18
茉理は、どこかふわふわとした感覚に囚われた。
(何だろう、何かわたし、浮いてる気がする)
辺りは静かな闇の中、でもどこか落ち着いて温かい。
闇の中にちらちらと瞬く星のような輝きがある。
(ああ……ユーフォリアみたい)
茉理は静かにゆっくり下へ下へと落ちていった。
まるで深海の底にでも沈んでいくような感覚である。
でも少しも怖くない。
むしろ深く意識が沈むごとに、心が落ち着いていく。
(不思議だ。とても心地よい)
そして更に深淵の奥へと降りていって――。
唐突に視界が開けた。
――そこは煌びやかな大広間だった。
美しく着飾った紳士淑女が、グラスを片手に談笑している。
広間の扉が開き、一人の青年が背後にお供らしき者たちを従えて入ってきた。
皆、その青年に向かって頭を下げる。
青年は真っ直ぐ上座に向かい、用意されていた椅子に座った。
彼が着席すると同時に音楽が始まり、人々はまた楽しそうに動き始める。
青年の方に、一組の男女がやってきた。
父と娘の二人だ。
青年はグラスを給仕から受け取って、ゆっくりと中の酒を楽しんでいる。
「雷導様、本日はご招待誠にありがとうございます」
父と娘は、彼に向かって深く頭を下げた。
「藤か。何用だ」
青年は尊大な態度で、父親の方に言葉をかける。
「こちらは先日お話した娘のゆり子でございます。雷導様にご挨拶を」
「ゆり子と申します」
娘は鮮烈な赤いドレス、血のように深いガーネットの宝石を耳と首につけていた。
黒髪は美しく結い上げられ、むき出しの白いうなじと肩は妙にそそる色香がある。
面白そうに青年は、ゆり子を頭から足の先までゆっくりと値踏みした。
「悪くないな。お前、俺に仕える気はあるか」
「はい。光栄でございます」
ゆり子は頬を赤らめて、うっとりと彼を見る。
「ふん、いいだろう。俺の番になるがいい」
そう言うと、雷導はグラスを横の卓に乗せ、立ち上がった。
ゆり子の側に来ると、ぐっと細い腰を引き寄せる。
客人たちの目の前で、彼は乱暴に彼女に口付けをした。
皆、驚いて上座の二人に視線が集中する。
ゆり子の唇を堪能した雷導は、彼女の腰に手を回したまま、広間中に響く声で言い放った。
「今この時より藤家長女藤ゆり子を、クリスティ総帥伊集院雷導の番とする」
「おおっ、次の方をお決めになったか」
「おめでとうございます」
「クリスティ本家に繫栄あらんことを」
「後継ぎの誕生を心待ちにしております」
広間中に二人を祝福する声と拍手が響く。
満足そうな顔で、雷導はゆり子の手を掴んだ。
「踊るぞ」
「はい」
夢見るような笑顔で、ゆり子は雷導に合わせて中央に出て踊る。
幸せいっぱいの顔をしている彼女とは反対に、雷導は少し意味深な笑みを浮かべていた。
あえて表現するなら、目の前の者すべてを馬鹿にしているような皮肉っぽさがある表情とでも言うべきか。
広間にいる若い令嬢たちは皆、選ばれたゆり子に羨望のまなざしを注いだ。
何もかも華やかで煌びやかで、あのドス黒い感情などどこにも存在しない。
(これは過去なの?)
茉理はたゆたう意識の中でそう思った。
目の前で見せられている光景は、過去の情景だろう。
(以前もこんなことあったな)
彼女は夏休み、偶然にも帝をライバル視する少年天の川翔太と出会い、彼と帝の過去を垣間見た。
彼女の意識の中でのことだったので、過去本当にあったことかどうかはわからない。
でも何故か確信があった。
――あれは本当にあったこと。
過去というより今でも彼の――翔太の心の奥に燃え上がる意思と共に息づく想いの源泉なのだ。
(これはゆり子様の心の中)
茉理はそう感じ、移り変わる場面をじっと深く見つめる。
煌びやかな広間はいつの間にか消えて、別な部屋になった。
贅をこらした家具調度の中、窓辺にうずくまり悔し涙を流すゆり子がいる。
「どうして、どうしてなの、雷導様っ」
彼女は床をどんどん拳で叩き、激しく彼の名を呼んだ。
「わたくしを選んだのに、あの日あんなに想いを込めてキスしてくださったあなたが、どうして……」
「番様、どうか落ち着かれませ」
控えていたメイドが彼女の背中を優しく撫でる。
痛ましそうにゆっくりと、メイドは慰めの言葉を口にした。
「貴方様のお腹には今、あの方のお子がいます。大事なお子です。嘆いていては、お腹の子に障りましょう」
「大事ですってっ」
ものすごい憤怒の情をあらわにして、ゆり子はメイドに食ってかかる。
「あの方にとってこの子は大事でも何でもないわ。もしそうなら、わたくしにこんな仕打ちはなさらない。大事な子を宿す女の目の前で、別な女を寵愛などするわけがないでしょう」
窓辺の下から、楽しそうな笑い声が聞こえた。
すぐ横の庭園に、雷導の姿が見える。
彼だけではない。
その横に幸せそうに寄り添っているのは、金色の髪を優雅に垂らした貴婦人だ。
二人の間には、金髪の巻き毛を持つ可愛らしい令嬢がいる。
「お父様、見て見てっ、このお花凄く綺麗」
「はしゃぎすぎよ、麗華」
貴婦人が娘に微笑みかけた。
「でもお父様もそう思うでしょう?」
「そうだな。だが俺には花よりお前の方が何倍も愛らしいぞ」
ははは、と滅多に見せない極上の笑顔で雷導は娘の髪を撫でる。
実に微笑ましい親子三人水入らずの光景だ。
数歩離れた距離にある館に、彼の子を宿した女が囚われているというのに――。
館の二階の窓辺から、激しい嗚咽と叫びが響いてくる。
だが三人はそれを無視して、楽しそうに散策を続けた。
(ひどい……こんなのってないよ)
茉理はその光景を見て、胸が痛む。
(どうしてあの人を愛さないの? あなたが選んだのではないの、ゆり子様を)
彼らの笑い声が庭園に満ちるたび、ゆり子の心に亀裂が走った。
少しずつだが亀裂は広がり、どうしようもないほど心が裂けていく。
その衝撃的な音が、茉理には聞こえた。
どうすることも出来ず、ただ彼女は涙を流す。
誰かの心が深く傷ついて、削れて割れて、本来の美しい形から歪な何かへと姿を変えていく。
一緒に苦しみを感じながら、ただ黙って見ていることしか出来ない自分。
(ゆり子様……)
選ばれた喜び、自分こそは特別な存在、あの人にとって大切な人間。
二人でダンスを踊ったあの夜から、ただ彼の事だけを想い、生きてきた。
美しい装い、化粧、好みそうな話題、喜びそうな仕草や言葉。
あらゆる部分に気をつかい、自分自身を見失ってもかまわないと思うほどに、彼の愛は貴重だった。
庭園は消え、再び暗く陰気な部屋となる。
ゆり子の純情は無残にも踏みにじられ、嘲笑と侮蔑の言葉がかかった。
「俺がお前を愛したって? 一度だってそんな事はないな」
彼女の前で尊大に言い放つ雷導の傲慢な声。
「俺がお前を欲したんだじゃない。お前の家がお前を押し付けてきたんだ。クリスティの権力と財力、俺の血を引くガキを欲しがってな」
「そんな……」
「そんな女をどうして俺が愛する必要がある? 俺にはお前もお前の生むガキも必要ない。そもそも額に家の紋章を刻んだガキを欲しているのは、くだらん慣習に囚らわれてる一族の爺どもだ。俺はそんなもの、欲しいと思ったことは一度もないね」
「でもわたくしは、あなたを本気で」
「本気? 嘘つくなよ。お前も俺を理想の王子様かなんかと勝手に勘違いして、ただ妄想で創りあげた自分好みの男に当てはめて懸想してるだけだろうがっ。そんな女が本気で俺を愛してるだと? 笑わせるなよ」
雷導は嫌な笑みで、ゆり子に罵詈雑言を浴びせていく。
「じゃあ聞くが、お前は俺がただの男だったら本気になれるのか。クリスティ一族の長じゃない、伊集院財閥の総帥でもない、魔力すら並みの男以下、家も学歴も親もいない、そんな孤独で惨めな男だった場合、お前はそれでも俺の女になれんのか。どうなんだ」
心の奥に燻る怒りの波動。
茉理は雷導の言葉から、それらを感じ取る。
(この人も、本当は傷ついてる。それを怒りに変えてぶつけている)
何て悲しいのだろう。
お互いどちらもすでに傷つき、破綻し、壊れていた。
互いの痛みを相手にぶつけて傷つけあい、己の心の均衡をなんとか保とうとしている。
(ああ……こんなのは駄目だ)
茉理はそう思った。
自分にはどうすることも出来ないけれど、でもそう思うことは止められない。
もう過去は変えられない。
未来を掴もうにも、現実世界で二人にはもう以前の若さはない。
きっと再びどこかで幸せになれる未来を得るには、遅すぎる歳なのだ。
(せめて二人の子どもたちや孫は――帝先輩や藤先輩、今わたしの目の前にいる一族の人たちは)
こんな風に傷ついて終わって欲しくない。
どこかで必ず心の傷を癒し、望む未来を得ることが出来ますように。
想いは祈りに、祈りは願いに、そっと形を変えていく。
茉理が強く願ったその時に、再び意識が上へと浮上した。
(戻るんだ、わたしの世界に)
何となくそう感じた。
恐怖も怒りも何もない。
ただ静かに胸の奥に降り積もる悲しみと、それをこれ以上増やしたくないと願う熱い想いがあった。
(行かなきゃ、大事な人たちのいるところへ)
茉理は上昇する意識に身を任せ、瞳を閉じた。
「……お姉様っ、お姉様」
次に目を開けた時、視界に入ったのは必死に自分を揺さぶるるいの顔だった。
「あ……るいちゃん」
「お姉様―っ」
茉理の声に、るいはがばっと彼女に抱きつく。
「もう突然倒れるからどうしたのかと思いました。保健の先生はいないし、回復魔法使える人たちは校庭に出払っちゃっていないし、どうしようかと。でも良かったあ」
彼女のぬくもりに、茉理はゆるゆると記憶が戻っていった。
そうだ、今は旗取り合戦の最中である。
「お姉様、大丈夫ですか」
更に頭の上から声が降ってきた。
れいが表情の変わらぬ冷静な声で、安否確認してくる。
「もうれいちゃんったら、こんな時ですらそんな何もありませんって顔して。本当に無表情なのも困りものですわ」
るいがプリプリ怒ると、れいは茉理に手を差し出した。
「起こします。立てますか」
「あ、うん」
茉理は腕を引っ張ってもらって、起き上がる。
少しふらふらしたが、涼しい風の一吹きで気持ちがしゃんと目覚めた。
「ありがとう。もう大丈夫」
「それは何よりです」
れいはそう言うと、彼女の顔を覗き込む。
「顔色も悪くありませんね。少しいいですか」
彼女は茉理の手首を取ると、そっと魔力を流し込んだ。
(あ、これって何となく雅人先輩の薔薇みたい)
時々雅人がくれる薔薇には、香りに精神を沈めてリラックスさせる効果がある。
あの香りを吸ったときと同じように気持ちが落ち着いてきた。
「大丈夫そうですね」
れいはそう言うと、手首を離す。
「うん、ありがとう」
茉理から校庭に目をやりながら、ぽつんとれいは問うた。
「参考までにお聞きしますが、倒れた原因に心当たりは?」
「……」
茉理はどう言ったものか思い悩んだが、二人には心配させてしまったし、本当の事を話そうと思った。
「あのね、信じてもらえるかわからないんだけど」
彼女はそう前置きして、先程意識を失った時に見たもの、感じた事を二人に打ち明ける。
「そうですか。了解しました」
「そうだったんですね、お姉様。お辛かったことでしょう」
二人は何と茉理の言う事を変な風に取ることもなく、まるっと信じてくれた。
「え? そんな簡単に信じられる話かな」
自分で言うのもなんだが、まさかそんな風にあっさり受け入れられるとは思わず、茉理は二人に聞いてしまう。
「お姉様が嘘を言うわけはありませんし、私達にそんな事をする理由もないでしょう」
「そうですわ。るいはお姉様の味方です」
ぎゅっとまた抱きつかれ、茉理はあわてて受け止める。
「それにお姉様が見たビジョンは、おそらく本当に過去の出来事だと推測します。伊集院雷導様の偏愛は一族の中でも有名ですから」
「え?」
「本家は何としても祖先から受け継いだ魔力を子孫に伝えるため、紋章を持つ者に己の運命の相手を見つけるまで、伴侶探しを強制します。額に紋章を持つ子を産むことの出来る女性が現れるまで、その可能性がありそうな女性と子どもを作らないといけないという悪習は、そこから生まれました」
「そうなの?」
「はい。そして紋章を持つ子を得るために、時には無情でひどい事も相手の女性に沢山行ったと言われています」
「そうだったんだ」
「例えばこれはと思う女性にすでに伴侶や恋人がいた場合、最悪相手を殺して女性を無理やり攫うとか」
「ええっ、それって犯罪……」
「魔法で周囲の記憶を操作すれば、なかったことに出来ますので」
茉理は絶句した。
「あともし出来た子に紋章が無かった場合、早々に次の相手を探さないといけないので、屋敷から追い出して実家に戻します。当然子どもも一緒に」
「そんな」
「クリスティ一族が初期の頃、国中の魔族を倒して服従させ、支配しているのは、どんな無慈悲な行いをしても文句を言わせないためだと言われています」
「本当最低ですわよね」
るいもれいに同調して、ぶつぶつ言う。
「ていうか、二人ともクリスティ一族じゃなかった? 第二の分家なんでしょ」
茉理の突っ込みに、二人は顔を同時にしかめた。
「そうなんですの。まったくこんなしがらみ有りまくりの家に生まれたくなかったですわ」
「生まれる場所や親は選べませんので、残念ですが」
そう言ってれいは深いため息をつく。
「雷導様はクリスティ一族総帥なので、紋章を持つ子を得るまで女性と交際を続けたのですが、どの女性も決して愛さなかった事で有名です。唯一一番最初に迎えた人と彼女が生んだ娘のみを溺愛し、他の女性たちにはひどい仕打ちをしたと言われています」
茉理は意識の中で見た光景を思い出す。
庭園で、嬉しそうに笑う父と母と女の子。
(あの貴婦人みたいな綺麗な女性が、唯一雷導様が愛した人なんだ)
金色の優雅な巻き毛と輝く翡翠のような瞳。
「……麗華、だっけ」
茉理はぽつんと女の子の名を口にすると、二人は驚いた。
「お姉様、どこでその名を?」
るいの問いに、茉理は答える。
「さっき見たの。庭園で雷導様と金髪の綺麗な女の人と可愛い女の子が散歩していてね。雷導様が女の子の事をそう呼んでいたんだ」
「驚きましたわ」
唖然とした顔で、るいはつぶやく。
「やはりお姉様の能力は凄いですね」
「そうかな。あ、もしかしているの? 本当にクリスティ一族に麗華さんって。雷導様の娘でさ」
「はい。伊集院麗華様。雷導様が溺愛した伊集院家のご令嬢です」
れいが教えてくれた。
「そうなんだ。今、何をしている人なの?」
「芸術に興味をお持ちで、ピアニストでした。病気にかかって亡くなりましたが」
「えっ、そうだったんだ」
「うちの分家代表だった北原綾人様と結婚して、変態ナルシストの息子が生まれました」
「自由奔放で、けっこう我侭なお嬢様だったって聞いてます。結婚しても姓は変えたくないということで、綾人様は北原の姓を捨てて伊集院姓になりましたの」
(へ、変態ナルシストの息子って……ああっ、まさか)
茉理の中でパズルのピースをはめるように、ピタッと情報が合わさる。
「雅人先輩のお母さんなんだ」
「そういうことです」
「そっか、それで」
茉理は納得した。
(雅人先輩の金髪と緑の瞳は、お母さん似なのね)
元を正せばおばあさんに似たというのが正解なのだろうか。
「その変態ナルシストですが、先程から何にもしてませんね」
あきれたようにれいは、校庭を見て言う。
茉理も思い出して、校庭に目を向けた。
(そうだった。森崎先輩と藤先輩の勝負の途中だったんだ)
あれからどのくらい経ったのか。
もう勝敗はついたのか。
あせって把握しようとする茉理の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
「何、あれ……」
「水で出来た大蛇ですね」
「いや、そうだけどさ」
D組の陣地に、巨大な滝のようにざあざあ流れる長い水流で出来た魔獣が出現していた。
頭部は水の渦がぐるぐると平面状に渦を巻き、その上に直樹が立っている。
ぐねぐねと蛇だけに地面に勢いよく渦巻く水流でとぐろを巻き、水の大蛇は時々長い水鉄砲でも放つかのような舌をピロッピロッと出して、目の前の氷竜を威嚇していた。
「か、怪獣みたい」
「特撮映画が撮れそうですね」
茉理の感想に、れいが同意する。
双方とも屋上に届きそうなほど高く巨大だ。
対する氷竜の方は、昇を頭部に乗せて鼻から白い鼻息を出している。
「竜VS大蛇ってやりすぎでしょ」
るいがあきれた声を出す。
「本当に目立つのがお好きな人たちですね。魔力消費の無駄遣いもいいところです」
「あれだけ大きいのを維持するのって、魔力がたくさんいるの?」
「もちろんそうなります。お二人が他者より数段高い魔力持ちだからこそ可能なわけですけど」
るいは、はあっとため息をつく。
「ここまでやったら周囲も大迷惑ですわ。まったくもう加減ってものを知らないんでしょうか」
「えっ、周りって……」
茉理は校庭を見回す。
特に異常な事は見当たらない。
D組とE組の他の生徒たちはそれぞれの陣地で旗の周囲に集まり、防御バリアを張って己の身を守っている。
C組はというと、やはりお城の中に全員が入り、城全体を薄い膜のようなもので覆って衝撃に備えていた。
「大丈夫そうだけど」
茉理の言葉に、るいは見てればわかります、と返す。
最初に動いたのは、氷竜の方だった。
すうっと息を吸い込むと、次の瞬間ボアアッと勢いのある白い吐息を大蛇に向かって浴びせかける。
その威力たるや凄まじい吹雪でも起こったかのようだ。
ザアザア勢いよく水が流れていた大蛇は、たちまち凍りつく。
「凄い」
「あの巨体を一発で凍りつかせるとか」
「おーっほほほほほっ、さすがですわーっ」
校庭から驚愕の声が上がった。
最後の嬌声は聞かなかったことにして、茉理は絶望的な顔で凍りついた滝になってしまった大蛇を見る。
(森崎先輩が負けちゃうの?)
だが次の瞬間、大蛇の体に亀裂が走り、氷は瞬く間に砕け散った。
さすがの威力ある氷の吐息も絶えず流れる水流を氷結させることは残念ながら無理だったようだ。
おおーっとこれまた驚きの声が校庭から上がる。
「凄い」
「さすが悪知恵黒眼鏡ですわ」
「負けてませんね、直樹様」
三者三様の感想をもらし、屋上で息をのんで勝負の行方を見守る茉理たち。
次の攻撃は直樹からだった。
水の大蛇が激しい水流を帯びた体躯を伸ばし、氷の竜に飛びかかる。
「わっ」
派手な水飛沫が飛んで、クラスエリア内はまるで大雨でも降ったかのような有様だ。
周囲の生徒達が濡れネズミになるのもかまわず、大蛇は氷の竜の体に自らの体を巻きつけ、激しい水流で氷の体を削ろうとする。
「グエエエエーッ」
竜から悲鳴のような叫びが上がった。
首や四肢を駆使して、竜は大蛇を振りほどこうと暴れまわる。
巨体同士、陣地の外側にも体をぶつけ、エリアの外側で防御結界を張る教師たちが必死に魔力を練り上げて防御壁を死守しないといけない状況に追い込まれた。
「おいっ、そっち薄くなってる」
「わっ、森先生っ、しっかりしてください」
「三河先生、こっちにも治癒魔法、お願いします」
あまりの衝撃に支えている教師の中からも魔力切れで倒れる者が続出する。
(うわっ、大変なことになってるじゃない)
るいがさっき言っていた思いっきり周囲の迷惑になっている二体の攻防戦。
屋上から見ていたら迫力ある映画の一シーンにでもなるけれど、地上にいる人たちにとっては大問題だ。
直樹と昇はそれぞれの魔獣の頭部からにらみ合い、一視もはずさぬ構えで魔獣をぶつけ合う。
(迫力あるとは聞いてたけれど、これほどとは思わなかった)
竜はなんとか飛翔して、大蛇を両腕で引きちぎる。
しかし一瞬千切れても直樹の魔力で水の流れはまた再生し、大蛇は体制を立て直して竜に体をぶつけてくる。
竜が大蛇と共に双方絡み合って地面に激突し、衝撃で周囲のものが凍りついた。
激突の瞬間、竜が天高く白い吐息を吐いたため、降ってきた氷結ブレスでクラスエリアは防御結界すら氷結してしまう。
そこに大量の水飛沫。
「中の人たち、寒そうですわね」
「全身濡れた体で氷点下。全員明日は風邪決定です」
「うーっ、本当に迷惑ね、この対戦」
茉理はクラスTシャツで震え上がっている三年生たちに同情した。
竜の尻尾と大蛇の水流体がぶつかり合い、何度も上から雨のように水や氷の欠片が降ってくる。
三年生たちはそれぞれ必死にバリアを張ったり、土魔法で壁を作ったりして自身の安全を確保していた。
直接攻撃は来ないといっても、もはや実戦に近いレベルになりつつあるD対E組の戦い。
大将同士の魔力はほぼ互角。
互いに拮抗しており、このまま何時間も続くかに思われたが、しかしいつかはどちらかに軍配が上がる。
絡み合っていた二体だったが、ついに氷竜の体が限界を迎えようとしていた。
度々激しい水流に表面の氷を削られ、更に本来なら主である直樹を攻撃しないといけない竜の精神が極度の洗脳状態で崩壊し始める。
大きな氷の体に音を立ててひびが入り、今にも割れそうだった。
(あ……壊れる)
茉理がそう思うのと、最後の攻撃とばかり昇が竜の首を突っ込ませて大蛇の首元を思いっきり突き上げてボクシングでいうならアッパーカットを一発入れたその時。
ずるっと直樹の足が大蛇の上から滑った。
「ああああーっ」
見ていた茉理も、周囲も驚いて叫んでしまう。
直樹の体が、屋上にも届くほどの大蛇の頭部から地面に一直線に落下したのだ。
同時に激しい水流の大蛇も体を維持できなくなり、崩壊する。
大量の水が一気にあふれ、旗取り合戦の五角形の地面はすべて水浸しになり、防御結界の中で生徒達があちこちに流されるという惨事に陥った。
「うわあああーっ」
「水が、水があっ」
「流れが速すぎるっ」
自身を包む防御結界ごと、あるいは生身で。
皆水流の動きに乗ってあちこちに流されてしまう。
直樹が落ちる瞬間、同時に氷竜もパリリンっと派手な音を立てて割れた。
そして水流の中に氷の欠片となって落ちて同化する。
昇は割れる瞬間、空中に浮遊魔法で避難して砕ける氷竜の巻きぞいはくわなかった。
(森崎先輩は大丈夫かな)
直樹はというと、やはり水流に飲み込まれ、姿が見えない。
「あの性悪眼鏡のことなら心配いりませんわ、お姉様」
るいが不安そうな顔をしている茉理を気遣って声をかけた。
「水と氷の魔術師が笑っちゃいますわね。自身が操っている水から足を滑らせて落ちるなんて」
「凄いうっかりミスでしたね。まさか最後がこれとは」
二人とも直樹に対して辛らつな評価をする。
「いや、でもがんばってたと思うし」
何とか彼を庇おうと茉理は言ってみたが、ぴしゃりとるいに一蹴された。
「お姉様の目にはそう見えたのでしょうけど、わかる人間にはわかりますわ」
「あんな無駄の多い戦い、直樹様らしくありません」
れいも同意する。
「あれは……わざとですよ」
「わざと?」
わけがわからない茉理に、れいは冷静な声で言った。
「直樹様はわざと無駄に魔力を消費する戦いをして、わざと藤昇に負けたのです」
「え」
「つまり理由はわかりませんけど、藤昇を派手に勝たせるために一芝居打ったということですわ」
「そんな」
茉理は二人の言ってることが理解できず、呆然とする。
(わざと負けた? どうして、森崎先輩がどうしてわざと藤先輩に勝ちを譲るの?)
ここで直樹が勝たなければ、帝の立場が危ういというのに。
「たぶんこの水が引いたら、もう勝負はついてますよ」
「あの性悪眼鏡の事です。わざと水流に自軍の旗を乗せて、E組に流しているはずです」
二人の予想は真実のものとなった。
しばらくして大蛇の水が引いたあと、なんと水流に飲まれてD組にあった赤い旗と緑の旗が、しっかりE組の陣地に――それもあの赤いドレスの人形の金髪に刺さっていたのである。
それを確認し、校庭からどよめきが起きた。
昇は自軍の人形から旗を三本抜き取ると、高く掲げる。
拍手と共にE組の勝利、D組の敗北が確定した。
旗取り合戦 D組 敗北。
――残り 2組。




