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FATUM  作者: 紙仲てとら
第三章

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95話

「たすけて……」

 黒い粒子の中、彼が見たのは柱に縛り付けられているひとりの女だった。消え入りそうな声で繰り返し助けを求めている。

「あなたは……」

 彼女のうつろな目と目が合うなり、マクドウェルは銃口を下ろし駆け寄った。

「シスター・エミリア!なぜこんな……」

 慌てて縄を解きながら問うたが、エミリアには答える力もない。ただ、唇をわななかせながら、深く息をついた。

 カールソンも銃をしまってエミリアに近づき、腰に下げていたナイフで足首の縄を切る。解放されたエミリアは、倒れ込むように床に膝をつき項垂れた。その身を支えたカールソンは、小さく震えている彼女の背中をやさしくさする。

「一体なにがあったのです」

 マクドウェルは放心しているエミリアの蒼白の顔を覗き込んだ。まばたきもせず地面を見つめたまま黙り込んでいる彼女に再度言葉を掛けようとしたが、消耗しきっている人間を問い詰めるのは酷だと思い直し、唇を結ぶ。

 状況はあまりに異常で、謎に満ちている。修道女がなぜここに拘束されていた?クレアはどこへ?グラーツ博士に儀式を施したのはいったい誰なんだ?

 数々の疑問を頭に浮かべながらエミリアの様子をしばし見つめていたが、やがて彼はカールソンに目を遣った。

「シスターを俺の家に連れていく。君も来い」

「え?彼女の自室に連れていけばいいじゃないか……夜明け前ならまだ他の修道者も起きてこないだろうし」

 訝しげな表情の彼の肩を掴み自分の方に引き寄せたマクドウェルは、

「噛まれているかもしれない」

 そう短く耳打ちする。

 唇を結んだカールソンは目だけを動かしてエミリアを見る。ブラウスのボタンが取れ白い首があらわになっていることに気づいた彼は、息を呑んでマクドウェルに視線を戻し、微かに頷いた。

 ふたりは両側から彼女の体を支え、立ち上がるよう促す。そして、3人は静かに外階段を下りていった。



 湯を沸かし、清潔なタオルを用意する。

 遠慮するエミリアを半ば無理矢理バスルームに押し込めると、マクドウェルはようやく肩の力を抜いた。

 屋敷に向かうまでの道中、エミリアは一言も発することなく項垂れていた。土と砂埃に汚れ酷く顔色が悪かったが、大きな怪我をしているわけではなさそうだ。室内の明るい光の下で、首や手首などをさりげなく観察したが、吸血された痕跡もない。

 無理やり連れてきたのは――もちろん吸血痕を確認するためだが、あの状態で独りにするのがいささか心配だったからでもある。

 温かい湯で身を清め人心地がつけばいくらか気分も晴れるだろう……そう思いつつバスルームの扉前から離れた彼はドレッシングルームを通り抜け廊下に出た。

 捲っていたシャツの袖を戻しながら大窓の前で足を止め、外を見遣る。視線の先に広がる穏やかな丘陵の向こうに太陽が顔を出している。

 緑の牧草地に点々と散る羊たちを眺めていると、背後に気配を感じた。

「シスター・エミリアのご様子はいかがです?」

 声の方に振り返ると、そこに立っていたのは妻のダイアナである。

「擦り傷程度の怪我だったから心配いらない。体も服もだいぶ汚れてしまっていたし、さっきバスルームに案内したところだ」

 早朝4時。すっかり身支度を整えている彼女を見て、彼は苦く笑った。

「騒がしくしてごめんよ」

「お気になさらず」かぶりを振ったダイアナは、わずかばかり首を傾げる。「それにしても、シスターはなぜこんな時間に外へ?」

「薬草は朝摘みするのが決まりらしくてね。夜が明けきらないうちに森に入って探していたら、ぬかるみで足を滑らせて転倒してしまったらしい。いや……酷い状態だった」

「ああ、さようでしたか……」

 短く答えたダイアナは、長い睫毛を伏せた。手の中に握りしめたレースのハンカチーフを揉みながら、なにか言いたげにしている。それを見たマクドウェルはそっと笑って、彼女に近づき肩を抱き寄せると、耳にくちづけ囁いた。

「何も告げず真夜中に家を出たりして悪かった。不安にさせたね」

「……朝まで連れまわすだなんて、悪いお友達ですこと」

 カールソンのことを言っているのだ。マクドウェルは情けなく眉を下げたまま片手で顔を拭う。

 ダイアナはおもむろに伸ばした指でシャツの襟をなぞり、上目遣いで彼を見つめた。

「紅のあとがないか、あとで確認しなくちゃ……」

 片眉を上げた彼女にマクドウェルは困ったように微笑み、首を横に振る。

「ダイアナ……俺には君しかいないよ。昨日の夜は『射手の庭』で酒を飲みながらポーカーをしてただけだ。ついつい熱中してしまって、気づいたら朝に……」

「そう。ならば明日、アドマールがお酒を配達しにきたときに言っておきます。うちのひとが昨晩のようにゲームにのめり込みすぎていたら、私に連絡してほしいと。構いませんわね?」

「まいったな……」

 つぶやいたマクドウェルは、観念したとでも言うように両手を上げた。

「実は……――刃物を所持した覆面の男たちが複数人、ナックバレー大通りをうろついているという目撃情報があったと、ウォルター・ラシードから知らせがあってね……手伝いに駆り出されていたんだ」

 彼の言うこのウォルターという男は、レイモンド公爵が連れてきた人間で、多くの治安官をまとめる治安長官である。

「なぜ、あなたに連絡が?もう治安官の任は解かれたというのに……」

「どうやら奴の部下たちは治安官としての自覚が足りないようだ。ここのところ大きな事件もなかったから気が緩んでいたのか、全員酔いつぶれていて使い物にならなかったらしくてね。ウォルター・ラシードはいけすかない奴だが、住民の安全が脅かされているとなれば無視するわけにはいかない。だからアレックスやかつての仲間たちに声を掛けて内密に、任務に当たったというわけだ」

「まあ、そうでしたの……」

 素直な彼女は微塵も疑う様子なくつぶやいて、恥じるように顔を赤く染め顔をうつむけた。

「疑ったりしてごめんなさい。どうかお許しくださいませ」

「謝るのは俺の方だ。家を空けることが多くてすまない」

 甘い声で言ったマクドウェルは彼女の小さな頤を指先で掬い上げ、そっと唇を重ねる。

「元治安官の手を借りただなんて周囲に知れたら、ラシード殿の面目が丸潰れだ。未来を嘱望される若き治安長官さまのために、どうかこの話は誰にも言わないでおいてくれないか」

 嘘をついていることに胸を悪くしながらも、普段通りの自分を装って言う。頷いたダイアナは彼の唇についばむようなキスを返すと、潤んだ目を細めた。

「すぐに朝食の用意をさせますわ」

「ああ……よろしく頼む」

「アレックス様があなたの執務室の寝椅子に横になられていて……もう一歩も動けないとおっしゃっていますから、食堂ではなく執務室に運ぶようハロルドに伝えておきますね」

 そう言うと、夫の腕から抜け出て廊下を歩き出す。

 マクドウェルはその背中に呼び掛けた。

「ダイアナ」

 立ち止まり振り向いた彼女を前に、声を呑む。不思議そうに小首を傾げ、次の言葉を待っている妻から目を逸らして、彼は小さく言った。

「よかったのか?あのドレス……」

「私のものでは体に合いませんでしょう?それに、敬愛していたシスター・エミリアに着ていただけたら、あの子も喜びますわ」

 微笑んで目礼した彼女はキッチンルームの方へ静々と歩いていく。曲がり角の向こうに消えるまで見送っていたマクドウェルは、沈鬱な表情で小さく息をついた。

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