92話
暗闇に目を凝らしていると、奥まったところにある牢の扉が小さな音を立てながら開いた。鉄格子の向こうでゆらりゆらりと影が動くのが見える。マクドウェルは姿を隠しカールソンに振り向くと、人差し指を唇に当てた。
「どうしたの」
吐息のような声で尋ねてくる彼に目配せし、
「通路の奥、牢の中に誰かいる」
抑えた声で口早に返すと、再び壁に張り付き向こうを窺う。影はもう見えない。しかし、じっと耳を澄ませてみれば話し声が小さく聞こえてくる。
内容までは聴き取れない。もっと近づかなければ――マクドウェルは奥歯を噛んで、近づいた先に身を隠せる場所がないかと通路を見回した。牢の扉が開いていればそこにひそんで話を盗み聞きできそうだが、どれも閉まっている。
施錠されていなかったとしても、劣化した蝶番が擦れ合い開けたときに音が出るかもしれない。気づかれることを警戒して、マクドウェルが判断に迷っていると、しびれを切らしたのかカールソンが壁から大胆に頭を突き出し辺りに目を走らせる。
「あっ、見て」
ひそめた声で指差した先、牢と牢の間に深い影がある。よく見ると椅子の背が飛び出している。
「ちょっとしたスペースが取られているみたいだね。あそこなら隠れて内緒話が聞けそうだよ」
耳元で囁いたカールソンはいたずらっぽく笑った。
ふたりは頷き合い、もう一度周囲を窺うと、壁に背をつけて静かに進んでいく。話し声のする方に近づくたび、悪臭がますます強くなっていく。
身を滑り込ませたその場所は、牢内を監視する者たちの休憩所であったようだ。小さな棚と椅子があり、テーブルの上には開かれたままの日誌と手燭、トランプのカード、数枚のコインが置いてある。
マクドウェルは椅子をそっとどかし、カールソンと共に闇の中に身を沈めた。声まではだいぶ近くなったが姿を確認することはできない。彼らは屈み込み小さくなって、石のように身じろぎもせず耳を澄ませる。
「――だとしたらグラーツ博士ですね」
まず聞こえてきたのはハリー・トマス神父の声だ。
「実験のためとはいえ外に連れ出すなど……まったく、なにを考えているのやら」
「博士の行為は常軌を逸しています」
腹立たしそうに口にしたのはジョンストンである。
「彼は悪魔だ。手足の指を鋏で切断し毛髪を頭皮ごと毟り取り……むりやり腕や足の骨を折って苦痛を与え平然としている」
「自由にやらせておきなさい」
「神父様!クレアは苦しんでいます。どうか少女の魂をあの男の手から解放してやってください」
「私には、苦しんでいるとは思えませんね」神父は小さく笑って、「痛みなどさほど感じていないでしょう。驚異的な治癒能力の備わった怪物なのですから」
「たとえ痛みを感じていないとしても、あんな残虐な行為は今すぐにやめさせるべきです」
「そんなにも不満ならば、手を引いていただいて結構ですよ。あの男がクレアをどうするつもりなのか、私は最後まで見届けると決めました」
「見届ける?私にはご自分の手を汚したくないように聞こえます」
「私を侮辱するのですか?身の程をわきまえなさい」
「鐘楼であなたと話をしてからずっと、ひとりで考え続けました。確かに……神父様のおっしゃるとおり、クレア・オルビーはもう人間ではない。しかし自ら望んでそうなったわけではありません。あの子は被害者だ」
ジョンストンは昂る感情を押さえるように胸元を撫で、ひとつ息をついた。
「もう人間に戻ることはできない……だからこそこれ以上苦しませず楽にしてやるのが慈悲だと、私は思うのです。博士はこの先もずっと、研究の道具として不死身の彼女を痛めつけ続けるでしょう。神は命を弄ぶことを良しとしないはず……必ずや彼の蛮行を阻止せねばなりません」
「神の意思を理解していないようですね」
「こうしてあなたと話していると……同じ宗教を信仰している者同士とは思えません。あなたの言う神の意思とはいったいなんなのです」
「ランドルフ・グラーツは命を弄んでなどいません。邪悪なる存在に鉄槌を下す使命を授かったのです。崇高な任を受けた彼を支え導くことを、神は私に望んでおられます」
感情を伴わぬ平坦な声が牢内に反響する。
「不死身と呼ばれる怪物も、首を切り落とされれば復活は叶わない。死んで地獄へ堕ちる前に、罪を贖う機会を与えることが神の代弁者たる私の役目……あの怪物が贖罪を果たせば、神は閉じたる目を開き祝福を与えてくださるでしょう」
「神の代弁者などと、いつまで戯けたことを主張するおつもりですか」
涙に震える声で、ジョンストンは続ける。
「ランドルフ・グラーツは祈祓師とは名ばかりの狂った科学者で、命を命とも思わぬ外道だ。あなたですら彼の残酷な手から少女を守れず、悲惨な運命を断つことができないならばどうか、私に許可をください。道具は用意してあります……すぐに始末してみせますから」
「なりません。あの化け物は神に赦されるまで生き続け罰を受けねばならないのです。魔に魅入られ蹂躙された魂が清められて初めて、天の国へと旅立つことができる。少女の安らかなる眠りを切望するのであれば、心が痛みつらくとも辛抱なさることです」
「どんなに罰を受けようとも、血に汚れた化け物が改心するはずがない!」
「己が無力であることを認め恥じなさい、ジョンストン殿。どんなに喚こうと、あなたは何も変えられない。私のひとりの心でさえ」
真っ赤に染まったジョンストンの目から、光る粒がこぼれ落ちる。
「――神父様。あなたも本心では、クレア・オルビーを殺すべきだと考えている。そうでしょう」
「なにを言い出すかと思えば……とうとう狂ったか。憐れな人だ」
「殺すことができないのはなぜか、その理由はご自身でよくお分かりのはず」
神父は唇を開いたが、何も言わない。
重々しい沈黙が落ちる。じっとうずくまり彼らの会話を聞いていたふたりの侵入者は固唾を呑んだ。
「神の意思だなんだと言って誤魔化すのはもうおやめください。あなたがグラーツ博士の行いを正当化し協力しているのは、彼が実験を続けてくれないと“祓いの儀式に失敗したら少女を殺せ”というレイモンド公の命令をあなた自身が実行しなければならなくなるからだ。あなたは、過激な実験に耐えきれずクレアが命を落とすのを待っている。それが叶えばご自分の手を汚さずに済みますものね」
「……」
「あなたは人殺しになるのが怖いんだ」
「断じて違う。いい加減なことを言わないでいただきたい」
「私がレイモンド公にすべてを暴露すれば、博士の野望は終わる。そしてあなたには、クレア・オルビーを早急に始末せよという命が下ることでしょう。あの男のことですから……目の前で殺害させるかもしれませんね」
表情を強張らせたトマスがにわかに震え出す。
どこからか風が微かに流れ込んできた。蝋燭の火が靡き、牢の中から伸びるふたつの影が揺れる。
「トマス神父……あなたはまだ、クレア・オルビーを人間として見ている。今こそ神の奇跡でもって御霊が救われ、本来の彼女に戻ってほしいと願っているのではありませんか?」
「黙りなさい」
「しかしいつまで経っても奇跡は起こらない。あなたはクレアが人間であるという考えを捨てられないまま博士に加担し、罪を重ねている」
ジョンストンはもう泣いてはいなかった。涙の跡を白い頬に残したまま、彼は終始静かな声音で言った。
「化け物となり苦しむ少女を置き去りにして、神はどこにおわすのか。聖典に記されたような奇跡は起こらないというのか?果たして、神は本当に、存在するのだろうか――」
「黙れ……」
「あなたは神の存在を疑い始めている」
「悪魔め!私の前から立ち去れ!」
ジョンストンは目を細めた。ややあって、恭しく一礼する。
「仰せのままに」
マクドウェルとカールソンは手に汗を握りながら彼らの話に聞き入っていたが、ジョンストンのその一言で我に返る。彼らは目を瞠ったまま視線を合わせ、動揺を互いの顔に中に見た。
ジョンストンがこの前を通れば必ず発見されてしまう。ふたりは慌てて立ち上がり、壁からわずかに顔を出した。床に落ちる影が大きく動き、鉄格子を握る白い手が見える。




