94話
階段の途中にある踊り場で、ふたりは一度足を止めた。乱れる息を殺してそっと下を覗くと、白砂の道を歩いて行くジョンストンの背中が見えた。
ふたりは詰めていた息を吐き肩の力を抜いた。マクドウェルは今にも倒れ込みそうになりながら残り数段をゆっくりと上っていく。
疲労困憊の状態で鐘楼の最上階に辿り着いたときには、東の空がほんのりと赤く燃え始めていた。
薄明の中に佇み、マクドウェルは中央の巨大な鐘を見上げる。
――懐かしい。在学中、立ち入り禁止ときつく言い含められていたにもかかわらず密かにここへ上って来て、決められた時刻になると自動で時を知らせる鐘の音を聴いていた。整備され淀みなく噛み合う歯車の音、魂を浄化するような荘厳な響きにこの上なく癒されたものだ。
遠い過去を回想していると、カールソンが前傾姿勢になりながら苦しそうに上ってきた。呻きながら腰を伸ばし、辺りを見回す。
「おや?誰もいない。血の痕はここまで続いてるのに……」
無防備な様子で歩き回る彼に、マクドウェルが鋭く声を飛ばす。
「おい、危ないぞ。ひとりでうろうろするな」
「君の方こそ用心したまえ。物思いに耽っているとさらわれてしまうよ」
カールソンは笑いながら言って、天井から下がる鐘を回り込み、奥へと進んでいく。その背中を溜息で見送った次の瞬間、緊迫した声が耳に届いた。
「チャーリー!」
「なんだ!どうした」
「早く来て!」
響き渡る叫びに尋常ではない様子を感じ取った彼は、すぐさま彼の元に駆けつける。
暗闇の中でカールソンは、愕然と立ち尽くしていた。その視線の先に、男の死体が横たわっている。
ふたりは言葉をなくしたまま遺体を見下ろした。
肌は黄土色に干乾び、骨に皮を一枚貼り付けただけのように見える。白髪まじりの髪はじっとりと濡れ、ほとんど抜け落ちていた。まぶたは深く落ちくぼんでおり、まるで笑っているかのように細められている。
胴体と切り離された頭は両脚の間に置かれており、口いっぱいに詰め込まれた銀貨が歯の間で鈍く光っていた。額にはエピヌの星が血で描かれ、左胸に白木の杭が深々と刺さっている。
「なんてことだ……」
吐き気を堪えたカールソンが口元を腕で覆う。
真新しいシャツの首元に血が付着していることに気づいたマクドウェルは、指先で襟をめくった。そこにはやはり、吸血痕がある。
彼は黙って襟を戻すと、死体の傍にある黒い鞄に近づき口金を開いた。中身は医療器具だ。内側に、持ち主の名前が金の糸で刺繍してある。
「――ランドルフ・グラーツ」
「博士の遺体?だとしたら……」
「牢から連れ出したクレア・オルビーにやられたんだろう」
マクドウェルは険しい顔で腕を組み、感情を抑えた声で言う。カールソンは指に残っている血の痕を薄闇の中で見つめた。
「魔物の血は黒いと聞く。扉の前の地面からここに続いていた血痕はクレアのものに違いない……」
「博士に襲いかかって反撃されたのかもしれないな」
そうつぶやいたマクドウェルの目の先にクロスボウが転がっている。そこからすこし離れた場所に、黒く汚れた矢が落ちていた。
カールソンはクレアの血がついた手を握りしめ、冷たくなったグラーツ博士に視線を戻す。
「怪我を負わせたのが博士とは限らないよ。この状況を見るに、ここにクレアと博士以外の誰かがいたことは明白だ」
遺体の左胸には杭が刺さっているが、服は全く汚れていない。全身の血液を吸い取られたあとに打ち込まれたことが見て取れる。
「博士がクレアに吸血されるのを目撃したその人物が、ヴァンパイア化することを防ぐために古の儀式を施した。神命使徒の会の祈祓師か研究所の構成員かはわからないけど、この儀式を知っているほどヴァンパイアの生態に詳しい人物がクレアを見逃すはずがない……彼女は戦って傷を負い、逃げたんじゃないだろうか」
カールソンの推察に同意を示すように頷いた彼は静かに立ち上がり、難しい顔で顎鬚を撫でた。するとそのとき、
「――す、けて……」
どこからか細い声が聞こえる。驚いたふたりは口を噤み周囲を見渡した。
柱の陰で何かが動く。視界の端でそれを捉えたマクドウェルが叫んだ。
「誰だ!」
胸元から小型銃を出し、銃口を向ける。マクドウェルに倣い、カールソンもその方に体を向け、素早く銃を構えた。
沈黙が落ちた。ふたりは緊張の面持ちで少しずつ柱との距離を縮める。近づきながら目を凝らしてよく見ると、並ぶ石柱の一本に荒縄が巻き付けられている。
月明かりの届かないところでまたしても影が動いた。マクドウェルは汗ですべるグリップを握り直し、荒縄の巻かれた石柱にゆっくりと近づいていく。




