていない。
「ごめんなさいね。この子、変な話ばっかり集めてきて」「いえ」
藤乃は米の袋を持ち上げながら、何気ないふうを装って訊いた。
「その“閉まってる部屋”って、何かあるんですか」
「何もありませんよ」
店主はあっさり答えた。あまりにもあっさりしていて、逆に不自然なくらいだった。
「古い屋敷だから、変な音くらいはするでしょうけどね。ほら、山の木が鳴いたり、家鳴りがしたり」
「そういうものですか」
「そういうものです」
会話はそこで打ち切り、という意思表示がはっきり見えた。
藤乃はそれ以上追及せず、黙って買い物を続けた。米、卵、豆腐、鶏肉、ねぎ、人参、じゃがいも、洗剤、スポンジ、ゴミ袋、トイレットペーパー。最後に、八様用の菓子を棚から選ぶ。ポテトチップス、かっぱえびせん、大袋のチョコレート菓子、プリン二つ、桃味の炭酸。
気づけば、かごはかなり重くなっていた。
「結構な量ですねえ」 会計をしながら店主が言う。
「ええ。屋敷の立て直しも兼ねてるので」
「……立て直し」
「冷蔵庫が炭酸と漬物とプリンの容器しかなくて」
「ああ……」
「洗濯物も積み上がってました」
「そう……」
店主は遠い目をした。たぶん、何となく察したのだろう。
「藤乃さん、でしたっけ」
「はい」
「もし何かあったら、暗くなる前にここへ来なさいね。うちは夜は早く閉めるけど、戸を叩いてくれれば開けるから」
「親切にどうも」
「親切というか……」
店主はそこで言葉を切り、少しだけ声を落とした。
「あの屋敷は、八尺様だけじゃないから」
思わず、藤乃は顔を上げた。
だが店主はもう、いつもの愛想のいい顔に戻っていた。合計金額を告げ、袋詰めを始める手つきも手慣れたものだ。今の一言だけが、そこに異物のように残っている。
「……それ、どういう意味です?」
「修一、表の野菜箱、しまってきて」
「えー、今?」
「いいから」
完全に話を逸らされた。
修一は不満そうに頬を膨らませながらも外へ出ていく。店主はその背中を見送り、それから藤乃に袋を差し出した。
「重いから気をつけてね」
「ありがとうございます」
これ以上ここで粘っても、答えは出ないだろう。
藤乃は袋を受け取り、店を出た。午後の日差しは少し傾き始めていて、山の影がじわじわと村の道に伸びている。
そのとき。
「お姉さん!」
後ろから小声で呼ばれ、振り返ると、修一が店の横手から手招きしていた。さっきまでのいたずらっ子の顔ではない。妙に真面目で、妙にこそこそしている。
「何ですか」
「内緒の話」
「ろくでもなさそうですね」
「いいから、ちょっとだけ」
藤乃が近づくと、修一は声を潜めた。
「あの屋敷の奥にいるの、八尺様だけじゃないよ」
「さっきもそんな話をしてましたね」
「白い子、いるでしょ」
藤乃の足が止まる。
「……見たの?」
「たまに塀の上にいる。おれ、見たことあるもん」
修一は得意げに言いかけて、すぐに真顔になった。
「でも、見つかったら駄目なんだって」
「誰に」
「わかんない。でも、ばあちゃんが言ってた。あの子に名前を聞かれても、絶対に答えるなって」
ひゅ、と風が吹いた。
店の軒先に吊るされた風鈴が、ちりんと細く鳴る。
さっきまでただの村の怪談めいた話だと思っていたものが、その一言で急に輪郭を持った気がした。
「……それ、八尺様のことじゃなくて?」
「違うよ。八尺様はでっかいもん」
「基準が雑だな」
「ほんとだって。小さい白い子。夜にいるの」
修一はそこで、はっとしたように藤乃の背後を見た。
つられて振り返る。
坂の上。屋敷の見える高台の方角に、白いものが立っていた。
距離があるせいで輪郭はぼやけている。けれど、つばの広い帽子と、ひどく背の高い影だけははっきりわかった。
八様だ。
じっと、こちらを見下ろしている。
「……迎えに来たんですかね、あれ」
「うわ、見てる……」
「そんなに嫌そうな顔しなくても」
「だって八尺様、遠くから見るとめちゃくちゃ怖いし……」
それはそうだ。
藤乃は小さく息をつき、買い物袋を持ち直した。
「とりあえず戻ります。ありがとう、修一くん」
「うん。あのさ、お姉さん」
「はい」
「暗くなる前に帰ったほうがいいよ。ほんとに」
さっき老婆に言われたのと、ほとんど同じ言葉だった。
ただし今度は、子ども特有の無邪気さが混ざっていない。修一の目は、年齢に似合わず妙に真剣だった。
「気をつけます」
「うん」
坂を上りながら、藤乃はちらりと屋敷の方を見た。
八様はまだ立っていた。白い服の裾を風に揺らし、帽子のつばの影から、じっとこちらを見ている。その姿はやはり不気味で、村人が怖がるのもわからなくはない。
だが、藤乃の脳裏に浮かぶのは、プリンを二つで妥協した顔と、湯船で動画を見るという俗っぽすぎる告白である。
「……見た目だけで得してる怪異だな」
ぼそりと呟くと、坂の上の白い影が、なぜかぴくりと揺れた。
聞こえたのかもしれない。
少しだけ足を速めながら、藤乃は思う。
この村は、八様を恐れている。 けれど、恐れているのは八様だけではない。
屋敷の奥にいる“白い子”。 閉まったままの部屋。
日が暮れる前に戻れという、村人たちの妙に切実な忠告。
どうやら買い出し一つで済む話ではなさそうだ。
そして坂を上りきったとき、屋敷の門の前に立つ八様は、藤乃が近づくなり開口一番こう言った。
「ぷりんはあるか」
「ありますよ」
「よかった」
「感動の再会みたいな顔で言わないでください」




