第四話
通りすがりに何人もの人々を救助し、襲いかかってくるゴブリンの群れを倒しているうちに、想定以上に時間が経過してしまっていた。
「くそ……だいぶ時間を食った……!」
俺は荒い息を吐き出しながら、市役所へと続くアスファルトの道路を全速力で駆け抜ける。
走る頭の中に、さっきまで助けていた人々の怯えた顔が次々と浮かんでは消えた。
もしこれがゲームなら、そんな無駄な寄り道は100%あり得ない。 最短ルートをノーリスクで走り抜け、必要最低限の戦闘だけをこなしてミッション地点へ向かう。
それが攻略における最適解だった。
けれど――ここは画面の向こうのゲームじゃない。 目の前で悲鳴を上げる生身の人間を見捨てて、効率重視の最短攻略なんて割り切れるほど、俺の心は冷酷になりきれていなかった。
「……っくそ、なんなんだよ…」
自分に自嘲気味な愚痴をこぼしながら、市役所前の広場へと辿り着く。
「……あれ?」
予想外の光景に、俺は足を緩めた。 市役所の周囲には、わずか数匹のゴブリンの残党しか見当たらない。
「まだ……本格化してないのか?」
いや、違う。俺はすぐに違和感の正体に気がついた。 緑色の皮膚をしたゴブリンの死体がいくつも転がっている。そして――人間たちが、現実に武器を取って戦っていた。
「急がないと……!」
視界の端に浮かぶミッションの制限時間を確認する。
残り時間:00分45秒。
「もう時間がない……!」
俺はサバイバルナイフを強く握り直し、残ったゴブリンへ向かって踏み出そうとした。
その瞬間だった。
「くたばれぇぇっ!!」 「グギャアッ!?」
横合いから勢いよく飛び込んできた一人の男が、長槍を鋭く突いた。 ゴブリンの胸を寸分の狂いもなく貫通し、そのまま凄まじい脚力で地面へ叩き伏せる。
「次だ! 外すなよ!」
別の男が素早く弓を構え、弦を引き絞って解き放つ。
「ギャッ!?」
矢は一直線に飛び、ゴブリンの右目に深く突き刺さった。怪物は顔を押さえて地面をのたうち回る。
さらにその横では、長剣を携えた女が、ゴブリンの凶刃と激しく金属音を響かせて斬り結んでいた。
「はぁぁぁっ!!」
ザシュッ!! 眩い剣閃とともに、ゴブリンの太い腕が宙を舞った。
「……」
俺は思わず足を止めた。 彼らの身体の遣い方は、明らかに普通の一般人のそれではない。
槍を持つ男の、隙のない踏み込みと鍛え抜かれた前腕…弓を持つ男の、怪物の予備動作を完全に予測したかのようなエイム…剣を振るう女の、流れるような美しく無駄のない身のこなし。
「こいつら……一体何者だ?」
俺の知る『No Game』の記憶には、サービス開始の瞬間にこんな即戦力となる人間たちは存在しなかった。
あっちの世界では、世界にダンジョンが現れた瞬間、すでに全員が『システム』を理解したプレイヤーとして存在していた。装備も、スキルの扱いも、モンスターの攻略法も前提として持っていた。
だが――この現実では誰も何も知らないはずだ。 それなのに、目の前の人間たちは自らの肉体と生存本能だけで、すでにゴブリンと対等以上に渡り合っている。
「……それでも」
俺は冷静に周囲の戦力を分析した。 市役所前のアスファルト広場に集まっている戦力は、ざっと百人程度。 少し離れた市民ホールや商業施設に避難している人々を含めても、戦える者はごく一部だ。
「これだけじゃ……絶対に足りない」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。 ゲームでのこの防衛ミッションは、十分な装備を整えたプレイヤーたちがパーティを組んで挑む前提の難易度だった。
それでも――
「……途中で、何十人も死んだんだ」
今のこの手探りの戦力では、到底耐え切れるはずがない。
ミッション画面に刻まれた最悪の予測数字――【失敗時予測死亡者数:2,143人】
この悪夢のような数字が、現実の血と骨となって目の前に転がることになる。
「まだ……準備できる時間は数秒ある……!」
俺は踵を返し、周囲に転がっている拳大の小石や、破壊されたコンクリートの砕片をがむしゃらに拾い集め始めた。 一つ。二つ。三つ。四つ。 ズボンのポケットと制服のポケットに、使えそうな投擲用の瓦礫を片っ端から詰め込んでいく。
「な、何やってんだ、あいつ……?」
「この緊急事態に、石ころなんて拾ってどうするつもりだ?」
怪物と戦う生存者たちが、怪訝そうな視線を向けてくる。 だが、そんな好奇の目を気にしている余裕など微塵もない。
俺には分かっている。 このカウントダウンが『ゼロ』になった瞬間、何が怒涛のように押し寄せてくるのかを。
カチ……カチ……カチ……。
広場全体に、どこからともなく不気味で無機質な秒針の音が響き渡り始めた。
「……なんだこの音?」
「時計……? いや、どこから聞こえてるんだ!?」
周囲の生存者たちが動揺し、ざわつき始める。
俺は即座に視界のミッション画面を限界まで展開した。
残り時間――10秒。
「来るぞ……!!」
9…
8…
7…
「全員、武器を構えろ!!」
俺は広場全体に届くような大声で叫んだ。
「え……?」
「急に何なんだよ!?」
説明している時間など一秒だって存在しない。
6…5…4…
「前だけを見るな! 空間から出て来るぞ!!」
3…2…1………。
――0
ズゴォォォォォンッ!!!!
瞬間、市役所の正面広場の空間そのものが歪み、十数を優に超える巨大な黒いゲートが同時に牙を剥いた。
「な、なんだあれは!?」
「空間が割れた……!? 門が……急に!?」
黒く汚濁した霧が一斉に噴き出し、周囲の視界を奪う。 そして――。
「グギャッ!!」
「グギィィッ!!」
「グゲゲゲゲッ!!」
一匹。二匹。三匹、四匹、五匹……。
目を光らせたゴブリンの群れが、黒い門から吐き出されるように溢れ出てきた。
十。二十。三十。四十。五十――。
「……五十体」
俺は冷ややかに呟いた。
ゲームの進行と完全に一致している。 さっきまで数匹しかいなかった怪物の群れが、一瞬にして市役所前の広場を埋め尽くした。
「そんな……こんな数……勝てるわけないだろ……」
先ほどまで勇ましく槍を振るっていた男の膝が、ガクガクと震え、アスファルトへ崩れ落ちた。
「無理だ……こんなの、人間が戦っていい数じゃない……」
広場に一瞬で絶望の感染が広がっていく。
いくら身体能力が高く、武器を持っているとはいえ、彼らは今日初めて怪物の存在を知った「生身の人間」なのだ。
――だが。
「……本当の地獄は、ここからだ」
俺の知る『No Game』の攻略データベースにおいて、この五十体の雑魚ゴブリンなどただの前座に過ぎない。
ゴブリンの群れが分厚い壁を作るその奥――。 市役所の正面玄関を丸ごと飲み込むほどの、一際禍々しく巨大な漆黒のゲートが、ギギギと重い音を立てて開き始めた。
「来るぞ……」
ズン…………。 ズン…………。
地鳴りのような踏み込み。 あれほど獰猛だった五十体のゴブリンたちが、まるで絶対的な捕食者を恐れるように左右へと散り、道を開けていく。
そして――。
ドゴォンッ!!
姿を現したのは、通常のゴブリンとは比べ物にならない圧倒的な存在感があった。
三メートルを超える体長に、岩壁と思わせるほどの筋肉に、丸太のような腕、大人がすっぽり隠れるほど巨大な棍棒…。
「グルルルルルァァァッ……!!」
「……ゴブリンロード」
俺の喉が、引きつったように無意識に鳴った。
忘れるはずがない。 『No Game』を始めたばかりの二十年前。 まだ初心者だった俺たちが、最初に味わわされた――絶望の象徴。
五十体の雑魚など問題ではない。 このミッションにおける本当の絶望は、間違いなくこいつだ。
ただ俺には…行動パターン、攻撃の判定領域、怒り状態のトリガー、そして致命的な弱点。
頭の中には、攻略データがすべて叩き込まれている。
「……俺なら…きっと殺せる」
震える手を押さえつけながら、ゴブリンロードを睨んだ。
だが問題は――周りの人間たちだ。 この巨獣が暴れ回る中で、五十体のゴブリンの攻勢を、無力な彼らが抑えきれるかだ…
その時だった
猛烈な疾風とともに、一人の男がゴブリンロードへ向かって一直線に駆け抜けた。
「おらぁぁぁぁッ!!」
ドォォォンッ!!
男は片手で振るった巨大な大剣を、ゴブリンロードに容赦なく叩きつけた。 なんとあの三メートルを超える巨体が、たった一撃で数メートル後ろへと吹き飛ばされた。
「はっはっはっ!!」
血と絶望が充満する戦場に、場違いなほど豪快で腹の底から響く笑い声が弾けた。
「随分と、威勢のいいデカブツが飛び出してきたじゃねぇか!!」
そこに立っていたのは、一人の規格外の男だった。 身長は二メートルに迫り、太い腕に胸板の厚い圧倒的な肉体。そして、その手に握られているのは――男の身長ほどもある、圧倒的な存在感を放つ鉄の大剣。
「……誰だ、あいつ……?」
俺は思わず呟いた。
男は大剣を軽々と片肩に担ぎ直し、凶悪な眼光で立ち直りかけたゴブリンロードを鋭く睨みつける。
「よし、決めたぞ」
男は獰猛に口元を歪め、大剣を地面へ一突きにして見せた。
「そのデカブツの相手は――この俺だ!!」
「グルァァァァッ!!」
ゴブリンロードが空気を震わせる咆哮を上げる。 男は一切の気おくれもなく、一歩前へ踏み出した。
「他の奴らは、周りのチョコマカ動く雑魚どもを頼む!! 俺の背中は任せたぞ!!」
その雷鳴のような破顔の一声が、死に体だった市役所前に響き渡った。
「……あいつ、あのデカブツに一人で挑む気か!?」
「俺たちも……俺たちもやるぞ!!」
「そうだ……ここで引き下がったら、後ろの家族が殺される!!」
先ほどまで膝をついていた槍の男が、血の滲む手で再び立ち上がる。
震えていた弓の男が、歯を食いしばりながら素早く矢を番える。
絶望に支配されていた広場の空気が、男たった一人の存在によって、劇的な『闘志』へと塗り替えられていく。
士気…
この絶望的な状況下で、全員の戦意を極限まで跳ね上げたのは間違いなくあの男だった。
「……すごいな」
俺は心底から漏れる感嘆を呟いた。
しかしながら、このミッションは、そんな気合で乗り切れるほど甘くはない。
ゴブリンロードというモンスターを、俺は二十年間で何百回と狩り続けてきた。 その規格外の破壊力も。 常軌を逸した耐久力も。
そして、一定のHPを削った瞬間に発動する『即死攻撃』のタイミングも。
「……あの男は」
俺はサバイバルナイフの柄を限界まで握りしめた。
「……立ち回りを知らない。そのままじゃ死ぬ」
この戦場で唯一――俺だけが知っていた。




