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FATUM  作者: 紙仲てとら
第三章

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84話

「魔封じの儀式など気休め程度でほとんど効いていないだろうと考えていたが……聖なる力はやはり偉大」

 彼は誰にともなく言いながら、銀製のメダリオンを翳しクレアに近づく。クインレスタのレリーフを見るなり少女は言葉にならない声を上げ、床を這って逃げ出した。博士は薄ら笑いを浮かべながら、じりじりと壁際に追い詰めていく。

 逃げ場をなくし石積みの壁に背をつけ座り込んだクレアは、獣のような唸り声を上げ博士を睨めつける。歯を剥き出して威嚇してくる少女の目の前で片膝をついた博士は、頭頂部の髪を鷲掴み強引に仰向かせた。

「これは神の愛。ありがたく受け取りなさい……」

 囁くと同時、垢で黒ずんだ額の中央にメダリオンを押し当てる。肉の焦げる音と甲高い絶叫が夜のしじまを切り裂いた。

 体に強烈な電流を流されたかのように痙攣しながら、クレアは口の端から泡を吹く。抵抗しようとしたのか博士の腕を掴んだがそれ以上なにもできず、やがて食い縛った歯の隙間から細く長く息を吐き、白目を剥いてがくりと項垂れた。

 まばたきも忘れ凝視していたエミリアは茫然とつぶやいた。

「まさか、殺したの……?」

 問われた彼は頭を横に振って否定し、少女の額からメダリオンを離す。

「いやあ、待つのは大変でしたが実に有意義な一日でした」

 からりとした声で言う。唇を引き結び黙り込んだエミリアを横目で見ながら、淡々と言葉を続けた。

「たっぷりと陽光を浴び、極限まで弱った状態で夜を迎えたときどういう行動を取るのか観察していたんです。夜闇から力を得て活性化するのか、それともなにもできず朝陽に焼かれるのを待つのみなのか……」

 エミリアの表情がみるみるうちに険しいものになっていく。敵意のこもった視線を受けながら博士は、満ち足りた微笑を口元に刻んだ。

「貢献してくれたあなたに、今回の実験についてすこし教えてあげましょう」

 クレアの髪から指を抜いた博士は立ち上がり、ゆったりとした足取りでエミリアに近づく。

「ここは聖域。神の敵は侵入しただけで力を削られてしまいますから、悪魔や魔物はよほどのことがない限り近づこうともしません。そんな場所に不死身の魔物を監禁し、肉体と精神に高い負荷をかけたらどうなるか……私は複数の研究結果を踏まえて、精神を保てたとしても肉体が維持できなくなり死に至るという仮説を立てていたのですが、結果は御覧の通り。苦手とする太陽の光を浴びて傷つきどんなに弱っても、死せず生命活動を維持している」

 ふいに言葉を切ると、並び立つ石柱が作り出す濃い影の中に足を止めた。唇の隙間からのぞく歯だけが仄白く浮かび上がっている。

「今日の実験結果を見るにこの生き物は、極限まで飢えたり肉体が損傷すると昏睡状態となって体力を温存し、獲物が現れるのをひたすら待つという行動を取るようだ。そして、いざ餌を前にすると凄まじい生存本能を発揮する。このとき重要なのは血のにおい。これを嗅ぎつけて眠りから覚め……残していた最後の力で獲物を襲い、仕留め、喰らう」

 彼はエミリアの鼻の下や唇に流れた血の痕を見つめ、目を細めた。

「君の血が少女を目覚めさせた。逃げずに私たちに立ち向かい抵抗してくれたおかげで新たな知見を得られたよ。ありがとう」

 この状況で一方的に感謝され、エミリアは底知れぬ不気味さと不快感を覚えた。彼とは同じ言語を話す者同士だが、どんなに言葉を尽くし対話を重ねたしたとしても永遠にわかり合えない気がした。

 つま先の向きを変えた博士は汚れた椅子に歩み寄り、背凭れに引っかかっている縄を手に取る。

「それにしても……結界の外とはいえ、まさかこんなにも簡単に拘束を解くことができてしまうだなんて。観察していたが実に見事だ」

 彼女の体がぐにゃりと歪み、物音ひとつ立てず縄をすり抜けたのを、グラーツ博士は階段の暗がりから見ていた。そしてゆっくりではあるが再び人の形に戻ったところも。未熟な下級ヴァンパイアが自らの体を変化させる瞬間を確認できたのは初めてだ。

「あの怪物は私が考えていたよりも能力が高いのかもしれない。とても興味深い」

 独り言ちる博士を、エミリアは眼光鋭く睨み据える。しかし博士は動じる様子もなく手の中の縄を放ると、

「さて、そろそろ解放してさしあげましょう。怯えることはないよ。さっきも言った通り、あなたを殺めるつもりは毛頭ないから安心なさい」

 やけに明るい口調で言って、黒革の鞄から液体の入った小瓶を取り出す。それからロールケースを開き、メスの刃にこびりついた汚れを布で拭いながらエミリアに振り向いた。

「生きて帰ることができるといえども……舌と手首を切り落とされる痛みはどんなにか辛いでしょうね。もっと慎重にならねばならなかったな、君は」

「悪事を公表されることを恐れているのなら、そんな手間をかけず一思いに殺せばいい。命乞いはしません」

「殺せ、だって?はは。声が震えているよ。死の影に怯えているくせに、本当に威勢のいいお嬢さんだ」

 笑いまじりに言葉を返し、天を指差して続ける。

「“汝、殺すなかれ”。私とて聖職者の端くれだ、神の言葉に逆らうことはしたくありませんし、レイモンド公のような他人の命を軽視する悪漢になるつもりもない。上からの命令で長年あの男に仕えていますけど、最近の言動には正直うんざりしているのですよ。なにしろ、邪魔者と見るとすぐに『殺せ』。この一言ですから」

 言いながらエミリアの前まで来ると、静かに手を伸ばし顔に乱れかかる亜麻色の髪を指で梳く。

「みなは私を冷血な男だと言うが、人並みの慈悲は持ち合わせているつもりです。目障りだからといって命まで奪うことはあるまい。かわいそうじゃないか」

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