第三話
「よう」
「……二十年ぶりだな」
ギギッ――。
黒い不気味な霧の中からぬっと姿を現したゴブリンは、俺の言葉など理解できるはずもなく、愚鈍そうに小さく首を傾げた。
緑色の醜悪な皮膚、欲望と殺意に濁った黄色い瞳、そして血と泥に塗れた、錆び付いた太い棍棒。
忘れるはずがない。
ゲームを始めたばかりの二十年前、右も左も分からなかった俺を、何度も何度も泥を舐めさせ、殺してきた相手だ。
その瞬間――。
「きゃあああああっ!!」
「化け物だ!! 化け物が出たぞ!!」
「逃げろ! 逃げろぉぉぉ!!」
平和だった街が一瞬にして悲鳴と悲鳴の渦に包まれた。
空間の裂け目――ゲートというゲートから次々と緑色の怪物が這い出し、人々は我先にとパニックを起こして逃げ惑う。
ショックで腰を抜かして動けない老人。
親とはぐれて泣き叫ぶ幼い子供。
何が起きたのか理解できず、呆然と立ち尽くす会社員。
そして――その中には、無謀な正義感だけで飛び出していく若い男もいた。
「おい、やめろ!!」
思わず叫ぶ。
だが、パニックの喧騒にかき消され、俺の声は届かない。
青年は近くの工事現場に落ちていた角材を両手で強く握り締め、背中を向けたゴブリンへ向かって突っ込んだ。
「うおおおおお!! 死ねぇぇぇっ!!」
渾身の力で振り下ろされた角材が、ゴブリンの肩口へ直撃する。
しかし――。
バキッ!!
乾いた情けない音と共に、角材はあっけなく真っ二つに折れ飛んだ。
「グギャ?」
ゴブリンは痛がりもしない。鬱陶しそうに青年を見下ろすと、片手で棍棒を雑に振り抜いた。
ドゴッ!!
「がはっ……!?」
生々しい破壊音。
青年の身体が羽虫のように数メートル吹き飛び、アスファルトの道路へ叩き付けられた。
立ち上がれない…胸骨がバキバキに砕け、異常な形に大きく陥没していた。即死ではないが、もう長くない。
「……やっぱりか」
俺は小さく、冷たい息を吐き出す。
ゴブリン。
『No Game』においては、文字通り最弱クラスの雑魚モンスター。
……だが、それは現実では違う。
無力な現代人からすれば十分すぎるほど絶望的な殺戮モンスターだ。
「油断したら……一瞬で死ぬ」
二十年間、あの理不尽なクソゲーが俺の脳裏に最初に叩き込んできた鉄則だ。
青年の肉体を足蹴にしたゴブリンが、ゆっくりとこちらへ向き直る。
ギロリ、と濁った瞳が俺を捉えた。
「グギィッ!!」
不快な咆哮を上げ、地面を蹴って一気に距離を詰めてくる。
来る…
奴の攻撃パターンは身体に染み付いている。
まずは右肩を大きく上げる。そして重量に任せて棍棒を縦に振り下ろす。
それをかわされれば一度後ろへ距離を取り――
「そのあと、跳躍して飛び込んでくる」
俺は最小限の動きで、半歩だけ右横へ身体を滑らせた。
ブォンッ!!
風を切る突風と共に、棍棒が俺の鼻先数ミリを掠めてアスファルトを砕く。
攻撃を外したゴブリンは、予測通り反動を利用して瞬時に後ろへバックステップを踏んだ。
やっぱりだ。動きのフレームまでゲームと完全に一致している。
次は――
「ジャンプだ」
ゴブリンの脚力が跳ね上がり、身体が宙へ浮いた。
空中に逃げ場はない。着地点は完全に決まっている。
俺は足元に転がっていた、拳大のコンクリートの瓦礫をひょいと拾い上げた。
全身の筋肉と神経が、超感覚的に理解した、この瓦礫をどう握ればいいか、どこの関節を使って、どこへ投げれば一番威力が乗るか、相手のどこを狙えば一撃で致命傷になるか。
まるで、この重さの石を何千回、何万回と投げ続けてきたかのように。
《全武器適性》発動
投擲適正 S
これが称号――《歴戦の記憶》。
俺はゴブリンが着地するより一瞬早く、腕を鋭く振り抜いた。
ヒュンッ!!
空気を切り裂く、高音が響く。
「速っ……!?」
投げた本人が驚くほどの初速だった。
ドゴォッ!!
投げ放たれたコンクリート片は、吸い込まれるように空中のゴブリンの額――眉間の真っ芯へと命中した。
「グゲェェッ!?」
頭蓋骨が内側から砕け散る、鈍い破壊音。
ゴブリンの身体が宙で大きく仰け反り、地面へとドサリと崩れ落ちる。
本来なら、怯ませて隙を作る程度の攻撃のはずだった。
だが…ゴブリンはピクピクと足が痙攣し、そのまま二度と動かなくなった。
「……え…。」
一撃……嘘だろ…。ゲームなら、初期装備のナイフで突いても最低五、六発は叩き込まないと倒せなかったはずだ。
「これ……単なる《全武器適性》のスキル補正だけじゃない」
称号の隠された効果か、あるいは20年の記憶が体に染み付いていたか…初めて触れた瓦礫だとしても武器として扱えた。
そう考えるしかなかった。
だが――。
「考えている暇はない…‼︎」
「助けて!! 誰か助けてえええっ!!」
「いやぁぁぁぁ!! 来ないでぇっ!!」
街のあちこちから、血を吐くような凄絶な悲鳴が絶え間なく聞こえてくる。
ふと振り向いた先では、腕を食いちぎられた男性が大量の血を流しながら倒れていた。
母親は幼い子供を覆い隠すように抱き締めたまま、迫り来る怪物に泣き叫んでいる。
黒い排気ガスと血の匂いが混ざり合い、美しかったはずの日常の道路が赤く染まっていく。
ゲーム画面のピクセルで何度も見てきた光景。
だが、それが生々しい臭気と音を伴った『現実』として目の前に広がる恐怖は、次元が違っていた。
「うっ……げほっ……!」
突如、激しい胃の悪心が喉元までせり上がってきた。
耐えきれず、俺はその場に膝をつき、激しく胃液を吐き戻した。
息が苦しい。視界が涙で滲む。指先がガタガタと震えて止まらない。
それでも――。
「……吐いてる暇なんか、ねぇんだよ……っ!」
袖で汚れた口元を強く拭い、無理やり立ち上がる。
知っている。俺だけが知っているんだ。
この一体を倒した程度で、安心できる段階なんて疾うに過ぎている。
もし、ゲーム通りならば…
5分後にはゲートから溢れ出た数十体が近隣を包囲する。
10分後にはその数が数百体に跳ね上がり、この街は完全に封鎖される。
1時間後に到着する警察や自衛隊は、怪物たちの前になす術もなく全滅する。
ここからが、本当の『地獄の始まり』だ。
その時だった。
ピロン、と。
脳内に直接届く、聞き慣れたシステム音が鳴り響く。
⸻
【MISSION CLEAR】
チュートリアルミッションを達成しました。
経験値を獲得しました。
Lv1 → Lv2
100Gを獲得しました。
サバイバルナイフを獲得しました。
──《最後のプレイヤー》発動──
ミッション報酬 × 2
200Gを獲得しました。
サバイバルナイフ × 2 を獲得しました。
⸻
「本当に……報酬が2倍になってる……」
俺は空中に出現した【受け取り】のボタンを強く押し込んだ。
瞬時に光の粒子が集まり、二本の無骨なサバイバルナイフが手の中へと実体化する。
ズシリとした重量感。手のひらに伝わる、冷たい金属の感触。
紛れもなく本物の武器だ。
その直後、俺の視界全体が、血のように禍々しい真っ赤なエフェクトで染め上げられた。
⸻
【緊急ミッション】
『市役所前のゲートを防衛せよ』
難易度:D
制限時間:09分58秒
失敗時予測死亡者数:2,143人
⸻
「……始まったか」
制限時間のカウントが、一秒、また一秒と削られていく。
数字の重みが、そのまま2,000人以上の命の重さとして重くのしかかってくる。
足は震えている…心臓はうるさいくらいに鳴っている…怖いし、逃げたい。
……それでも。
「行くしかない。」
俺は歯を食いしばり、ナイフを握って駆け出した。




