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FATUM  作者: 紙仲てとら
第一章

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8話

 エミリアはどこかうわの空のまま救貧院の扉を開く。ひんやりとした重たい空気と独特の臭気が鼻先を掠めていき、彼女はようやく修道女としての顔を取り戻した。

 薄暗く湿った廊下には数人の男女が点々と座っていた。エミリアは院内奥へと進みながらひとりひとり声を掛けたが、彼らは反応を見せずぼんやりと宙を見つめている。みな一様に表情が暗く、枯れ枝のように痩せている。

 ここネルフィナ救貧院は、怪我や病などが原因で体に障がいを負い生活がままならなくなった者や、親を亡くした子どもなどの社会的弱者が住む施設だ。国からの支援に加え慈善団体と教会からの寄付で運営資金を賄っているがそれも微々たるものであり、生活の質は決してよくない。特に深刻なのは食事面だ。大規模な干ばつの影響で小麦の価格が高騰し、パンはほとんど提供できなくなっていた。最近では1日2回、朝晩に味の薄いミルク粥が出るのみだ。

 医務室が入っている建物を抜け、中庭に面した回廊を進んでいった先にある部屋にエミリアは入って行った。

 ここには身寄りのない者たちが数人、寄り添いあって暮らしている。皆50そこそこの年齢で、ひとりは膝の痛みのために歩けず、もうひとりは戦場で眼球に傷を負い失明していた。残りの3人はそれぞれ内臓に疾患をもっており寝たきりだ。医者は月に何度か瀉血療法を施しにやって来たが病状は一向に良くならない。

「なにやら外が騒がしいようだが」

 エミリアが近づくと、盲目の男が言う。彼は垢と染みで汚れた布で目元を覆い隠している。なにか理由があるのか、人前では頑なに外そうとしない。

 彼女は持参したパンを男の手のひらに乗せ、

「気まぐれな春風でしょう。すぐに止みますわ」

 穏やかな声でそう言った。男はふふと小さく笑う。

 エミリアは室内を軽やかに歩き回り、順々にパンを配っていく。すべての入居者の手に行き渡ると、計ったようなタイミングでドアが開き、薄汚れた前掛けをした女がスープ鍋を持って入ってきた。ネルフィナ救貧院の院長マチルダ・ロスである。その後ろから、華奢で小柄な少女クレア・オルビーが続く。彼女はその細い腕で、人数分の木椀とスプーンを抱え持っている。

 マチルダはエミリアを見て快活に笑い、

「おはよう!ああ、今日はパンの日だったね」

 エミリアは毎週金曜、この施設に焼きたてのパンを届ける役目を担っていた。修道院ではパンの他にも、バターやチーズ、果物のジャムや薬草酒などを独自に製造しており、生活困窮者が集まる施設や路上生活者に無償で配り歩いている。修道者らが持ってくる品々は、世間から隔離され娯楽から縁遠い生活を送る者にとって貴重な嗜好品の一つであった。

「今朝はごちそうよ。乾燥えんどう豆が支給されたの」

 鍋を掻き混ぜつつマチルダが言う。塩だけで味付けされたペースト状のそれは、香ばしい湯気を立てている。

「いいにおい。おいしそうね」

 笑顔でつぶやいたエミリアに反し、ベッドに寝ている男のひとりが不満そうに口にする。

「また豆か……。もっと栄養価の高いものを食べたいもんだ」

「すべては神が私たちに望まれたこと。感謝していただきましょう」

 マチルダは優しくそう言いながら、クレアから椀を受け取る。エミリアも手伝い、別の部屋に住む者たちにも配り終えたところで、食事の前の祈りを捧げた。

「俺の番だったな」

 そう言うと、盲目の男が両指を組み頭を垂れる。他の男達もそれに倣い、部屋の中は水を打ったように静まり返った。

「天地の母クインレスタの慈悲と愛に感謝してこの食事をいただきます。数多の命を我らの糧とすることをお許しください。天と地と聖なる御身に、とわの栄光があらんことを」

 彼の声は湖面に広がる静かな波紋のようだ。低くしゃがれているが、不思議とよく通る。目を開けたエミリアは、同じく祈りの手をほどいた盲目の男を見つめた。

 彼の名はモーリス・ハミルトン。退役軍人である。

 15歳で入隊してから異例の速さで昇進し、陸軍司令官として国王軍の勝利に多大な貢献をした胆力のある男だ。軍人特有の他者を遠ざけるような威圧感はないが……かといって親しみやすいともいえない、独特な雰囲気の持ち主である。

 彼は12年前に戦地で視力を失い、生まれ故郷であるこの町に戻ってきた。介助が必要であったが離縁しており身寄りがなかったため、友人の勧めでこの施設へ入り、静かに余生を過ごしているという。

 祈りを終え、食事が始まる。

「シスター、こっちですこし休んでいってよ」

 手招きながら言ったマチルダは、返事を聞く前に扉の向こうに消えてしまう。その後を追うクレアに続き、エミリアも部屋を出た。

 火の気のない調理場は、静寂に満ちている。スープの残り香が漂う中、彼女たちは作業台に沿って並ぶ小さな椅子にそれぞれ腰を落ち着けた。

 マチルダは木製のカップにミルクを注ぎエミリアに差し出す。

 通りに面する窓の向こう、忙しなく人々が行き交うのを無心に見つめながら、3人は黙ったままミルクを飲んだ。しなびた果物の入った紙袋がテーブルの上で乾いた音を立てている。隙間風が酷い。

「厳しい冬だったわね」

 マチルダがぽつりと言った。

「肺炎で乳児2人と5歳の子が亡くなって、低体温症で運ばれてきた3歳の子も助けられなかった。……たった一週間の間に4人の子どもの最期を看取ることになるとは思わなかったわ。こんなことは初めてよ」

 エミリアはミルクのついた唇を指で拭い、沈痛な面持ちで相槌を打つ。

 救貧院の建物は老朽化しているが修繕費はなかなか集まらず、壊れた窓や扉は院内の人間の手で間に合わせのように補修されているだけだ。隙間風のせいで暖炉ひとつでは部屋全体を温めるに至らず、真冬の時期は屋内だというのに凍えるほどだった。

 この過酷な環境の中でまず犠牲になるのはか弱い幼子たちだ。飢えや寒さは小さな体から気力体力を容赦なく奪い、冷たい手で魂をさらっていってしまう。生き延びるために救貧院へやってきたというのに、入居してからたった数日で消えてしまう命もあった。

 つい先日もエミリアは、トマス神父と共に幼子たちの葬儀を執り行った。木製の粗末な棺に、満足に腹を満たせず骨と皮だけになった遺体が納められ、氷のような土中に埋められる光景は今もまぶたの裏に焼き付いている。自分たちにできるのはただ、祈りを捧げること、そしてひとりひとりの死を忘れないことだけだった。

 次は食べ物の腐りやすい季節がやってくる。暑さもまた多くの命を奪うのだろう。エミリアは暗澹たる気持ちになり、そっと溜息をついてマチルダの方を見る。

「今冬は流感が国内外で猛威を振るったと聞きました……寒さが緩んだからか、現在はだいぶ落ち着いたようですが」

「クレアも流感に苦しんだのよ。命を落とさなくて本当によかったわ。神が救ってくださったのね……この子は信心深いから」

 言いながら彼女は、豆のペーストが入っている椀に目を落としているクレアを見つめた。少女はいたずらにスプーンで器の中を掻き混ぜるばかりで、一向に口をつけようとしない。

 エミリアとマチルダの視線が自分に注がれていることに気づいた少女は、汚れた作業台に椀を置き、おもむろに口を開いた。

「病気で動けなかったとき、毎日おなじ夢を見たの」

「夢?」

 エミリアが問うと、クレアは栗色の大きな瞳を輝かせ頷いた。

「妖精の夢よ」

「クレア……その話はもうしないようにと言ったじゃない」

 眉根を寄せ咎めるマチルダを見て、クレアは唇を引き結ぶ。しかし、なにか引っかかるものを感じたエミリアはその先を促した。

「よければ詳しく聞かせてくれない?」

「……きれいな金色の髪の妖精が私を抱きしめて首にキスをしてくれるの。そうしてもらうと、息をするのが楽になるのよ。でもその代わり――」

「お黙り、クレア」

 マチルダがぴしゃりと遮ったそのとき、通りから甲高い叫び声が上がるのが聞こえた。

弾かれたように立ち上がったエミリアが外へ駆け出る。マチルダとクレアは窓辺に近寄り、恐る恐る通りを覗き見た。

 その光景を目の当たりにしたマチルダは、とっさにクレアの目元を手で覆い窓から引き離す。

 往来に飛び出したエミリアも声を失い立ち尽くしていた。

 砂埃舞い上がる冷たい道には、額にエピヌの星が描かれたルトマイア公エリック・デュランの頭部――そして、彼の切断された四肢と内臓が散らばっていたのだ。

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