81話
傷顔の男はエミリアを睨み据えながら、抱えていた椅子を地面に落とした。鼻の付け根と眉間に深い皺を寄せ、威嚇するように喉を鳴らし唸ったかと思うと、その巨体をふるわせて猪のように突進してくる。
恐怖に顔を引き攣らせたエミリアは、木に立てかけておいたタンパーを素早く掴み取った。その勢いのまま大きく振りかぶると、襲い来る男に向かって思い切り打ち下ろす。
無我夢中の彼女の目に、男の歪んだ顔面が映る。角ばった金属の一辺が、彼の首の付け根に当たったのだ。
まさか反撃してくるとは思わなかったのだろう、痛烈な一撃をもろに食らった傷顔の男は短い叫び声を上げてよろめく。タンパーの重みと殴りつけた衝撃でバランスを崩しながら目の端でそれを見届けると、エミリアは少女の元に駆け寄った。
「クレア!なぜこんなところに……」
そのときエミリアは陽光に照らされたクレアの異様な様子に気付く。その白い肌に、みるみるうちに火ぶくれができていくのだ。しかし彼女に痛みや熱さを感じている様子はなく、死んだように動かない。口枷の隙間から涎を垂らし首をぐにゃりと横に倒したままだ。
「しっかりしてクレア!」
呼び掛けながら縛られた結び目を解こうとするエミリアの背後に、短髪の男がぬっと立った。
「邪魔をするな……」
憎悪を含んだ野太い声が頭上から降ってきたかと思うと、強い力で襟首を掴まれる。抵抗するエミリアの頬を張り飛ばし、男は地面に倒れ伏した彼女のスカートに唾を吐きかけた。
燃えるように熱い左頬を押さえ、エミリアは頭を上げた。鼻の奥から垂れてきた血が唇を伝い、顎先からこぼれ落ちる。ぐらぐら揺れる視界の中、呻きながらようやく体を起こすと、ふたりの大男の傍にもう一人、見たことのない人物が立っていることに気づいた。
ぼろを纏った彼らとは違い、その男は仕立ての良い薄手のショートジャケットを羽織り、漆黒の乗馬ズボンを穿いている。清潔に整えられた衣服やその凛とした佇まいから身分の高さが窺える。
「見られてしまったか」
薄い唇にほのかな笑みを湛えたまま、紳士はつぶやく。
その言葉に続けてひとつ溜息をつくと、傷顔の男の方に目配せをした。指示された彼は心得たとばかりににやりと笑い、指の骨を鳴らしながら大股でエミリアに迫ると、勢いよく胸倉を掴み上げる。
地面から離れたつま先で宙を蹴りながらエミリアは必死にもがいた。しかし傷顔の大男はそんな抵抗などものともせず、彼女の体を肩に担ぎ上げ、聖堂の外階段を上っていく。
聖ラディウス教会の鐘楼は他の教会の鐘楼と比べてフロア面積が広い。鐘のある最上階は30人ほど収容可能なつくりになっており、祭壇が設けられている。クインレスタの降誕祭が行われる12月12日、ケンプベルでいちばん天に近いこの場所で神に祈りを捧げるためだ。
そこに辿り着くと同時、エミリアは乱暴に投げ捨てられた。体を強く打ち痛みにあえぐ彼女を後ろ手に縛り、石柱の一本に括り付けると、傷顔の男は今来た階段を下っていく。
代わって姿を見せたのは先程の身形の良い紳士だ。彼は靴底の音を軽快に響かせながらエミリアのすぐ傍にまで近づいた。
「聖杯会にこんなにも見目麗しい修道女がいたとは」
柱に縛りつけられ、荒縄がきつく食い込んでいる肉体を上から下まで見て舌なめずりする。そして指先で彼女の小さな顎を掬い上げると、菫色の瞳を覗き込んだ。
じっとりと湿った視線に耐えきれず目を伏せたエミリアは、彼のジャケットの襟に輝く小さなブローチに気づき眉をひそめる。
「梟の紋章……――教皇庁の人間がなぜここに?」
「おや。その様子だとトマス神父からなにも聞いていないようだね」
エミリアの唇を親指でなぞり、男は目を細めた。
「私はランドルフ・グラーツ。以後お見知りおきを」
名を耳にしたエミリアは菫色の目を大きく見開き言葉を失う。
この男が、かの有名なセルリオス教皇庁の祈祓師ランドルフ・グラーツ……まさかこんなところで出会うとは夢にも思っていなかった。
「博士。連れてきました」
ふたりの大男が椅子に拘束されたクレアを運んで上がってきた。肩越しに振り向いたグラーツ博士は汚いものでも見るような目で少女を見遣り、
「そろそろ陽が沈む。急がなければ」
誰にともなく言いながら、左手に提げていた鞄を開く。




