89話
マクドウェル邸の厩で、彼らは落ち合った。墨を流したような闇の中、馬が鼻を鳴らしたり蹄で藁の地面を掻いたりする音が断続的に響いている。
「しらふの君を見るのは久しぶりだ。やっといつもの調子を取り戻したみたいだね」
ランタンを灯したカールソンは、すっきりとした表情のマクドウェルを眺めて満足そうに言った。
「俺のレディは酒臭い男を嫌うからな」
愛馬の首を撫でながら応えたマクドウェルは片頬を上げて笑う。
聖ラディウス教会を訪ったあの日……ハリー・トマス神父の異常さを目の当たりにしたマクドウェルは、クレアを救出する決意を固めたのだった。
長きにわたり聖杯会を支える柱の一本として存在感を示してきた聖ラディウス教会は、教皇庁の陰の支配者であるレイモンド公の手に落ちた。この男の傀儡となり果て正気を失ったトマスは、「己の利ばかりを追求し富を隠し持つ者は神の裁きにあう」などとでたらめを言い、信徒らから大金を巻き上げているという。
彼らにこれ以上ケンプベルを壊されるわけにはいかない。クレアを保護したのち秘密裏に監禁していた教会を糾弾し、トマスを司祭の座から転落させる。そして、少女を殺すよう指示したうえ“ラムレイズ島の監獄に送られた”と配下に虚偽報告をさせたレイモンド公を失脚に追い込むのだ。
マクドウェルの最終目的がクレアの救出と治安管理局への護送ではなく、時の権力者を今の地位から引き摺り下ろすことと知って、カールソンは笑った。彼も同じ思惑を抱いていたからだ。
彼らは馬に跨り、邸宅を出た。深夜2時、誰もが家の灯りを消し深い眠りについている時間だ。
筆で掃いたような雲が夜空にたなびいている。それに隠れて星の数は少なかったが、雲の切れ間から顔を出した月が見事なまでに光り輝いていた。手綱を握る手元も今宵はよく見える。
月明かりに照らされたふたりは、用水路沿いの小道からチャペル・ロードと呼ばれている通りに出た。ここをまっすぐに進んでいけば聖ラディウス教会に辿り着くが、彼らはその道を素早く横切り、ひしめく家々が作り出す闇に紛れて静かに進んでいった。
曲がりくねった煉瓦道を抜け、星見の森に沿って作られた小路に出る。左側は鬱蒼とした森林、道を挟んで向かい側には雨水を流すための溝が掘られていた。道幅は一頭立て二輪の辻馬車がやっと通れるほどである。
彼らはマントを夜風に翻しながら、先日の雨が残る泥の悪路に馬を走らせる。
長く伸びる溝の終わりまできたとき、ようやく彼らは月下に輝く聖ラディウス教会の鐘楼を視界に捉えた。
最後の坂道を下り、教会が運営する神学校の横手にひそんで辺りを窺い見る。
教会正面に敷かれたチャペル・ロードに人通りはない。今なら正門をよじ登って侵入できると鼻息荒く主張するカールソンを軽くあしらったマクドウェルは、むくれる彼を引き連れて敷地を囲む塀を回り込み、教会裏手に広がる森の前まできてから馬を下りた。
カールソンが裏口の扉を揺らしたが、当たり前に施錠されている。
ひそめた足音すらはっきりと響いてしまうほどの静寂に、無意識に呼吸が浅くなる。彼らは苦しく息を詰めたまま、用意していたロープを使い器用に塀を上った。白砂の地面に降り立つと、マクドウェルは素早く木の陰にかくれ、周囲を慎重に見渡す。
「行こう」
同じく敷地内に侵入したカールソンはその横顔に短く声を掛け、さっさと歩き出した。目を剥いた彼は木の陰から飛び出し、慌てて後を追いかける。
「ちょっと待て、そんなにずかずか入っていくやつがあるか」
「この時間に起きてふらふらしているのなんてどうせ、ろくでもない奴さ。幽霊のふりをして驚かしてやればいいんだよ」
溜息をついたマクドウェルは目の前を歩く男の肩を掴み、
「俺が先に行く」
短く言うと、フードを深く被り直した。
回廊に面した中庭は不気味に静まり返っている。暗闇に溶け沈黙する修道院や司祭館を横目に、ふたりは建物の陰に隠れながら聖堂方面へと向かっていった。
カールソンの前を行くマクドウェルの足取りに迷いは感じられない。
マクドウェル家は非常に信心深く、彼は祖父母や両親に連れられて幼少期から聖ラディウス教会の聖堂に足繁く通っていた。7歳のときに祖父の強い希望でアルバロ少年合唱団のメンバーとなり、15歳まで聖ラディウス教会附属の神学校で学びながら寄宿舎で生活をしていたため、敷地内施設のことには詳しいのだ。




