86話
エミリアが絶望に打ちひしがれるなか、博士の血と精気を飲み干したクレアは満足そうに息を吐き顔を上げた。濡れた口元が薄闇に赤黒く光る。
気を呑まれたエミリアは動きを止めてクレアを見つめた。少女の丸い瞳は見慣れた栗色に戻っており、静かにこちらを見つめ返してくる。
しばらくそうして視線を交わしていたが、クレアはふいにうつむき、血と垢で汚れた自分の手に目を落とした。鋭い爪や手のひらをしげしげと眺めていたかと思うと、すっかり変わり果てた博士から離れ、濃い闇が溜まる暗がりへと後ずさる。
少女はその中で膝を抱えうずくまった。行動を見るかぎり、先程までの凶暴性は微塵も感じられない。
「エミリアおねえさま、ごめんなさい」
鈴の音のような声と共に、すすり泣く気配がした。
それはいつものクレアだった。心やさしく、寂しがりやですこし臆病な、エミリアのよく知る少女だった。
「クレア……」
そっと呼びかけた彼女は、涙をこらえながら言った。
「一緒にここを出ましょう。大丈夫……あなたのことは私が守るわ」
しかしクレアは首を横に振る。エミリアから顔を背け立ち上がり、血に濡れた唇を傷だらけの腕で拭うと、近くの手摺に足を掛けてひょいと上った。
そして肩越しに振り返り、小さな手のひらを振る。
「さようなら……おねえさま……」
涙声で言い残し、少女が飛び降りようとしたときだ。エミリアの横を素早く駆け抜けていく影があった。節くれだった無骨な手を伸ばし、少女の華奢な腕を強く掴んで引き留める。
「おっと……満腹になったからって逃げるのか?そうはいかないぞ、クレア……」
聞き覚えのあるしわがれた声が響いた。月を隠していた雲が風で流れ去り、淡い光がその人物の横顔を照らし出す。
現れたのは、盲目の男。意味深な言葉を残しネルフィナ救貧院を去ったモーリス・ハミルトンである。
驚きのあまり声を失っているエミリアの方に振り向いた彼は、おもむろに顔を上向かせ風の匂いを嗅いだ。ややあってひとつ大きく息を吐くと、口角を吊り上げる。
「この匂い……スイートバイオレットとマグノリアか。そこにいるのはシスター・エミリアだな?」
笑いを含んだ声で言うなり彼は、ひらりと翻した銀のナイフでクレアの胸の中央を刺し貫く。少女はゼンマイ仕掛けの人形のように手足をぴんと伸ばし、ぎこちなく首を回らせてエミリアを見た。そして光を無くした目を大きく見開いたまま床に頽れる。
強い怒りの感情がエミリアの顔に広がる。盲目のモーリスには彼女がどんな反応をしているかわかるはずもなかったが、
「そんなに怒るな。殺しちゃいない」
まるで見えているかのようにそう言うと、馴れた手つきで少女の両手足を拘束し、歯と歯の間に銀貨を噛ませる。
「見て見ぬふりをして祈りの日々を過ごしていればよいものを。なぜこんなことに首を突っ込んでしまったんだ?シスター。一介の修道者がヴァンパイアに勝てるとでも?」
「――ヴァンパイア……?」
「やれやれ……存在すらも知らないのにしゃしゃり出てきたあげく捕まったってのか?あきれたもんだ」
肩を竦めた彼は意識を失っているクレアを抱き起こし、鎖骨部分に刺さったままになっているクロスボウの矢を引き抜いた。
「さて、俺は邪魔者が来る前に退散するよ。あんたはもうすこしここで自分の軽率な行いを反省していろ」
「待ってちょうだい!ヴァンパイアとは一体……」
「人や動物の血を糧として生きる不老不死の魔物だ。ひどく残酷で厄介な連中さ……気に入った人間は生かし眷属として迎え入れるが、ただの餌と見れば体内の血液をぜんぶ吸って殺しちまう。命を危険にさらしたくなかったらいたずらに首を突っ込むのは止すんだな」
そこまで言って彼はふと動きを止め、床に倒れているランドルフ・グラーツ博士の方に振り返る。
「ああ……あれの後始末をしないと」
手で弄んでいた矢を薄闇の中に放り投げ、溜息をついた。クレアの体を再び横たえると、彼は肩に担いでいる麻袋を揺らしながら亡骸に近づく。凄惨なその死に様を改めて目の当たりにしたエミリアは、青褪めた顔を伏せた。
博士の死を悼む彼女をよそに、モーリスは遺体のあちこちを触りながら興味深そうに頷いたり唸ったりしている。
そんな彼を横目で見たエミリアは涙に濡れた声で問うた。
「あなたはいったい何者なんです……盲目とはとても思えない」




