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その七


結局、その夜は居間の隣の客間を使うことになった。


 古い押し入れから引っ張り出した布団は、見た目のわりにふかふかしていた。

八様が「村の者がたまに干しておる」と言っていたので、最低限の手入れはされているらしい。

ありがたい話だが、どうせなら台所の片づけもついでにやっていってほしい。

 風呂は古い五右衛門風呂だったが、どうにか使えた。

寝間着に着替え、髪をざっと乾かし、歯を磨いて、藤乃は客間の布団へ潜り込む。

 襖ひとつ隔てた向こうは居間だ。八様も今夜はそこに寝ると言っていた。 正直、心強いかと問われると微妙である。怪異としては頼りになるのかもしれないが、生活者としては頼りなさすぎる。

 天井を見上げる。


 暗い。


 古い木目の天井は、豆電球の薄明かりの中だと妙に高く見えた。屋敷全体が寝息を立てているみたいに、時おりみし、ぱき、と小さく軋む。風が障子を撫でるたび、紙がかすかに震える音もした。

 眠れないかと思ったが、疲れてはいたらしい。買い出しだの夕飯だの白い子だの、初日から情報量が多すぎた。考えごとをしているうちに、意識は少しずつ沈んでいく。




 どれくらい眠ったのかわからない。

 ふと、耳元で何か音がした気がして、藤乃は浅く目を開けた。

 部屋は真っ暗だった。豆電球はいつの間にか消していたらしい。障子の向こうからぼんやりと月明かりが差し込み、室内の輪郭だけが薄く浮いている。

 しん、と静かだった。

 風の音もない。虫の声もない。 静かすぎて、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。


 ――気のせいか。


 そう思って、もう一度目を閉じかけた、そのとき。


 ぺた。


 廊下のどこかで、足音がした。

 眠気が一瞬で飛ぶ。


 ぺた。ぺた。


 裸足で板張りを歩く、湿った音。 昼間も、夕食のあとも聞いた、あの足音だった。

 藤乃は布団の中で身を強張らせる。


 近い。


 音はまっすぐ、客間の前までやってきて、ぴたりと止まった。

 障子一枚向こうに、何かいる。

 息を潜める。布団を握る手に、じわりと汗がにじんだ。

 八様を起こすべきか、と考える。だが襖の向こうは静まり返ったままだ。寝ているのか、起きて様子を窺っているのか、それすらわからない。

 そのとき。



「――藤乃」



 障子の向こうから、声がした。

 藤乃の心臓がどくりと跳ねる。

 八様の声だった。

 低く、少し気だるげで、語尾の響きまでそっくりそのまま。今夜ずっと聞いていた声だ。


「藤乃、起きておるか」


 返事をしそうになって、ぎりぎりで堪えた。

 夜、妾が呼んでも返事をするな。 障子の向こうから妾が呼んでも、戸を開けるな。

 八様の言葉が脳裏によみがえる。

 布団の中で、藤乃は唇を噛んだ。


「藤乃」

 また呼ばれる。

 

さっきより少し近い。障子に口を寄せているみたいな、妙な近さだった。


「起きておるなら返事をせい。話がある」

 八様なら言いそうな口調だ。

今すぐ出ていけるほど不自然でもない。むしろ自然すぎて、ぞっとする。


 返事をするな。 戸を開けるな。

 藤乃は目を閉じたまま、呼吸だけを浅く整える。

眠っているふりをするしかない。心臓がうるさい。鼓動の音で向こうに生きていると知られそうなくらいだ。

 障子の向こうで、しばらく気配が動かなかった。

 じっと、こちらを見ている。

 そんな感覚だけが、ひたひたと皮膚を這う。


「……藤乃」

 三度目の声は、少しだけ違った。


八様の声なのに、どこか幼い。 抑揚のない、平たい響きが混じっている。





「ねえ、ふじの」

 ぞわりと、背筋が粟立つ。

 

声がほどけるみたいに変わっていく。八様の低い声と、白い子の幼い声が、ぬるりと混ざり合っていた。


「おきてるの、わかってるよ」

「…………」

 返事はしない。


 しない、が、喉がひきつる。

 身体のどこかが勝手に反応してしまいそうになる。名前を呼ばれるというのは、思った以上に抗いがたい。返事をするのは癖みたいなものだ。しかも相手が知っている声で呼んでくるならなおさらだ。


 障子が、かり、と鳴った。


 爪先で引っかいたような、小さな音。

「ふじの」

 かり。

「ねえ」

 かり、かり。

「あけて」

 やめてほしい。 


 その言い方が、子どもみたいに甘ったるいのが余計に気味が悪い。

 藤乃は布団を頭まで引き上げたい衝動をこらえた。今動けば、起きていると教えるようなものだ。

 


かり、かり、かり。



 障子を掻く音が少しずつ速くなる。

最初は遠慮がちだったのに、だんだん苛立ったように、せっかちに、執拗に。


「ふじの」


かり、かり、かり。


「いるんでしょう」


かり、かり、かり。


「へんじして」


かり、かり、かり、かり。

 

 耳障りな音に、胃のあたりがきゅっと縮む。

 返事をしないだけで、本当にやり過ごせるのか。

もしこのまま障子を開けられたら。もし部屋の中に入ってきたら。布団のすぐ横に、あの白い顔がしゃがみ込んできたら。

 想像した瞬間、足先が冷たくなった。

 そのときだった。

 


ばしん、と何かを叩く派手な音が、障子の向こうで響いた。

「夜中に人の障子を引っ掻くでない」

 今度こそ本物の八様の声だった。 眠気も気だるさもない、低く不機嫌な声。

 続けて、きゃっ、と小さな悲鳴が上がる。やっぱりまた叩いたらしい。

「痛い!」

「当たり前である。何度言えばわかる」

「ちょっとだけ!」

「ちょっとでも駄目だ」

「返事しない!」

「賢いからな」

「ずるい!」

 廊下で小声の言い合いが始まる。緊張感が一気に崩れた。

 ……いや、ありがたいのだが、もう少しこう、退治らしい退治はできないのだろうか。

 ぺたぺたと足音が遠ざかる。八様の足音はしない。あの長身でどうやって移動しているのか知らないが、気づくといつもすぐそばにいる。

 しばらくして、障子の前に別の気配が立った。

「藤乃」

低い声が、今度は静かに呼ぶ。

「……返事はせぬでよい。そのまま聞け」

 藤乃は布団の中で、そろそろと目を開けた。障子の向こうに、ぼんやりと背の高い影が見える。帽子の広いつばまでうっすらわかるので、本物だろう。たぶん。

「今のは妾だ」

いやそれはそうなのだが。

「もう離れた。朝まで戸を開けるな。便所に行きたくなっても我慢せよ」

最後が急に現実的すぎる。

「返事をしないのは正解である。よく耐えた」

声だけは、少しだけ柔らかかった。

 それきり気配が離れていく。今度こそ本当に、廊下は静かになった。

 藤乃はしばらく布団の中で固まっていたが、やがて長く息を吐いた。

 心臓がまだ速い。喉も渇いている。全身に変な汗をかいたせいで、寝間着が肌に張りつく感じが気持ち悪かった。

 怖かった。

 思い出すだけでぞっとする。 八様の声で名前を呼ばれたとき、あれが偽物だと頭ではわかっていても、身体のほうが反応しかけた。障子を掻く音も、すぐそこにいる気配も、今になってじわじわ効いてくる。

 けれど同時に、別の感情もあった。

 ――賢いからな。

 あの一言だ。

 子どもを褒めるみたいな、妙に素直な言い方をしやがって。怖い場面の余韻を微妙に壊してくるあたり、本当にあの怪異は空気を読まない。


「……寝られるか、こんなの」

 小さく呟いて、藤乃は布団を頭まで引き上げた。

 障子の向こうは静かだ。もう足音もしない。

それでもしばらくは、目を閉じるたびに、白い指が障子を掻く音が耳の奥で蘇った。

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