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3話

窓の外では、春の風に揺れる桜の花びらが、ゆっくりと校庭へ舞い落ちていた。


入学して、まだ数日。


「――では、この公式を使えば答えはどうなりますか?」


知らない顔ばかりだった教室も、少しずつ見慣れてきた。教師の声が、黒板の前で淡々と響く。その内容はほとんど頭に入ってこなかった。


俺の席は、窓際の後ろ側。本来なら、周囲の目を気にせずぼんやりできる場所のはずだった。今、見ているのは窓の外の景色じゃない。脳裏に浮かんでいるのは、


石畳の街だ。

陽の差さない路地裏。

静まり返った空気。

足音だけがやけに大きく響く、あの薄暗い場所。


――あの夢。


まるで過去にタイムスリップしたかのように鮮明な景色。ここ数日、毎晩見る奇妙な夢。


そこで出会った、シャルロットという少女。最初は、ただ理不尽なやつだと思った。


『わたくしの助手になりなさい』


その声が、今も耳の奥に残っている。……いや、声だけじゃない。


思い出すたびに、胸の奥が妙にざわつく。まるで、まだあの世界の空気が肺の中に残っているみたいに。


「……楽しかったんだよな」


小さく呟いた、その時――


「おい」


前の席から、小声で呼ばれた。顔を上げると、悠斗が半分だけ振り返っていた。


「先生、ずっとお前のこと見てるぞ」

「……え?」


慌てて黒板を見ると、教師と目が合った。時間にして一秒にも満たない。それだけで、夢のことから現実に引き戻されるには十分だった。


背中を、冷たい汗が伝う。慌ててノートへ視線を落とす。


「助かった……」

「昨夜ゲームでもしてたのか?」


悠斗が笑いながら小声で言う。


「まあ、そんな感じ」


曖昧に返すと、悠斗は「ふーん」とだけ言って前を向いた。


ゲーム、ならよかった。


夢の中で知らない街を歩いて、知らない少女と一緒にいて――そして、死んでいる。


そんな話、できるわけがない。

再び、窓の外を見る。

ここが俺の現実だ。


あの夢の世界は、きっとただの夢。俺が無意識に望んだ、ありもしない幻想。


そう自分に言い聞かせ、今度こそ授業に意識を向けた。


――



キーンコーンカーンコーン


授業の終わりを告げる鐘が、教室中に響き渡った。


学校三日目。


まだ慣れない授業スピードと、その容赦ない内容に必死でノートを走らせているうちに、いつの間にか昼休みになっていたらしい。


「今日はここまで。課題、ちゃんとやってこいよ」


教師がそう言い残し、教室を出ていく。……教師というのは、つくづく自分勝手な生き物だ。


他の教科でも大量の課題が出ていることくらい知っているはずなのに、なぜか「自分の分は別」と言わんばかりに山ほど押しつけてくる。


その積み重ねで、すでに俺の机の中には見たくもない量のプリントが眠っていた。その現実から目を逸らしていると、悠斗が立ち上がった。


「学食行こうぜ」


気づけば、いつの間にか教室の入り口に立っていて、手には財布やスマホを握っている。今日から午後の授業が始まる。


そのせいか、弁当を持参しているやつ、購買のパンを確保しているやつ、そして悠斗みたいに学食へ向かうやつ――みんな思い思いに動き始めていた。


俺たちは別に約束していたわけじゃない。けれど、こうして自然に一緒に昼を食べに行く。……こういうのが、友達ってやつなんだろうか。


そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。


「ああ、今行く」


「急げよ。一年の教室、学食から一番遠いんだからな」


食堂に着くころには、すでに人が集まり始めていた。昼休みが始まったばかりだというのに、この賑わい。人気のほどがよく分かる。


「叶結、何にする?」


悠斗に言われ、券売機を見る。


唐揚げ定食。カレー。うどん。それ以外にもさまざまな料理がある。思った以上に種類が多い。


「へぇ……ちゃんとしてるな」


感心しながら下の方へ視線を移した。


「……お子様スペシャルセット?」


思わず声が漏れる。学食にあるとは思えない名前だった。


旗でも刺さってるのか?

いや、まさかおまけ付きとか……?


値段を見ると、他のメニューと大差ない。


選択肢(ここは置き後です)


「……うーん。うどんだな」

「無難だな。じゃ、俺も同じで」



妙に気になる。気になるが――結局、うどんを選んだ。


後悔はない。……ない、はずだ。

それでも頭の片隅では、「お子様スペシャルセット」の正体が気になって仕方なかった。


明日は、挑戦してみるか……?


ーー



席に着く頃には、食堂は学生でごった返していた。少しでも来るのが遅れていたら、座れなかったかもしれない。


「よっしゃ、飯だ飯」


悠斗が割り箸を割るのを見て、俺も箸を手に取り、うどんへ視線を落とした――その時だった。


ざわついていた食堂が、不意に静まった。まるで、誰かが音量を絞ったみたいに。


「……?」


顔を上げ視線の先には、一人の女子生徒だった。


真っ赤な髪。その頭頂でぴょこんと跳ねるアホ毛さえ、妙に堂々として見える。


次の瞬間、静寂は破られた。


「西園寺先輩だ」

「今日も綺麗……」

「やば、こっち見た?」


周囲は一気にざわめきに包まれる。


その名前は、すぐ耳に入った。


西園寺 夢依。


彼女はこの空気が当然だと言わんばかりに、空いている席を探していた。


そして、その金色の瞳が、ぴたりと止まり、俺たちの座る席をまっすぐ見つめていた。


「あなたは昨日の方ですわね」

会長が俺に声をかけようとした、その時だった。


「か、会長!」


悠斗が勢いよく立ち上がる。


「ど、どどど、どうぞ! こんな暑苦しい男どもでよければ!」

「暑苦しいって」


「事実だろ」

「お前な…」

「いや、俺はまだいいんだよ! 問題はお前だ!」

「なんでだよ!」

「見ろよその顔!」

「どの顔だ!」

「会長をガン見してる顔!」

「してねぇよ!」

「してる!」

「してない!」

「してる!」


「まったく、子供ですの?あなたたちは」


会長が呆れたように小さく息を吐いた。その仕草だけで周囲から「可愛い……」みたいな声が聞こえてくる。


どれだけ影響力あるんだこの人。


会長は俺たちのやり取りを見て、少しだけ口元を緩めた。


「仲が良いんですのね。」

「いや、こいつが勝手に騒いでるだけで――」

「そうですの。では、相席失礼いたしますわ。」


「は、はい!」


悠斗は即答した。そして向かいの席から素早く立ち上がると、なぜか俺の隣へ移動する。


結果、生徒会長が俺の正面の席に座ることになった。


「おい」

「男は引く時は引くんだ」

「何の話だよ」


その一連の出来事に、食堂は少なからずざわついていた。一部の生徒は、殺気にも似た鋭い視線を俺たちへ向けている。


そんなざわめきの中でもある程度の秩序は保たれており、テーブルに直接乗り込んでくる生徒はいなかった。


「食べないのですの?」

「食べます。いただきます」


言われて初めて、会長のことを見続けていたと気づき、慌ててうどんへ視線を向ける。


ズルズルッ。


うどんだな。


しばらく無言で食べ進めていると、悠斗がぽつりと呟いた。


「なあ、俺最近変な夢を見るんだ」


突然のことにどう反応すべきか困っていると、それが伝わったのか、悠斗は語り始めた。


「日本じゃないどこか。たぶんロンドンかな。そこで散歩する夢を見るんだ」


え、それって――


「それで、散歩していると遠くから悲鳴が聞こえてきて。そんな夢」


うどんを食べながら、なんてことのないように語る悠斗の話を聞き、俺の鼓動は強くなる。


「それは……」


俺の言葉に重ねるように、会長が返事をした。


「わたくしも似たような夢を見ておりますわ。しかし、まったく同じ夢というわけではなさそうですわね。」


どういうことだ?


悠斗や会長が話していたことは、俺が見ていた夢と何か関係があるのか?


この学校に入学してから、思うように夢が見られない日々が続いている。その内容こそが、今悠斗たちが話したものと酷似していた。


「わたくしは、事件を解決する探偵のようなことをしておりましたわ。」


「え……」


たまたま、似たような夢を見ていただけ。そう自分に言い聞かせる。夢なんて曖昧なものだ。


異国の街を歩く夢を見る人間だって珍しくはないだろうし、探偵小説や映画の影響で事件を解決する夢を見ることだってある。


偶然だ。

ただの偶然。


そう考えるのが一番自然だ。


なのに――。


「シャルロット」


無意識に口から漏れていた。言ってから気づく。会長がどことなくシャルロットに似ていることに。真っ赤な髪と金色の瞳を持ち、喋り方にもどこか育ちの良さが感じられる。


会長が不思議そうに首を傾げた。思わず口に出していたらしい。


「いや、なんでもないです」


慌てて誤魔化す。会長は数秒だけ俺を見つめていたが、それ以上追究してくることはなかった。


「ふーん?」


代わりに悠斗が面白そうな顔をする。


「なんだよその名前」

「だからなんでもないって」

「彼女?」

「違う」

「元カノ?」

「違う」

「じゃあ好きな子」

「違うって言ってるだろ」

「反応早っ」


ニヤニヤ笑う悠斗。こいつは本当に空気を読むのか読まないのか分からない。助かる時もあれば、こういう時みたいに面倒な時もある。


「しかし、シャルロットですの」


会長がぽつりと呟く。


「外国の方のお名前ですわよね。」

「まあ……そうですね」

「夢の中で会った人ですか?」


その言葉に、箸を持つ手が止まった。


「え?」


「なんでもありませんわ。」

そう言って会長は小さく微笑んだ。


けれど。その笑顔の奥に、何かを確かめるような色が見えた気がした。


まるで――俺が何を知っているのか探っているような。


そんな錯覚を覚えた。


「あなた――」


会長が何かを言いかけた、その瞬間だった。


キーンコーンカーンコーン


昼休みの終わりを告げるチャイムが、食堂中に響き渡る。


「あっ」


思わず声が漏れた。


会長の言葉はチャイムにかき消され、最後まで聞き取れなかった。


「お、もうこんな時間か」


悠斗が壁の時計を見上げる。


「次の授業、移動教室じゃなかったか?」


そう言われて俺も時計を見る。残り時間はそれほどない。嫌な予感がした。


「やっべ」


悠斗と声が重なった。


「行くぞ叶結!」

「待てって!」


慌てて食器を返却口へ運ぶ。周囲も同じように立ち上がり始めていて、食堂は一気に慌ただしくなった。


「会長、それでは俺たちお先に失礼します!」

「え、あ、ああ……そうですわね。」


悠斗はそう言い残すと、俺の腕を掴んだ。そのまま半ば引きずられるように食堂を後にする。


「ちょっ、引っ張るな!」

「急がねぇと遅刻だ!」

「だからって――」


言い返そうとして、ふと後ろを振り返った。


食堂の入り口。

人混みの向こう。

そこには、まだ会長が立っていた。

俺たちを見ている。

正確には――俺を。


目が合った。


その瞬間。会長の唇が小さく動いた気がした。


『また後で』


そんなふうに見えただけかもしれない。距離もあるし、周囲は騒がしい。本当にそう言ったのかなんて分からない。


それでも。


なぜか背筋に冷たいものが走った。


「叶結!」


悠斗の声で我に返る。


「ぼーっとしてんな!」

「……悪い」


俺は前を向き直る。

廊下を走る生徒たち。

騒がしい声。

窓の外に広がる春の青空。


どこまでも見慣れた現実の光景。


なのに。


頭の中から離れない。ロンドンのような街並み。路地裏。探偵。


そして――シャルロット。


あれは本当に夢なのか?偶然?


それとも――考えれば考えるほど分からなくなる。


結局、答えが出ないまま俺は教室棟を駆け抜けた。ただ一つだけ確かなことがある。今日の夜も、きっとあの夢を見る。


そんな気がしてならなかった。


――



キーンコーンカーンコーン――


「あ〜疲れた……」


高校に入学して初めての授業日。


中学卒業からしばらく授業から離れていたせいもあり、久々の勉強は思った以上に疲れた。しかも高校の授業は中学より長い。慣れない環境も相まって、身体がずっしりと重かった。


窓の外からは運動部の掛け声が聞こえてくる。


「ラスト一本!」

「ナイスプレー!」

「まだまだいけるぞ!」


ホイッスルの音と駆け回る足音。


夕暮れが近づいているにもかかわらず、その声に疲れは感じられない。放課後の学校らしい活気がそこにはあった。


今日は連絡事項が多かったからか、一年生のホームルームは長引いていた。


その間に上級生たちはすでに部活動を始めていたらしい。


「部活か。叶結はどこか入るのか?」


荷物をまとめながら悠斗が聞いてくる。


「特には決めてないかな。悠斗は?」

「とりあえずいろんなところを見学してから決めるつもりだな。一緒に回ろうぜ」

「そうだな」


まだ少しぎこちない友人との会話。それでも、どこか心地良かった。荷物をまとめ終え、席を立つ。


「帰るか」


悠斗の言葉に頷こうとした瞬間、校内放送が鳴った。


『亜麻仁叶結くん。至急、生徒会室まで来てください。繰り返します。亜麻仁叶結くん。至急、生徒会室まで来てください』


「呼び出しか?」


悠斗が首を傾げる。その声を聞いた瞬間、昼休みの出来事が脳裏によみがえった。


『また後で』


生徒会長、西園寺夢依。そして――シャルロット。


今日、彼女と出会ってからずっと否定してきた。


似ているだけだ。


偶然だ。


夢の中の記憶を誰かと共有するなんて、あるはずがない。そう思っていた。


生徒会室へ行けば答えが見つかる。そんな確信が胸の奥にあった。


そう思った時点で、俺の中ではもう「偶然」は「必然」に変わっていたのかもしれない。


あの事件以来、止まったままだった俺の世界。最近見続けている奇妙な夢。西園寺夢依という存在。それらが繋がっているのかどうかは、まだ分からない。


それでも、何かが動き出そうとしている。そんな予感がしていた。


「何やらかしたんだ?」

「さあな」


誤魔化しながら答える。だが、呼び出された理由には心当たりがあった。


「悪い。長引くかもしれないから先に帰っててくれ」

「おう。明日こそ一緒に帰ろうな」

「了解」


そうして悠斗と別れ、生徒会室へ向かった。


――



生徒会室の前に到着すると、ちょうど扉が開いた。


「失礼しました」


中から出てきたのは一人の女子生徒だった。


「お忙しいところ来てくださってありがとうございますわ。お返事、楽しみにしております」


生徒会室の中から聞こえてきたのは、西園寺会長の声。どうやら先客がいたらしい。


すれ違った少女の顔を見て、俺は思わず目を細める。確か、隣の席の無月さん。どうして彼女が生徒会室に?


疑問を抱く俺をよそに、彼女は静かに廊下を歩いていく。やがて角を曲がり、その姿は見えなくなった。


俺がしばらくその方向を眺めていると、再び生徒会室の扉が開く。


「来ていたのでしたら、お入りなさい」


そこに立っていたのは、生徒会長――西園寺夢依だった。


夕日を背にしたその姿は、まるで俺を待っていたかのように見え、俺の胸は大きく脈打った。


「シャルロット」


これで二度目だ。


一度目は昼食時、彼女とシャルロットが重なり、無意識に口にしていた言葉。

そしてまた、彼女とシャルロットが重なって見えた。


「叶結、叶結……やはりまったく同じ名前ですのね。あなたがわたくしの助手ですのよね。亜麻仁叶結くん」


まるで答え合わせのように彼女から告げられた言葉。もはや疑いようがない。俺の夢が西園寺夢依と……いや、シャルロットと共有されている。


「そんなところで立ち止まらずに中へ入りなさい。座って話をしましょう」


俺が黙っていると、シャルロットはクスリと小さく笑い、生徒会室の中へと入っていく。俺はそんな彼女の背中を見つめながら、小さく息を吐いた。夢の中で何度も見てきた後ろ姿。けれど今、目の前にいる彼女は紛れもなく現実の存在だった。


「……本当にいるんだな」


思わず漏れた呟きとともに、改めて後を追うように生徒会室へ足を踏み入れた。


――



「聞きたいことが山ほどある」

「それはわたくしも同じですわ」


そうして俺は生徒会室に入り、シャルロットと話をした。


「あなたはどこまで覚えていますの?」

「どこまでって……」


俺の言葉を遮るように、彼女は続けた。


「はっきり申し上げますわ。叶結のことは、わたくしの夢に登場する人物だと思っていましたの。なのに、あなたは今こうしてわたくしの目の前にいらっしゃる。少し混乱しておりますわ。

「それは俺も同じだ。正直、あの夢はただの夢だと思っていた」

「では、夢の中の出来事も覚えていますの?」

「もちろん。事件の調査、シャルロットに初めて会ったことも全部覚えている」

「……そうですわね」


彼女は静かに目を伏せた。


「なあ、一つ聞いていいか?」

「何ですの?」

「夢の中で最後に会った日のこと、覚えてるか?」

「ええ。あの日、事件の手がかりを見つけたと思ったのですが、それから何も見つかりませんでしたわね」


夢を共有している。その事実だけが、はっきりとそこにあった。しかし、それ以上に何を話せばいいのか分からなかった。その言葉を最後に、お互い口を閉ざしてしまう。


カチ、カチ、カチ――。


時計の音だけが、やけに大きく聞こえてくる。


キーンコーンカーンコーン――。


「もう時間ですのね。話の続きは夢でしましょうか。ああ、それとこちらでは夢衣とお呼びちょうだい」

そう言って、俺たちは別れを告げた。


――



「やっと起きたのね」


目を覚ますと、シャルロットが俺の顔を覗き込んでいた。


「ごめん。えっと……シャルロットでいいんだよな」


今まで通り接していいのだろうか。


夢の世界の住人だと思っていたシャルロットは、実は同じ高校に通う生徒会長で、さらに俺と夢を共有していた。


その事実は、俺の中に見えない壁のようなものを作り出していた。


「そうよ。わたくしは西園寺夢衣ではなく、シャルロット。少なくとも、今はそうですの。」


なぜだろうか。今のシャルロットは、いつもより少し大人しく見えた。


「そんなことはもういいじゃない。わからないものは、わからないのだから。この話はもうおしまいですわ。」


そう言い残し、シャルロットは部屋を出ていった。


閉まりかけた扉の向こうへ消えていくその背中は、なぜだかいつもより小さく見えた。

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