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FATUM  作者: 紙仲てとら
第三章

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85話

「あなたは偽善者よ……つまらないおしゃべりはやめて、さっさと殺しなさい」

 エミリアは涙の浮いた目で睨みつけ、吐き捨てるように言う。怒りのためか恐怖のためか、彼女の体は激しく震えていた。その姿を憐憫のまなざしで見下ろしながら博士は嘲笑い、

「怒らせて殺意を引き出したいのでしょうが、そんな安っぽい挑発には乗りませんよ。邪魔者を排除するなら体の機能をいくつか奪うだけで十分だ」

 甘やかすような優しい声音で言うと、瓶に入った液体を彼女の目の前で揺らしてみせる。

「この液体はただの酢です。硫酸のように大きな損傷を与えられるわけじゃないが、貝のごとく閉じた口を開けてくれる優秀なものでね。とても重宝しているんだよ。さあ、舌を切り落とされる前に一言どうぞ?言いたいことがないなら私と一緒に聖典の詩篇でも暗唱するかい」

 うつむいたエミリアは、まぶたをきつく閉じ歯を食い縛っている。その様子を見て息だけで笑うと、グラーツ博士は片手で器用に小瓶の硝子栓を抜いた。

「どこまで我慢できるかな。口を開けたら、君の負け。舌は私がもらうよ」

 後頭部の髪を掴んで顔を仰向けさせ、恐怖に震えるエミリアの額にくちづける。絶望に染まるかんばせは、哀れなほどに蒼白だ。涙に濡れ見開かれた菫色の目が、博士の狂気の顔を映している。

「口もきけず、指を組み祈りを捧げることもできぬとあれば、修道女としての務めも儘ならないでしょうねえ。教会を追い出されたらレムウォードにある私の屋敷においでなさい。悪いようにはしないから……」

 低めた声で囁いたグラーツ博士は、生乾きの血がこびりついたエミリアの小さな鼻の孔に瓶の口を当てた。

 強烈な刺激臭が漂う。吸い込まないよう必死に息を詰めている彼女の苦悶の顔を覗き込み目を細めた博士は、やおら瓶を傾けた。

 冷たい感触が肌を濡らす。鼻から喉に流し込むつもりなのだ。刺激に我慢できず咳き込んだ瞬間を狙い、口を抉じ開けてくるに違いない。舌を切り取られることが急に現実味を帯び迫り来て、冷たい汗が全身に滲むのを感じた。

 エミリアは下ろしていたまぶたを薄く開け、

(“天地の行いは神の御心のもと正しく裁かれる”……)

 頭上にぶらさがる鐘を見つめながら「死者のための賛歌」の一節を胸中で唱えた。

 そのときだ。

 何かが博士の背中に勢いよく飛びついた。彼はその重みに耐えきれず体をのけ反らせ、ほとんど仰向けの格好で転倒する。傍にあった木箱に頭をぶつけた衝撃で小瓶が手から落ち、中身が石造りの床に流れ出た。

「くそっ……誰だ!」

 痛みにあえぎながら上体を起こすと、足元から這い上ってくる四つ足の黒い塊が目に飛び込んできた。その正体を薄闇に見たエミリアが叫ぶ。

「クレア!」

 エミリアの声に博士は、まさかと息を呑んだ。その次の瞬間、黒い塊が――聖なるメダリオンに魔力を奪われ昏倒したはずのクレア・オルビーが、眼前に迫り視界を覆い隠す。

 少女は複雑な響きを持つ言語でなにやら囁くと、汚れた爪の先で彼の喉元を優しく引っ掻いた。三日月形をしたふたつの青白い光は稲妻のように鋭く輝いている。

 その光に魅入られたか、博士は動きを止め、まっすぐにクレアの目を見つめた。なにか言いたげに口を開くも言葉にならずただ空気を噛むばかりだ。

 首を傾げ見下ろしていた少女は、おもむろに上体を屈め彼の喉仏を唇で食む。引き攣れた短い叫びと共に背を弓なりにしならせて、彼は弱々しい声を切れ切れに漏らしながら震え出した。

 小さな舌がひたと当てられ、吟味するように肌を辿る。

 少女と長く目を合わせたことで精神が汚染されたか、博士は抵抗もせずされるがままになっている。震えがおさまると共に体が弛緩し、骨のない人形のように四肢を投げ出したままぴくりとも動かない。表情が抜け落ちて唇はだらしなく緩み、まばたきを忘れた両目はぼんやりと宙を見つめている。

 さまよう舌先が鎖骨を辿り、首の付け根にある擦り傷に辿りつく。どうやら転倒したときに木箱の角で負傷したらしく、鮮血が滲んでいる。その傷口をえぐるように舌を動かしていたクレアは、血の痕に鼻をこすりつけながら大きく息を吸い込んだ。そして、もう我慢ならぬというように大きく大きく口を開くと、首筋にむしゃぶりつく。少女の冷たい牙が皮膚を容赦なく突き破ったそのとき、博士はようやく我に返り絶叫した。

 断末魔の叫びを聞きながら、クレアはうっとりと目を細める。大人の男の抵抗をものともせず、べったりとへばりついたまま――少女はその鋭い牙を肌の奥深くにまで穿った。瞳は白くぎらぎらと発光し、まるでふたつの月が夜空に浮かんでいるかのように見えた。

 エミリアは博士を助けるべく、身を捩り拘束を解こうとした。荒縄がこすれ擦り切れた肌に灼けるような痛みがはしったが、躊躇せず思い切り手首をひねる。しかし頑丈な結び目は一向にほどけない。

「誰か!」

 エミリアは声の限りに叫んだ。だがその悲痛な呼びかけに応える者はいない。

 そうしている間にもグラーツ博士はクレアに血と精気を吸い取られ続けている。彼の眼窩はみるみるうちに落ち窪み、肌の張り艶が失われ骨と皮だけの姿へと変貌していった。

 乾いた唇がぱくぱくと動き助けを求めているのが見える。縄に捕らわれたままのエミリアは、髪を振り乱しながら必死にもがいた。

「誰か!誰か来て!」

 血を吐くような叫号は辺りにむなしく響き、夜闇に吸い込まれ消えていく。

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