10
開会式が終わって各クラスまで行進していく途中で、茉理はぐいっと手を横から握られた。
「お姉様」
れいが目立たぬように彼女を列から引っ張ると、すぐに呪文を唱える。
あっという間に、茉理はまた教科準備室に瞬間移動した。
「お姉様、急いでください」
あせる口調で、るいがくまの着ぐるみを茉理に渡す。
彼女は急かされて大急ぎで着替えた。
「ではお姉様、行きますよ」
そう言って、るいはまた茉理を瞬間移動させる。
次に来たのは来賓席。
一番豪華な玉座のような金メッキの椅子の横だ。
「良かった。ゆり子様はまだ来てませんね」
るいがほっと胸を撫で下ろす。
彼女はいつのまにか体操服から白うさぎの衣装に戻っていた。
正面の校庭を見ると、三年生の徒競走が始まろうとしている。
茉理は整列した生徒の中から、金の髪をなびかせた後姿と黒眼鏡をかけた横顔を見つけ出した。
(あれってやっぱり山下先輩だよね)
美しい貴公子のような容姿を持つ雅人は、白地に黒でCと大きく書いたTシャツを着ている。
しかしよく見ると彼のTシャツだけ、左右の肩に羽飾りがしっかりついていた。
(雅人先輩、よっぽど羽をつけたかったんだな)
以前のとんでもない羽だらけのデザインを思い出し、茉理は着ぐるみの中でため息をつく。
(中身は山下先輩よね。本当はあのTシャツ、着るのすごく嫌がりそう)
雅人と違い、英司はどちらかというとシンプルな物を好みそうだ。
派手で華やかな物は必要なさそうな性格である。
しかし今は雅人に変化しているため、自分の嗜好は置いておくしかなかったのだろう。
黒眼鏡の直樹は緑のTシャツだ。
しかし他の生徒と比べて、シャツの布地に若干違和感があった。
どうも粘着性のありそうなゼリーみたいな布である。
(あれはアレね。 自分の趣味を貫く根性だけは凄いわ)
半ば呆れて、茉理は二人がスタートラインに並ぶのを見守る。
勝負の行方を眺めていたかったが、彼女はそれどころではなくなってしまった。
「ちゃんと待っていたのね、おりこうなくまちゃん」
背筋に走る悪寒。
茉理はあわてて礼をする。
ゆり子が重そうなドレスと羽をひきずって、はあはあと荒い息遣いで椅子に腰掛けた。
そのままぜいぜいと椅子の手すりにもたれて苦しそうである。
「大丈夫ですか、奥様」
横に控えていた執事が、ゆり子の手首を取ると脈を確認した。
「誰に向かって聞いているのかしら、穂積。この永遠の美しさと若さを兼ね備えたわたくしが、たかがワンステージでバテると思うの?」
「失礼しました」
凄い強がりだが、執事は心得たように引き下がる。
「さあ、くまちゃん。こっちにいらっしゃい」
(うっ……行きたくないよ)
側に寄るのも正直なところ身震いするほど嫌だったが、香坂先生の首がかかっていると思うと拒否出来ない。
おっかなびっくり側に寄ると、ぎゅっと抱きしめられた。
(ひえーっ、そんなにすりすりしないで)
ドウランを塗った顔をこすり付けられ、茶色の毛が白っぽく染まる。
その反面、ゆり子の顔は白粉がはげるわ、太く描いたアイカラーは滲むわ、口紅もはみ出しひどい状態になった。
「あら」
顔を上げ、くまのお腹が化粧まみれに汚れているのを見て、ゆり子は眉をひそめる。
「どうしたの、くまちゃん。こんなに汚れちゃって」
(あなたのせいだよ)
茉理はそう言いたいのをぐっと我慢した。
「女王陛下、くまはおふろに入れた方がよろしゅうございます。綺麗にしてきますので、少々お待ちください」
さっとるいが横からそう言って、茉理の手をぐいっと引く。
「このままでは女王陛下のお召し物が汚れてしまいますわ。ふわふわの触り心地良い毛並みにしてから参ります」
「いいでしょう。早く戻ってくるのですよ」
何とか茉理は、ゆり子のすりすり攻撃から開放された。
るいはそのままくまの手を引いて、物陰に入る。
「るいちゃん?」
「しーっ、お姉様。一旦準備室に戻りますよ」
そう言って、彼女は茉理をまた瞬間移動させた。
準備室には誰もいない。
「そう言えばれいちゃんは?」
茉理が首をかしげると、るいはにっこり笑顔でご心配なくと笑う。
「ちょっとトイレに行くと行ってました。そんなことよりお姉様、着ぐるみを脱いでくださいな」
洗わないと、そう言ってるいは着ぐるみを茉理から引き剥がした。
「お姉様、そろそろ入場門に行かないと。次は1年生の徒競走ですよ」
「あ、そうだった」
あわてる茉理に送りますねと言って、るいは彼女を瞬間移動させてくれた。
入場門では徒競走の順番に1年生が並んでいた。
茉理がゆり子にべたつかれている間に三年生は終わってしまい、今は二年生が走っている。
「茉理、いたっ」
もうどこにいたのよ、と奈々に言われ、彼女はあわてて列の中に入った。
(今日は、こんなのばかりだな)
瞬間移動も何回目だろう。
(雅人先輩の身代わりに英司先輩、ちゃんと走れたかなあ)
応援したかったのだが見逃した。
残念に思う茉理だったが、雅人様格好良かったとはしゃいでる奈々の姿が目に入り、どうやら無事に乗り切ったようだと胸を撫で下ろす。
観客席からどよめきが上がった。
他の4人の走者を大きく引き離して、英司がゴールテープを切ったのだ。
「さすが英司様」
「クリスティ分家の代表だけあるよ」
「あのスピードは凄かったですな」
父兄席から漏れ聞こえる賞賛の声。
(英司先輩、流石ね)
雅人先輩の身代わりをしてから、即効瞬間移動で二年生の列に入り込んだに違いない。
気苦労が絶えないけれど、それをしっかりこなす辺り彼も相当の実力者だ。
さわやかな笑顔で1と書かれた旗の後ろにいる英司は、文句なく勝者である。
「ほら、茉理。前進むわよ」
ぼーっとしない、後ろにいる奈々に背中を小突かれ、茉理は前の生徒に続いて小走りで校庭に入った。
校庭の真ん中にスタートラインが引かれ、50メートル先には係がゴールテープを持って待っている。
(そんなに早く走れないけど、がんばろう)
順番が来たので、スタートラインに立った。
胸がどきどきする。
「位置について、よーい」
パアンッと教師の鳴らすピストルの合図で、一斉にスタート。
とにかく前だけ見て、必死に走った。
ゴール前で後ろから一人追い上げられ、テープを先に切られてしまう。
(あーっ、惜しい)
1位にはなれなかった。
2と書かれた旗の後ろに並びながら、茉理は肩で息をする。
1の旗には青いTシャツ――E組の子が並んだ。
弾む息を整えながら、彼女は全員が走り終わるまで待つ予定だった。
だが後ろから声がかかる。
「お疲れ様でした、お姉様」
「れいちゃん?」
背後の声の主を振り返って確認するひまもなく、茉理の背中に手が当てられる。
次の瞬間、空気が揺れて視界がぶれた。
(わっ、まただ)
彼女はまた魔法で準備室に移動する。
「お姉様、お帰りなさい」
満面の笑顔で、るいが着ぐるみを抱えて待っていた。
「あ……ただいま」
めまぐるしい移動に、茉理の頭は混乱する。
まだ息のあがっている彼女に、るいはペットボトルの水を差し出した。
「すみませんがお姉様、これを飲んで、すぐ着替えてください。来賓席でゆり子様がくまちゃんはどうしたのと雄叫びを上げてまして」
「うっ……わかった」
(あの騒音攻撃に来賓たちが晒される前に戻らないと)
茉理は急いで水分補給し、また着ぐるみの姿になった。
着ぐるみは汚れを落としてふわふわの毛に戻っている。
(この短時間に凄いなあ。きっと魔法ね)
手洗いなんかしてたら、とてもじゃないけど徒競走の間に終わらないだろう。
「では行きます」
また瞬間移動で、くまはゆり子のいる来賓席に舞い戻った。
「お待たせしました」
「あらあ、きれいにしてもらったのね、くまちゃん」
ゆり子はにたあっと笑うと、機嫌を直してぽんぽんと自分の座っている席の横を叩く。
いつの間にか金ピカの椅子が、革張りの三人がけソファに変わっていた。
「失礼します」
茉理はゆり子の横に腰掛ける。
くまの王子様と絢爛貴婦人。
遠目から見たらビジュアル的にほほえましかったかもしれないが、近くで見るとこれほど滑稽な組み合わせはなかった。
「ゆり子女王陛下。ご機嫌はいかがでしょうか」
実行委員長の藤昇がやってきて、挨拶する。
「ほほほ、先程の徒競走。見事でしたわ。流石わたくしと伊集院雷導様の血を引く孫。次の競技も期待していますよ」
「はあ、その伊集院総帥の名前を出すのはやめてください。僕は公には孫じゃないですし」
「孫は孫でしょう。公も私も関係ございません。あなたは立派に伊集院家の血筋なのです」
不機嫌そうに言い切られ、昇はそれ以上何も言わずに、一礼して来賓席から出て行った。
「まったくあの子にも困ったものね。いい加減己の立場を自覚すべきなのに」
ぶつぶつそうこぼすゆり子に、茉理は思わず聞いてしまう。
「藤先輩は、本当に伊集院総帥のお孫さんなんですか」
「あら、くまちゃん。知らなかったの? そうよ。あの子はまごうことなき雷導様の孫。あの子の父親はわたくしと雷導様の愛の証なのよ」
扇でばたばた扇ぎながら、目をトロンとさせてゆり子は語る。
「若かりし頃のわたくしは、まさに華の華。どこへ行っても殿方に囲まれて、皆がわたくしの愛を受けたいと切望していましたのよ。ねえ、穂積」
「はい。奥様はそれはもうお美しゅうございました」
後ろに控えた執事が、すかさず合いの手を入れた。
「でもそこらの魔族の男たちでは、名家の出で非の打ち所のない美貌と才を持つわたくしにつりあうわけないでしょう。適当にあしらっていたら、やはりあの方からお声がかかりましたわ」
「あの方?」
茉理が問うと、ゆり子は老女ながら少女のように頬を染め、雷導様よと名を口に出す。
「お若い頃のあの方に比べれば、そこの黒髪の若造なんて比較にもなりませんわ。ああ、何と雄雄しき姿であったことか。常に王者の風格を漂わせ、周囲の者たちを平伏させて堂々と歩かれるあの勇姿。お屋敷で催された舞踏会で、わたくしの手を取りダンスにお誘いくださったの。もちろんダンスだけではなく、そのあと求婚されましたわ」
(求婚って……じゃあ正式に結婚したのかな)
愛人だと聞いていたので、茉理は首をかしげた。
「あの方と過ごした蜜月は、わたくしの生涯で最高の時間でしたわ。片時もわたくしを離さず、ずっと愛をささやいてくださった。なのに」
バサっと扇を広げ、ゆり子は目を伏せて顔を扇で隠す。
「あれだけ愛してくださったのに、満を生んだわたくしを、あんなにあっさり捨てるなんて! わたくしの人生に、ついに悲劇の場面が訪れたのです」
茉理は横から何と言ってよいかわからず沈黙した。
ゆり子は、まるで舞台で芝居の台詞でも語るかのようにせつせつと言葉を続ける。
「満と共に屋敷から追い出され、実家に戻ったわたくしは、もう人生に何の希望も持てずにおりました。愛する人との離別。残された幼い息子。あんなにも美しく輝いていたわたくしが、こんな惨めで悲惨な立場におかれるなど、決してあってはならぬこと。何故わたくしは、こんなにも胸引き裂かれそうな苦しみを味合わなければならないのか、いくら考えてもわかりませんでしたわ」
彼女の言葉にまるで呼応するかのように、突然物悲しいバイオリンの調べが校庭に鳴り響いた。
(えっ、嘘……まさかバックミュージュックまで?)
一瞬驚いた茉理だが、次の瞬間違うということがわかる。
校庭で二年生女子のダンスが始まったのだ。
曲はバイオリン曲として有名なチゴイネルワイゼン。
物悲しい旋律から始まる序盤、哀切を奏でる中盤、そして最後は情熱的なリズムを持って燃え上がり、音が弾けて終わる。
あまり音楽にくわしくない茉理でも、この曲は知っていた。
(リズムが変わるし、踊りにくい曲だと思うんだけど)
でもそれを上手くアレンジして、二年生たちは細長い布をひらひらと振りながらステップを踏む。
時折持っていた白い布が、赤や黄色、青などに変化した。
(あれって魔法だよね。そっか、二年生から魔法の授業があるんだっけ)
茉理は自分の悲劇に酔いしれているゆり子をほっておいて、校庭のダンスに見とれる。
曲の後半では布はクラスカラーに変わり、それが校庭中に渦を巻いて虹のように美しかった。
「……そしてわたくしはしばらく家に篭もり、毎日泣き暮らしておりました……って、くまちゃんっ、聞いてますのっ?」
ぼんっと扇でお腹を叩かれ、茉理はあわてて横を見る。
ほぼ涙目で、ゆり子がしだれかかってきた。
「ああっ、くまちゃん。本当にわたくしは辛かったのよ。わかってくださる? もう死んでしまおうかと思うほどに苦しかったのよよよよーっ」
そう言いながら、くまにぎゅーっと抱きつき、すりすりと身を寄せる老女。
(もう勘弁して欲しい)
そう思いながら、茉理はよしよしとくまの手でゆり子の背中を撫でてあげた。
「優しいのね、くまちゃん。ありがとう」
ゆり子はにたりと笑って、また体を起こす。
「でもそんなわたくしをお母様がご心配くださって、ご贔屓にしてらした歌劇団の舞台にお連れくださったの。夢のような世界、舞台の華やかさ、そこで演じられる女主人公の波乱に満ちた恋物語。そしてわたくしは悟ったのです。何故この美と才を兼ね備えたわたくしが、こんな悲劇に見舞われるのかを」
「な、なんででしょうか」
思わず突っ込んでしまったが、ゆり子はにっこりと微笑んだ。
「それはわたくしが女主人公だからです。人生は舞台の上で演じられるお芝居のようなもの。試練の時は必ず来るし、最後はハッピーエンドで終わると決まっているのですわ、ほほほほ」
「は、はあ」
確信を持って言い切られ、茉理はそれ以上何も言えなくなる。
「だからわたくしは女主人公として生きると決めましたの。いずれ女王となるわたくしにふさわしい装いと言葉遣い、わたくしを讃える歌劇団。広い屋敷と家具調度。あと足りないものは、あの人だけ」
「あの人?」
「女王の側には王様がいるに決まっているでしょう。わたくしにふさわしい夫は雷導様だけ。どんな手を使っても、あの人の持つ権力と財力を手に入れて、わたくしの事を認めさせてみせるわ。このわたくしこそが、隣に並び立つにふさわしい唯一の女だとね」
そう言うと、ゆり子はまた扇で扇ぎながら、自信たっぷりに笑った。
(それでこんな奇抜な格好してるんだ。自分が女主人公だからか)
茉理はとりあえずゆり子が歌劇嗜好な訳を理解する。
――ああ、何故わたくしがこんな目に合わなければならないの。そんなの認められないわ。
ふと心の奥で声がした。
(誰?)
悲しみに打ち震える女性の姿が、いきなり脳裏に浮かんでくる。
――そうなのね、わたくしがこんな目に合うのは、わたくしが物語の主人公だから。いずれ最高の幸せを手に入れる女王だから、こんな試練が来るんだわ。
床に身を伏せて泣いていたのに、拳を握って女性は立ち上がる。
――決してわたくしが悪いからではないわ。魅力が無くなったからでも、性格が悪かったわけでもない。わたくしは完璧な淑女だもの。そうよ、わたしのせいじゃない。
そう言って女性は歪んだ笑みを浮かべた。
――今はこんなに惨めでも、必ずあの人はわたくしの元に戻ってくるわ。絶対にあきらめない。わたくしは女主人公なのよ。最後に必ず幸せを掴む未来が待っているの。
「……」
突然見えたビジョンに、茉理はくまの中で身を震わせた。
(今の人は……もしかしてゆり子様?)
何故かわからないが、自分の中で感じた誰かの深い感情。
それは横にいる老女のものだと、茉理は思った。
(根拠なんてないけど、たぶんそうだ)
側にいるから心の奥が伝わったのだろうか。
普通そんなことはありえないのだけれど。
悶々と考えていた茉理の横から、執事の穂積が声をかける。
「奥様、そろそろ衣装変えのお時間でございます」
(衣装変え?)
茉理は首をかしげた。
「あら、もうそんな時間なの?」
「はい。次の競技は全学年クラス対抗の綱引きでございます。特に見る必要のある競技でもございませんでしょう。今のうちに御召し替えをなさるとよろしいかと存じます」
「そうね。そうしましょう」
よっこらしょっとゆり子は椅子から立ち上がる。
「くまちゃん、いい子で待っていてね」
茉理はゆり子から離れられるのが嬉しくて、ぶんぶんと手を横に振った。
「あらあら、元気ね。すぐ戻るからおりこうにしてるのよ」
(いや、もう戻ってこなくていいです)
心の中でそう思いつつ、彼女はゆり子がよたよたとドレスを引きずって退場するのを見送った。




