83話
冷えた夜風に頬を打たれ、エミリアはゆっくりと頭を上げた。
拘束されてからどれほどの時が経ったのだろう。一時間ごとに鳴り響く鐘の音で日の入りまでは時刻がわかったが、夜7時から朝の6時までは鳴鐘が途絶えるため時間の感覚は失われてしまっていた。
鐘楼のそばを通っていく者たちの声が聞こえてくるも、布を噛まされているせいで助けを呼ぶことができない。何度ももどかしい思いをしたが、彼女は救いの手が差し伸べられることをあきらめていなかった。焦らずともいずれ、消灯前の点検のため見回り当番がここにやってくる――今日の担当者が、面倒くさがらず鐘楼の最上階を確認しにくるような責任感の強い修道者であれば、必ず。
わずかな可能性に賭け、彼女は漆黒の闇に塗り潰された視界の中、じっと耐えた。
静かだ。夕方5時を告げる鐘が鳴り終わったのち階段を下りていく複数の靴音を聞いたが、それ以降戻ってきた気配はない。
クレアはまだ拘束されたままここにいるのだろうか。それとも連れていかれてしまったのだろうか。
エミリアは暗澹たる気持ちで、少女の痛ましい姿を思い起こす。
おそらく彼女はずっと、聖堂の地下に閉じ込められていた……ラムレイズ島にある監獄に送られたという治安判事長ジョルジュ・ベルティの言葉は真っ赤な嘘だったのだ。
まさかこのことをトマス神父が知らぬはずはない。ランドルフ・グラーツと名乗るあの男が明かしたとおり、彼は教皇庁側の人間と手を組んで少女を監禁していた。
瘦せ細った体に刻まれた生々しい傷や注射痕はすべて、グラーツ博士の言う“実験”によるものであろう。修道者や信徒が安寧の祈りを捧げる聖堂の真下で、年端も行かない子どもが非人道的な扱いを受けていたのだ。
クレアは確かに罪を犯した。よって、罰を受け償わねばならない。だが実験と称した数多の残虐な行為を教会が容認し、償いの方法として正しいとの判断を下したとするならば、あまりに無慈悲だ。
冷たくなった手指をきつく握り締め、エミリアはまぶたの裏に広がる黒を見つめた。
なんとしてでもクレアを神父らの手から救い出し町の外に逃がさねば――彼女は自分を奮い立たせ、なんとかして拘束を解こうと手首を思い切り捻る。縄が食い込み血が滲むのも構わず……
そのとき、何かが落ちる音がした。軽く、乾いた音だ。咄嗟に息を詰めたエミリアは首を回らせ身構える。
ひた、と石の床を踏みしめる音。静寂に漂う荒い息遣い……聞こえてくる微かな足音はどこかたどたどしい。遠退いては近づき、ふらふらと彷徨う。しかしその気配は確実に自分の元へと迫ってきていた。
湿った風が石柱の間を縫ってエミリアの顔に強く吹きつける。その瞬間、強い異臭が鼻を突いた。続けて、太腿に何かが触れ、優しくさすってくる。
グラーツ博士ではない。側近のあの大男たちでもない……とても小さな手だ。
恐怖が背筋を這い上がってくるのを感じながらエミリアは、身じろぎもせず息を殺している。拒絶されないことに安心したらしく、異臭を放つそれは胸元に頭を寄せ、甘えるように頬ずりしてきた。
触れてくる手や頭の大きさからして、子どもであることは間違いない。すこし前、幼い兄妹が教会に忍び込み鐘楼に隠れ住んでいたことをエミリアは思い出した。そのときは逃げられてしまったが、もしかしたらまた戻ってきたのかもしれない。
やがて満足したのか、小さな手と頭が離れた。気配が遠のいていくのを感じたエミリアは前のめりになりながら叫ぶ。
「待って、行かないで!縄を――」
そう言いかけ、彼女は口を噤んだ。背後から囁き声がしたのだ。なにを言っているのかと耳を澄ませているうちに、目隠しと口枷が外された。
突如として開けた視界の中、ぼんやりと暗闇に浮かんでいるのは古ぼけた椅子だ。
クレアが座っていたはずだが、その姿はない。椅子の背凭れに引っ掛かった縄が頼りなく風に揺れ、座面には汚れた布きれが落ちている。
先ほど体に触れてきた手の大きさを思い出し、エミリアは愕然とした。
あれはクレアだ。自ら拘束を解いたのだ――そうとわかった瞬間、黒い塊が背後から突然現れまっすぐに顔を覗き込んできた。
エミリアは石像のように固まったままそれに見入る。すると獣の吐く息のような、淀んだ沼の泥のような……強烈な悪臭を放つその黒い塊に、ゆっくりとふたつの切れ込みが入った。
あのときのリュシアンと同じ、白銀の目だ。まるで内側から発光しているかのように淡く光っている。
ぎょろりと目玉を動かし、至近距離でエミリアを見つめる。闇よりも濃い黒色をした塊は面白がるように双眸を細めると、奇妙な声でなにか言い、喉をころころ鳴らした。ぱかりと口が開き、粒揃いの歯と鋭い牙が覗く。
笑っているのだ。
エミリアは恐怖に目を見開いたまま声も出せない。震えるばかりの彼女の首元に、細い腕が伸びてくる。長く鋭い爪が修道服の立襟をなぞった。
いびつだった黒い塊はいつのまにかはっきりと人の形になっていた。それは確かに、エミリアのよく知る少女……クレア・オルビーである。
彼女は嬉しそうに笑い声を上げながらエミリアに覆い被さった。乱暴な手つきで頭のベールを剥ぎ取り、髪や耳、首まわりに小さな鼻を押し当て、しきりに匂いを嗅いでいる。しばらくそうしていたかと思うと、荒々しい呼吸と共に襟の内側に指を差し込み、ぐいと強く引っ張った。ボタンが弾け飛び、無防備な首筋が外気に触れる。
湿った舌で喉を舐め上げられ、エミリアは体を硬直させた。きつくまぶたを閉じ、色を失くした唇をわななかせる。
「クレア、離して……」
懇願は聞き入れられず、むなしく辺りに溶け消える。
「――お願い……」
彼女は涙声になりながらなおも言った。それでもクレアは呼びかけに反応することなく、しがみついたまま喉を甘噛みしてくる。
窮地に追い込まれたエミリアは、ほとんど無意識のうちに祈りの言葉を唱えた。するとまもなく耳を聾する悲鳴が響き渡り、体を押さえつけていた重みが消え去る。
恐る恐る目を開き呻き声のする方に首を回らしてみれば、クレアがもんどり打って倒れたところだった。
身の内に巣食う邪悪なるものを聖なる祈りが退けたかと思ったがどうやら違う。少女は急襲を受けたのだ。左の鎖骨部分に、クロスボウの矢が深々と突き刺さっている。
「なるほど。結界の外に出るとここまで力を発揮することができるのか」
乾いた声がし、階段横に立つ柱の陰からグラーツ博士が現れた。




