第二章 第七話
嘔吐された饅頭が傍らに転がっていた。殺虫剤を大量に振りかけられた饅頭を食べたことによる中毒死。後でトモのばあちゃんからそう聞かされた。
トモは泣いた。僕は恐怖に震えた。
「犯人はあいつらだよ。絶対そうだよ。警察に言うべよ」
「なんで……なんで……、すずちゃんは関係ねえべよ。なんで殺すんだよ。なんで……」
僕の声はトモの耳には届いてはいなかった。僕は泣き虫だから、いじめられるたびに泣いたけど、トモが泣くのは初めてに近かった。トモはわんわんとではなく、声を殺して体の内側に悲しみを封じこめるようにして泣いた。見ていられなかった。
ヒルさんに、俺がちゃんと調べっから、トモ君もリュウ君も学校行きな、と送り出されて、チャリを漕いだ。道中、何も話せなかった。こんなときにでも行かなきゃいけないのか、学校に。そして、恐らく、と思った通りになった。僕たちの教室前に、スクールカース最上位の五人組がいた。にやにやと嗤って、待ち構えていた。鞄を背負ったまま、三階の美術室前に連れていかれた。
おう、おはよう、どうした、そんな顔して、もしかして、犬でも死んだのが? ぱははははは。なんで知ってんだよ? 今朝、トモの家の前通ったら、犬死んでて、警察がなんか調べてたの、見たからだよ。嘘つくな、お前らが殺したくせに!
「誰が嘘なんてつくか! ふざけてんじゃねえぞ、てめえ。俺が犬殺したっていうのかよ、なんか証拠でもあんのかよ。俺に犬殺しの濡れ衣着せて、もし違ってたらどう責任取るつもりしてんだよ? なあ、馬鹿にしてんじゃねえぞ、こら、てめえ」
トモの胸倉をつかんで、怒鳴り散らした。取り巻きは、やっぱりにやにやしていた。僕は見ているだけでビビった。トモが何も反論できなかったのも、やっぱり怖かったからだと思う。
まあ、仲良くすっぺよ、なあ? 犬は毒饅頭でも食ったのが? ぱははははは。もうすぐホームルーム始まっから、歩きながら話すべ、そう怖い顔すんなよ、俺は、女便所に入れって言ったよな? でもお前らは入んねがったよな? 人の言うことは、ちゃんと聞かねっか駄目だって、教わんねがったが? んん、トモ? ……。リュウはどうだ? ……教わった。そうだよな、教わったよな、だったらちゃんと聞かねっかな、誰も嫌な目になんて遭いたぐねえもんな、じゃあ、また遊ぶべな、またな。ぱははははは。
それを見ていたのは、先生に言われて一時間目の授業で使う教材でも取りに来たのか、学級委員長だった。目を見開いていた。スクールカース最上位の五人組が去って行ってから小走りで僕たちのところに来て、救いの手を差し伸べてくれた。
「ねえ、リュウ君、トモ君、あいつらにいじめられてるの? 僕の兄ちゃん、三年生で柔道部の副部長やってるんだよ。もしいじめられてるんだったら、僕の兄ちゃんに言って、助けてもらおうか?」
いじめ地獄に光が差した。いるところにはいるのだ、本来、人がみな備え持つべき正義感を持った人が。僕はトモの顔も見ないで、助けて、とすがった。
「いじめられたら、むかつくよね。リュウ君には威張ってっけど、僕の兄ちゃんにはビビるくせにね。ぶっ飛ばされればいいと思わない? あんな弱虫ども」
僕はそれたすべてを肯定した。三年生が後ろ盾になってくれるのなら、もういじめられる心配はない。だから昼休みに、学級委員長に僕の兄ちゃんのとこ行こう、と誘われたときも、天にも昇る気持ちだった。風が窓の外でごうごうとうなっていて、体育の授業を校庭でやると目に砂が入って大変だろうと、サッカーやらバレーのトス回しやらをしている人たちを横目に、三階の渡り廊下に行った。待っていたのは、スクールカース最上位の五人組だった。
どういうこと? リュウ君が、むかつくとか、ぶっ飛ばされたらいいとか、弱虫とか言ってたよ。おお、そうか、ご苦労さん、もう帰っていいよ。うん、じゃあね。そうか、リュウはそんなこと言ってだのが。違うよ、言ってねえよ、むかつくげって聞かれたがら、うんって返事しただげだよ。むかつくって言ったのど同じことだっぺ。
肩を殴られた。小学生の記憶が蘇る、苦痛。そして湧き上がる恐怖。中学生になって、やつらの力はさらに強くなっていた。体格も小学生のときのそれとは比較にならないほどにたくましくなっていた。渡り廊下で聞く風の音は、悪魔だとか死神だとかの呼吸にも思えて、五人に囲まれて殴られたり蹴られたりしている僕を、嗤っていた。
「ICレコーダー持ってっかどうが、調べさせてもらあがらな」
と持っていないことを確認してから、
「トモの犬殺したの、俺なんだよ」
木村はそう自白した。
「……なんで殺したの?」
「そんなのトモがむかつくからに決まってっペ。もしチクったらお前も殺すぞ。こうやって」
そう言うと、五人は僕を抱え上げて、三階の渡り廊下から放り投げようとした。僕は一メートル二十センチほどのセメントの塀に必死にしがみついた。ぱははははは。やつらの嗤い声が、本気の殺意に受け止められた。しがみつく僕の指を、一本、また一本とはがしては嗤い、やめて、助けてと哀願すると、何言ってるか聞こえませーん、と慈悲もなく嗤った。僕の体は腕と頭以外は渡り廊下の外にある。落ちたら、死ぬ。僕は泣いていた。力をこめて頭を押されると、僕の体は簡単に塀の外に押し出される。
「やめて。お願いだがら、やめて。言うごど聞くがら」
「言うこと聞くのが。じゃあ、トモの犬殺したのは自分だって警察に言え」
「それは……」
「でぎねえのが」
また力をこめて押された。
「じゃあ、慰謝料持ってこいよ。父ちゃんの財布がらでも盗んで、十万、持ってこい」
「でぎるわげ、ねえべよ」
「じゃあ、死ね」
両手を引きはがされて、あ、落ちる……死ぬ、僕は思った。
腰のベルトを持たれて引き上げられて、僕は落ちずに済んだ。
「冗談だよ、冗談。殺すわけなんて、ねえべ。遊びだよな? 俺らはただ遊んでただけだよな? いじめなんかじゃねえよな、リュウ? あ、こいつ、ぱははははは」
僕は失禁してしまった。
「漏らしてる。漏らしてるよ、こいつ。ぱははははは」
「ぱははははは、汚ねえ。遊びなのに、ビビりすぎなんだよ、リュウ」
「ぱははははは。リュウのクラスに行って、言ってくっぺ。リュウが漏らしたって」
「それいい考えだな。リュウも来いよ。そのしょんべん漏らしたズボンのまんまでよ。ぱははははは」
「来週はトモに、同じごどしてみっぺ。あいつ片手だがら、簡単に落っこちるかもな」
僕は、止められなかった。やめてよと、その言葉が言えなかった。
「トモには言うなよ、リュウ。なあ、こないだの中間テストの結果、見だが? 俺とリュウ、同じぐらいの点数だったっぺ。ということは、高校も同じどご行くってことだよな。高校行っても仲良くすっぺな、リュウ。ぱははははは」
悪党の嗤い声というのは、なんでこんなにも耳障りなんだろう。
嘲笑うスクールカース最上位の五人組が去っていってしばらくしてから、僕はトイレへ行って、トイレットペーパーで小便を拭いた。みじめでみじめで、でも涙は出てはこなかった。手はぶるぶると、足はがくがくと震えた。昼休みの終了を知らせるチャイムが鳴るまで、自分が何を考えていたのか、わからなかった。正しくは、何かを思う、考える余裕なんてない、何も考えられない心理だったのだ。これから僕は、僕が小便を漏らしたとせせら嗤うクラスに帰らなくてはいけない。いじめられている僕に同情しないどころか、スクールカース最下位の僕がいじめられるのが面白いと、口を歪ませる人間の中で、三年、中学生活を送り、高校でもやつらにいじめられながら毎日毎日生きなければならない。僕は、何か悪いことをしたのだろうか? 喧嘩が弱いこと、運動神経がないこと、顔が不細工なことは、いじめを受けるに値することなのだろうか? 美術室に入っていくどこかのクラスの人たちの笑い声が聞こえてきて、反射的に息をひそめた。僕は五時間目の授業開始のチャイムが鳴っても、教室には戻れなかった。
僕は、トモを、友達をいじめると言った卑劣な人間に、何も言えなかった。トモならきっと言っただろう、やめてって。でも僕は、怖くて、これ以上いじめられるのが嫌で、自分が傷つくのが嫌で、言えなかった。言わなかった。やめて、たったそれだけを。
僕は、腰抜けの、卑怯者だ。
僕は、弱虫で、最低だ。
僕は、生まれながらにして、生粋の、いじめられっ子だ。
僕は……、僕は……。
五時間目の授業の終了とともに教室に入り、鞄に教科書なんかを詰めこむと、走って逃げるつもりだった。トモに声をかけられるまでは。
「どうして五時間目、休んだの? どうしたの、まさかまたやつらにやられたの?」
あらましはわかった。言葉より先に、涙が出てきた。
「どうしたの、リュウ?」
「言えないんだ。ごめん」
それだけ絞り出すと、席に着いた。トモは察してくれて、それ以上は聞いてはこなかった。今にして思えば、あのときにはもうすでに予兆があったのだ。僕に、だ。




