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2話

「あれ、いつの間にか寝ちゃって……って、現実か。学校行かなきゃ」


「叶結、朝だぞ。起きろ」


ちょうどいいタイミングで恒一さんの声が聞こえた。


「夢なんだよな、あれは」


無意識に首を触る。そこには汗の感触しか残っていない。


「思い出した」


一度乗り越えたからだろうか。昨日と違い、夢の出来事をはっきりと覚えている。


霧に滲むガス灯の鈍い光。煤で装飾が黒ずんだ重厚な石造りの街並み。


石畳を叩く馬の蹄音、新聞売りや物売りの喧しい呼び声。川から響く蒸気船の汽笛。


どこからか漂う石炭の煙の匂い、馬糞の混じった街路の埃っぽさ、そして角のパブから漂う安酒とパイの香り。


そしてなにより、人の温もり。


「夢なんだよな……」


そう呟きながらも、胸の奥に残る感触は消えない。


夢の中にいる間は、そんな疑問を覚えることは少なかった。だが、現実に戻るとどうしても考えてしまう。


俺は確かにあの時、あの少女に殺された。


ガチャリ。


「おーい、まだ寝てるのか」


返事がないのを気にしたのか、ドアが開く音がした。振り向くと、恒一さんが立っていた。


「なんだ、もう起きてるじゃないか。朝飯できてるぞ」


そう言って、恒一さんは少し笑った。


――家を出たあと。


「……夢なんだよな」


自分に言い聞かせるように呟く。奇妙な夢はいつまで続くのか。そんなことを考えながら、学校へと歩き出した。


――


「おーい!」


校門前で、横から聞き覚えのある声がした。振り向くと、高橋がいた。


昨日の入学式で、俺が寝かかっていた時に話しかけてきて意気投合した、いいやつだ。


「あ〜ま〜に〜!」


俺の名前を叫びながらこちらに向かって走ってくる。その勢いはあまりにも速く、減速しきれなかったのか、そのまま体当たりのようにぶつかってきた。


「いてて……」

「すまんすまん!」


わざとじゃないと分かっている手前、怒るに怒れない。せめてもの抗議として、少し大袈裟にぶつかったところをさする。


そんな俺の様子を見て、怒っていないと判断したのか、高橋は軽く頭を下げた。


「高橋で合ってるよな。どうしたんだ」

「悠斗って呼んでくれや。苗字で呼ばれるの、あんま好きじゃねーんだ」

「そういやそうだったな。それで、どうしたんだ」


「って、ちがーう! なんでそんな普通に話してんだよ。昨日のことだよ、入学式! 倒れてただろ。めっちゃ焦ったんだぞ。その……大丈夫だったのか?」


そういえば、昨日の入学式の最中に倒れたんだった。なぜ倒れたのかまでは覚えていない。


冷静な俺とは対照的に、悠斗は分かりやすく慌てていて、本気で心配しているのが伝わってくる。


「ああ、大丈夫だ」

「本当か? それならいいが」


最初は歩きながら話していたが、いつの間にか足は止まり、その場で話し込んでいた。


――その時。


「あなたたち、一年生ですね。そんなところで話していると遅刻しますわよ」


声が割り込む。


真っ赤な髪に揺れるアホ毛。金の瞳でこちらを見つめる少女。


その姿はどこか浮世離れしていて、言葉には感情の揺らぎがほとんど感じられない。まるで、事実だけを淡々と処理する機械のようだった。


「す、すみません」

「理解したなら教室に向かいなさい。授業はまだ始まらなくても学べるものはあります」


それだけいうと、校舎の中に入って行った。


どことなく、知っている人に似ていて、それでも雰囲気が全く違う彼女にどこか混乱しながらも、その姿が見えなくなったことでようやく頭が整理される。


「彼女は生徒会長の西園寺 夢依様。かの有名な西園寺家の一人娘でなぜかうちの高校に通っている人だ。実際に見ると写真よりすげぇ美人だな」


聞くより早く、彼女の情報を話し始める。


俺と同じ一年なのに、その情報は一体どこから手に入れているんだ? そんな疑問が尽きなかった。


―― 



教室に着くと時間がギリギリなこともあってか、各々自己紹介や共通の話題を話している者、読書をしている者、教室の様子を伺っている者。


まだ、新しく綺麗な制服を着た新1年生がいた。


「こうして教室入るとさ、俺たち高校生になったんだなぁ〜ってなるな」

「そうだな」


悠人の言葉に短く、それでいて大きく頷いた。


「高校か」


誰にも聞こえない声量でそっと呟く。


ふと、思う時がある。俺に取っての本当の現実は、夢の世界にあるんじゃないかと思ってしまう。そこでなら、父さんも母さんも生きていて、俺に温もりを与えてくれるからだ。


それも、昨日から失われ俺はなにを糧に生きていけばいいのだろう。


「たのしい、学園生活にしような」


先に教室に入った悠人がこちらに振り返り、手を差し伸べながら笑顔で言った。


楽しいか。俺の楽しいは幼少の頃から止まって動かない。小学中学と、俺を知っている人が遠慮して全く話したことがない。高校でも同じ生活が淡々と続くのだろうと思っていた。


そんなときに、悠人が話かけてくれて嬉しかった。


おれも、楽しんでいいんだろうか。夢の世界でしか、幸せを感じないようになって初めて感情が揺れ動く。


「そうだな」


無意識にそう呟いていた。



ガラガラ


教室のドアが開く


「おお、集まってるな」


そんな声が響く。何事かと、一瞬教室が静かになり、その声の持ち主へと視線を向けるとそこには教師がいた。


その教師は、清潔感のある短髪に眼鏡をかけていて、きちんとスーツを着こなし、穏やかな笑顔と真剣な眼差しが印象的だった。


「よぉし、お前ら好きな席に座れ」


いきなり入ってきた教師は、開口一番そう言い放った。


一瞬の沈黙のあと、教室がざわつき始める。


「は?」「いきなり?」「どういうこと?」


戸惑いと期待が入り混じった声があちこちから漏れ、落ち着かない空気が広がっていく。


「静かに!」


その一声で、教室がぴたりと静まった。


教師は教室をゆっくりと見渡し、どこか妙に深刻で、それでいて使命感に満ちた表情を浮かべながら口を開く。


「どうして学校には、出席番号なるものがあるのか。そうは思わないか。不公平だとは感じないか」


……何言ってるんだこいつ


思わず心の中で突っ込む。


周りを見れば、「え、何この人」「やばくね?」といった視線が飛び交っていた。


「俺は学生のころ、自分の苗字が佐藤だって理由だけで中央席。それも一番前に座らされた。それが嫌すぎてな――」


教師は拳を軽く握る。


「俺が教師より偉くなって、出席番号順の席をやめさせるんだ! って思いでこれまで生きてきた!」


一瞬、教室が静まり返る。


「だから、お前たちには好きな席に座ってくれて構わない!」


その言葉を合図に、空気が一気に弾けた。


「マジで自由席?」「どこ座る?」「窓側よくね?」


声が飛び交い、生徒たちは一斉に動き出す。椅子を引く音、机が擦れる音、笑い声。


さっきまでの張り詰めた空気が嘘みたいに崩れていく。


「おい叶結、どうする?」


隣で悠斗がきょろきょろと教室を見回している。後ろや窓際が人気らしく、すでに埋まり始めていた。


「んー、やっぱ後ろだろ。楽だし」


そう言って歩き出す悠斗の後を追う。


後ろの席に着く頃には、隣同士の席はすでに埋まっていた。仕方なく、俺はその後ろの席に腰を下ろす。


「悪いな、隣取れなかったわ」

「別にいい」


前後に並ぶ形にはなったが、距離はそれほど遠くない。


教室のざわめきを背に受けながら、俺はゆっくりと椅子に深く座り込んだ。


「あら、あなたが隣の席の人なのね」


左隣から不意に声をかけられる。


そちらへ視線を向けると――太陽の光を受けて、きらきらと輝く銀髪。


透き通るように白い肌。そして、その瞳は真紅――まるで宝石のような色をしていた。年齢よりも幼く見える顔立ち。


整いすぎたその姿は、どこか人形を思わせる。


――その少女は、静かにこちらを見ていた。


「君は……」


初めて会うはずなのに、なぜか引っかかる。


どこかで見た――そんな感覚だけが残っているのに、肝心な部分が思い出せない。これほど整った顔立ちなら、一度見れば忘れるはずがないのに。


頭に霧がかかったように、記憶がすり抜けていく。


「お、無月さんじゃん。何も考えずにここ座ったけど、あの無月さんの近くに座れるなんて」


そんな言葉が聞こえた。


どうやら彼女は無月というらしいが、それを聞いても俺の知り合いにそんな苗字の人はいない。


俺が困っていると察したのか、前の席に座り終わった悠斗が話し出す。


「あ、叶結は知らないんだっけか? 彼女は無月 凪さん。今年の首席で、日本人離れしたその綺麗な容姿に、入学式が終わるや否や何十人もの生徒に告白されて、その全部を切り捨てるように断ったことから“吸血姫”って呼ばれてるんだ」


「なんで、告白を断ったことと吸血鬼が結びつくんだよ」

「さあな、なんでだろうな」


「俺に聞かれても……まあ、とにかくだ。ちょうど代表挨拶のタイミングで倒れた叶結は、そんな彼女と同じくらい有名なんだぜ」


もう何も言葉が出なかった。


「それで、いつまで話しているの。私が話しかけている最中なのだけど」

「すみません。えっと、無月さんでいいのかな。俺は亜麻仁叶結だ。これからよろしく」

「知ってるわ。話しかけないでくれる」


「えぇ……」


話しかけられたから挨拶を返しただけなのに、その態度に一瞬何を言われたのかわからなかった。


しばらくしてようやく意味を理解し、唖然とするしかなかった。


「そう、あなたは青なのね……」


そんな言葉が横から聞こえる。意味はわからないのに、なぜか妙に引っかかった。もう関わらないでおこうと、心に誓った。


そんな理不尽なことに巻き込まれたもののその後は至って平穏に過ごし、とうとう下校の時間になった。


「叶結ごめん! 今日はどうしても外せない用事があるんだ!」


なんで謝ったんだ? いつの間にか一緒に帰る約束でもしてたんだろうか。記憶にない。でもなんとなく、友達って言葉を交わさなくても通じ合えるものがあるんだなと感じる。


明日は一緒に帰るのかな。


「帰るか」


ごめんなさい、ごめんなさい。


微かに声がした。気のせいだと思いそのまま玄関口近づいていくとその声はよりはっきりと聞こえるようになる


「ごめんなさい」


俺の頭に声をかけて逃げていった少女が頭によぎる。この声って昨日の先輩だと確信するのにそう時間が掛からなかった。


昨日のこと誤った方がいいよな。でも、どこにいるんだろう。


その答えは、すぐに見つかる。


玄関口を出て建物の影になっている場所にその先輩がいた。


その先輩は昨と同様に、少し周りをキョロキョロと見渡しながら、時折肩をビクッと跳ねている。


ごめんなさい、か


助けたいと思えてくる。


なんでかわからない。謝罪とは別に過去の自分と重なり、助けたいと思えてくる。過去の俺が恒一さんにしてもらったように


「あの、大丈夫ですか? 昨日の先輩ですよね。昨日はすみません」


俺の言葉により一層方をビクと跳ねながらもこちらを見てくれた。


「あなたは昨日の……」

「昨日はごめん」


彼女がこちらを振り向いたと気づき、声を抑え、少し離れた場所から謝罪した。


「いいの。悪いのは私だから」


しかし、返ってきた答えはとてもシンプルで、その姿はどこか怯えていて、助けを求めているように見える。


『ごめんなさい』


なぜだか、その言葉が頭に流れる。


昨日と今日、数える程度にしか会話をしていない。それでも、なんとなく感じる。俺と似たような境遇なんじゃないのか、と。俺には恒一さんがいたから、今では日常生活を送れている。


先輩にはいなかったんじゃないのか。


あの人みたいに、手を差し伸べてくれる誰かが。


もしそうなら――今度は、俺の番だ。


恒一さんが俺にしてくれたように、俺が先輩にできることはないだろうか。


ふと、考える。もし、あのとき。俺に恒一さんがいなかったら。俺は、どうなっていた。


今、目の前にいる先輩みたいに、どこか壊れたまま生きていたのか。


それとも。


……ここには、いなかったのかもしれない。


そんな考えが、静かに胸の奥へ沈んでいく。


「その……ごめんなさい。私なんかと話しても楽しくないですよね」


俺が何も言わなかったからだろうか。自虐めいて言ったその言葉はどこか痛々しく、今にも消えてなくなりそうな声だった。


それだけ言うと、彼女はその場から帰ろうとした。


「そんなことないよ」


それは自然と出た言葉だった。かつて俺が両親を亡くして絶望していた時に、恒一さんが最も俺にかけてくれた、優しい否定。


そして、心強く安心できる魔法の言葉だ。


今になって思う。もっと別の慰め方があったんじゃないか。それでも、俺はあの時、あの言葉に救われた。


俺の言葉に、そのまま帰ろうとしていた彼女が少しだけ動きを止める。


「そんなことない」


今度は少し強めに、確信めいて言った。


たしかに、俺は彼女のことを知らないことだらけだ。それでも、彼女が俺に見せた弱さは、過去の俺に重なり、助けたいと思った。


その気持ちに、「楽しい」「楽しくない」という感情はあってはいけない。


彼女が立ち止まり、再び俺を見る。


一瞬の沈黙。


「亜麻仁。俺の名前は亜麻仁 叶結」


俺の言葉を聞いて、彼女の瞳が大きく見開かれる。目に見えて驚いているようだった。その直後、彼女はその場から逃げるように走っていった。


彼女は走り去る後ろすぎたをただ茫然とみることしかできなかった。


――



視界が鮮明になり、目を開けると、横にはシャルロットが手を振り上げ、それを振り下ろしている光景が目に映った。


ぱぁんっ


「いたい」

「あら、お目覚めになったのね」


俺の頬を叩いた本人は、今の行動が当然の権利だと言わんばかりに、冷静な声で一言つぶやく。


「いたい」


叩かれたからか、夢に入った直後の夢心地のよい状態から一気に頭が冴え、状況を理解する。


それにしても痛い。シャルロットに仕返しで反抗したところで、返り討ちに遭う未来しか見えない。だからこそ、せめてもの抵抗として睨みつけることしかできない。


「ほら、さっさと行きますわよ」


俺の抵抗も虚しく、シャルロットは宿屋を後にする。


「叶結、あなたはこちらを調査してちょうだい」


地図を見ると、三箇所ある×印のうち、ここから一番近い場所を指していた。


「え、別行動するの」


俺がそう言いかけた時には、すでにシャルロットは走り去った後だった。


明らかに危険な可能性が高い場所へ一人で向かうと理解した瞬間、無意識に首元に手を当てていた。


そうか。シャルロットの存在は、こんなにも大きかったのか。


怖くて逃げ出したい。それでも、夢の中では幸せになりたい。ここで逃げるのは簡単だ。


それでも、シャルロットとのこの関係を気に入っている。彼女が誰なのかは、未だに思い出せない。


それでも、この楽しいひとときを逃してしまえば、何か大事なものを失う気がする。


大丈夫だ。危ないと思えばすぐに逃げればいい。


自分に何度も言い聞かせることで、なんとか落ち着くことができた。


一歩、二歩。進むにつれて、だんだんと体が重く感じる。それでも、それすら楽しいと感じてしまう自分に恐怖を覚え、思わず笑ってしまう。


この「楽しい」が幸せなのかは、まだわかっていない。それでも今は、この時間を何よりも大事にしたい。


――



×印がある方向へ向かいながら街並みを見る。昨日と同じように、馬車が入り混じり、たくさんの人々の声が聞こえてくる。


そんな中、昨日と違うことが一つだけあった。この夢の世界の時間が進んでいたことだ。


この奇妙な夢を見始めて今日で三日目。一日目に殺され、二日目は一日目に戻り、同じ一日を繰り返していた。


俺の死を起点に夢の時間が巻き戻っているのだろうか。この夢はいったいいつまで続くのか。


そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか目的の路地裏の入り口まで辿り着いていた。


路地裏の入口を前に、無意識に足が止まる。


昨日、ここで死んだ。背中に嫌な汗が滲む。それでも、確かめないわけにはいかなかった。


コツ、コツ、コツ――


意を決して路地裏に足を踏み入れると、先ほどまでの騒音が嘘のように静まり返る。


まるで、自分以外誰もいない世界に迷い込んでしまったかのような静寂。だからこそ、自分の足音だけが嫌に耳につく。


足音を殺し、慎重に前へ進む。


カツ……カツ……。


背後から、何かが近づいてくる音がした。


一つじゃない。複数だ。


静寂に包まれた空間だからこそ、その足音は不気味なほど鮮明に響く。


心臓が嫌な音を立てる。


昨日と同じだ。


そう思いながら振り向くと、そこには昨日のチンピラ三人が立っていた。


――だが、様子がおかしい。


ところどころ負傷しているものの、昨日のような威圧感はない。


それどころか、どこか覇気が削がれ、小物感すら漂っていた。


「っへへ、叶結の兄貴、ここにいやしたか」


……は?


思わず間の抜けた声が出そうになる。


昨日、俺を殺した相手とは思えないほど、揉み手でもしそうな勢いで愛想よく近づいてくる。

その姿はまるで、チンピラの親分に媚びる下っ端そのものだった。


どういうことだ?


困惑する俺に、その答えはすぐさまチンピラの口から返ってきた。


「昨日はすいやせんでした。っへへ、シャルロットの姉貴の力に惚れ込みまして、そんな姉貴を従える兄貴が弱いわけねぇです」


一生ついていきやす――そんな、ありがたくもない誓いを受けることになってしまった。


「あのな……」


「兄貴、わかってますよ。全部わかってますんで、何の心配もいりやせん」

「違う違う違う! 何ひとつわかってねえ!」

「さすが兄貴……否定して俺たちを試してやがる……!」


もうダメだ。


こいつは人の話を聞かないタイプのチンピラだ。


俺が何を言ったところで、理解してもらえる気がしない。


「はあぁ……」


思わず深いため息が漏れる。


だが、そんなため息でさえチンピラには尊敬に値するらしく、なぜか俺のことをさらに褒めちぎってきた。


……もう、どうとでもなれ。


「わかった、わかったから。今日はそのまま帰ってくれ」

「っへへ、わかりやした。今日のところはこれで失礼しやす」


そう言ってチンピラたちは満足げに去っていく。


……どうしてこうなったんだ。


ついさっきまで、ただ少し絡まれただけだったはずだ。それが気づけば、なぜか“兄貴”と崇められている。


意味がわからない。


次に会うときまでには、少しでも冷静になっていてくれよ。


そんなことを思いながら、俺は深い疲労感とともに路地裏を進んでいった。


――



目的地が目の前まで迫ると、体感温度が一度か二度下がった気がする。


コツ……コツ……


石畳を打つ古びた革靴の音が響く。


陽の差さない狭い路地裏。乾いた足音は高い石壁に反響し、確かに前方から近づいてくるのに、姿だけは見えない。


コツ……コツ……


やがてその音は石の迷路の奥へと溶け、路地裏には冷たい沈黙だけが残った。


ドクン、ドクン――


心臓が高鳴る。

その音はまるで警報のように大きく響き、初めて殺された日のことを思い出させた。


あの日も、今日と同じ路地裏だった。


建物に挟まれた狭い道には陽の光が届かず、薄暗い。表通りとは違う静けさが、妙に薄気味悪い空気を作り出している。


「……行かないとだめ、だよな」


あえて声に出し、自分に勇気を与える。


前回は、不注意で大きな足音を立てたせいであの少女に見つかった。

だが、今度は違う。


静かに歩けば、見つからないはずだ。


俺は息を潜め、ゆっくりと慎重に音のした場所へ近づいていく。

今、耳に届くのは己の心臓の音だけだ。


ドクン。


なんとなく、ここを曲がればその場所だと直感でわかった。


角を前にすると、心臓の音はさらに大きくなる。


その音が緊張から来るものなのか、恐怖から来るものなのかはわからない。

ただ、手のひらから背中に至るまで、嫌な汗がじっとりと流れていた。


そのせいか何となく「行くな」と警告しているようだった。


俺は物陰からそっと覗く。


そこには、所々破れた服を纏った少女がいた。


その姿は可憐だった。

だが、その可憐さとは裏腹に、どこか狂気じみた不気味な気配を漂わせている。


手に持つ凹凸だらけの袋。

その隙間から覗く刃物が、嫌でも中身の危険さを想像させた。


その少女を見た瞬間、理解した。


――その少女が、俺を殺した少女だと。


「いい天気だ……そうは思わないかい、凪。君は昔から、こんな日の空が好きだったね」


少女はどこか遠くを見つめながら、独り言のように呟く。


嫌な気配を纏い、俺を殺した犯人だとわかっているのに――

その姿は妙に絵になっていて、どこか綺麗だとすら感じた。


それどころか、俺を殺した時や、さっき見た時とは違う。

どこか慈愛に満ちた雰囲気すら感じる。


同一人物とは思えないその空気に、俺はわずかに混乱した。


分岐


それでも、俺の行動は変わらない。


このことを、一刻も早くシャルロットに伝えなければならない。


俺は恐怖を押し殺すように深く息を吸い込み、何事もなかったかのように踵を返した。


走ってはいけない。

焦ってはいけない。

背後には、誰もいない。


そう自分に言い聞かせながら、一歩ずつ距離を取る。


だが、数歩進むたびに、背中へと突き刺さるような視線を感じた。


振り返ってはいけない。


そう思うほど、振り返りたくなる。


首筋を、冷たい指先でなぞられたような寒気が走った。


それを振り払うように、足音を殺して歩く。


石畳を踏むたび、靴底が立てるわずかな音すら恐ろしく、

呼吸まで浅くなる。


薄暗い路地を抜ければ、人通りのある通りに出られる。


灯りのある場所へ。

人の声がある場所へ。


そう思うだけで、わずかに足取りが速まった。


角を曲がる。


その先に見えた街灯の明かりに、

張り詰めていた肺がようやく息を吐いた。


緊張がほどけた瞬間、体から力が抜け、

その場に崩れ落ちる。


――怖かった。


喉まで出かかったその言葉を飲み込み、

代わりに別の言葉を口にする。


「早くシャルロットに、このことを伝えないと」


俺は立ち上がり、急いで合流地点へと向かった。

――



合流地点にたどり着くと、そこにはシャルロットが腕を組み、仁王立ちで待ち構えていた。

街灯の淡い光に照らされたその姿は、まるで門番のように威圧感がある。


こちらの姿を認めた瞬間、彼女は細めていた目をさらに鋭くし――


「遅いですわ!」


鋭い叱責が、夜気を切り裂くように飛んできた。


思わず肩をすくめる。

どうやら、かなり待たせてしまったらしい。


「悪い……ちょっと、色々あって」


そう言って頭をかきながら謝ると、シャルロットはじろりとこちらを睨みつけたまま、小さくため息を吐いた。


「ちょっとで済む顔をしておりませんわ。何がありましたの?」


その言葉に促され、俺は道中で起きた出来事を順を追って説明した。


話しているあいだ、シャルロットは途中で口を挟むこともなく黙って聞いていたが、話が終わるころには呆れたように片手で額を押さえていた。


シャルロットと共に、先ほどの路地裏へ戻る。


さっきまであれほど濃密だった嫌な気配は、嘘のように消えていた。


薄暗い石畳の路地。

壁際に積まれた木箱。


――だが、そこには誰もいない。


「……いない」


思わず漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「ここですのよね?」


隣でシャルロットが低く問いかける。


「ああ、間違いない。ここで見た」


俺は即座に答える。

見間違えるはずがない。

あの姿も、あの声も、あの視線も――今もまだ背中に焼きついている。


シャルロットは周囲を警戒するように視線を巡らせると、ゆっくりとしゃがみ込んだ。


石畳に手を触れ、何かを確かめるように目を細める。


「……血の匂いがしますわ。」


その言葉に、心臓が嫌な音を立てた。


「間違いありませんわ。昨日と同じ匂いがしますわ」


それから俺たちは、周辺をしらみつぶしに調べて回った。

少女がいた路地裏はもちろん、その周囲の通り、繋がっている細い抜け道、人気のない広場まで足を伸ばした。


だが――


結局、その日それ以上の手がかりは見つからなかった。


少女の姿はどこにもなく、残された痕跡も、追えるほど明確なものは何一つない。夕日が街並みを赤く染め、やがて空は群青へと変わっていく。


昼間の喧騒は静まり、代わりに夜の気配が街を包み始めていた。


「……今日はここまでですわね」


シャルロットがそう言って、小さく息を吐く。

その声には、わずかな疲れが滲んでいた。


「そうだな……」


返事をしながら空を見上げる。


何も進展しなかったはずなのに、


胸の奥には妙な重さだけが残っていた。


あの少女は、確かにそこにいた。


その不気味な余韻を振り払えないまま、


その日の調査は終わりを迎えた。

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