第二章 第九話
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ひそひそと、話す。くすくすと、嗤う。あの日もひどい夏だった。黒板の二文字、自習。学校に乗りつけた救急車に、野次馬たちが集まってひと騒動になった。怪我の程度の大きさに、先生たちも緊急会議を開いた。
ひそひそ、くすくす、にやにや、ふふふ。
クラス全員の視線が集まっているように感じられて、脇から垂れた汗が脇腹まで冷たく伝った。丸められたレポート用紙が頭で跳ねて、振り返ってもみんな知らん顔だ。だから僕は拾わなかった。埋もれるほどに積もってしまえばいい。
先生がやってきて、六時間目の授業とすべての部活の中止を告げて、僕を職員室に連れて行った。クラスメートが何も言わずとも、目が雄弁に語っている。僕は見世物、晒し者だ。
先生の後についていくと、取り巻きの四人とすれ違った。目を伏せる直前に見たやつらの顔が、人を殺める前の狂気の顔に見えてしまった。
恐らく、と僕は思った。職員室で待っているのは警察官だ。洗いざらい話そう。そうしてしまおう。それがトモを救う一番の方法だと思えるから。でも脳裏には、毒饅頭を食わされて死んだすずちゃんが、自分になっている映像が浮かぶ。職員室のドアを開けた。待っていたのは校長先生と学年主任の先生だった。僕が中学生だからと配慮したのだ。
はい、いじめられていました。はい、木村君はバタフライナイフで僕とトモヤ君を脅しました。はい、タバコを吸っていました、チクったら殺すと言われました。裸にされて女子トイレに行けと命令されました。殴られたこともあります、蹴られたこともあります。トモヤ君の家で飼っている犬に毒饅頭を食わせて殺したと言って、大嗤いしてました。三階の渡り廊下から落とされそうになりました。はい、嘘じゃありません、全部事実です。はい、失礼します。
廊下はしんとしていた。みんな掃除をしてから帰ったのだ。誰見ない教室で付き添ってくれた担任の先生と別れてから、僕は間違ってないんだ、間違ってないんだと自分に言い聞かせた。トモはこれからどうなるのかと、聞きそびれてしまったのだけど、聞いても答えてはもらえなかっただろう。知らなかったならもちろん、知っていたとしても。
ひそひそ、くすくす、にやにや、ふふふ。ひそひそ、くすくす、にやにや、ふふふ。
ぱははははは。ぱははははは。ぱははははは。ぱははははは。もしもチクったらぶっ殺すぞ。
帰り道、チャリを漕ぎながら、確かに聞こえた。家に帰って部屋に行き、着替えているときも、確かに聞こえた。僕はチクった。トモを助けるために、チクった。もうトモはいない。誰も助けてはくれない。それは体ひとつで腹を空かせた猛獣の檻に入れられたようなものだった。ひそひそという話し声が聞こえる。ぶっ殺すと睨む目が見える。三階から落とされそうになった恐怖が蘇る。あいつらならやりかねない。あいつらなら殺す。あいつらなら、実行する、できる。僕は、殺される。チクったから、殺される。
ひそひそ、ふふふ、ぱははははは。
窓から外を、覗き見た。誰もいない。でも声が聞こえる、視線を感じる。窓に鍵をかけてカーテンを引いて、ベッドに潜りこんだ。クラスメートが話していた。木村の指が噛み千切られたと。トモがやったのだと。でも、まだ片手が使える。取り巻きの四人は無傷らしいし。仕返しをしようと思えば、できる。まさか両手の指前部を噛み千切ったわけではあるまいし。やつらはすずちゃんを嬉々として殺した。罪悪感なんて持ち合わせてはいなかった。人として、これはやっちゃいけない、というストッパーが、ない。僕にチクったら殺すと、確かに言った。僕は、僕は、僕は……殺される、のか? 嫌だ! ギシっと廊下が鳴った。それはやつらの足音だった。殺しに来た。僕は殺される。汗が噴き出るのに体の震えが止まらない。きっと惨たらしい殺され方をするんだ。
ひそひそと誰かが話している。くすくすと誰かが嗤っている。にやにやと僕を見つめている。ふふふと僕の不幸をよろこんでいる。ぱはははははと僕を愚弄する。ぶっ殺すと、睨みつける。
リュウ、晩ご飯できたよ。何してんの? 眠ってんの?
部屋のドアを開けた母ちゃんが呼びに来なかったら、僕は死んでいた。
「リュウ、なにやってんの!」
本当に、僕は何をやっているのか。
これは、僕という人間を語るうえで絶対に外すことのできない、最初に持ってくるべきことなのだが、やはりしり込みしてしまう。だって、怖いから、汚点だから、できれば触れられたくはないから。
だから家族以外では、トモしか知らない。ちよりちゃんと海さんに打ち明けて、打ち明けられて、傷が少し癒えたのだと思った。僕の心は脆弱だ。でもそれは、悪いことではないはずだ。できるなら嫌悪せず、そっとしておいてください。




